第2話 生命管理委員会

 22世紀後半、いまだかってないほど強力な新型ウイルスにより人類は全人口の99%を失った。ウィルスの脅威は依然残っているが、人類はウィルスの囲い込みと人口の急激な減少の歯止めにかろうじて成功したのだった。


 しかし、生産人口の急激な減少による社会システム存亡の危機は続いていた。

 そこで生き残った人々は早急な出生率の向上を図るために、出産と子育てを社会全体でサポートする「生命管理委員会」を立ち上げたのだった。


 子供たちは、生まれると直ぐに生命管理委員会の厳しい審査を受けた優れた夫婦に預けられる。出産直後の授乳や子育てと言った出産後の女性に対する膨大なストレスを軽減することで、若い女性が仕事を続けながら多くの子供を出産しやすい環境を作るためだ。


 人類を滅亡寸前まで追い込んだウイルスの影響により、人工授精や代理母といった体外受精による妊娠はことごとく失敗してしまうのだった。

 結局人類には自然妊娠とそれに伴う出産による人口増加を図る方法しか選択する道が残されていなかった。


 そのために、生命管理委員会は妊娠した女性に対して社会全体で最大限の敬意をはらい妊婦を最優先の保護対象とするために、妊娠したことが誰にでも分かる妊娠マーカーを導入した。

 これは、旧来妊産婦が持っていた妊娠バッジといった控えめな妊婦表示を表す『おまもり』ではなく、緊急時にも本人の意思にかかわりなく妊産婦である事を明確にするために体の目立つ部分に現れる体表マーカーだった。

 

 当初導入された妊娠マーカーは若い女性には不人気であった。しかし大手アパレルメーカーが妊娠マーカーを持つ女性に割引や優先購入券を与えたり、大手流通グループが買い物割引券を与えたりする事により、女性の一定数には支持されるようになっていった。


 そうやって妊娠し出産する事に対して社会的な認知度の向上が図られる事で若い女性の出産への抵抗が少なくなり少しずつではあるが出生率が上がり始めていた。


 しかし、生まれた子供を社会全体で育てる方針は、時に出産した母親と子供のとの絆が希薄になるといった新たなる課題を生んでいた。そのために出産後に完全に母子を切り離なさずに緩やかなつながりを残す必要があった。

 また、出産直後の乳幼児の世話をする苦労はなくなったが、出産後の母乳提供といった母体特有の負担が軽減されるわけではなかった。

 そのような背景から出産後の女性に対しても何らかの優遇措置を取るべきだという声が経産婦から挙げられてきていた。


 そこで、生命管理委員会は妊娠マーカーを延長し妊娠・出産・経産婦を明確に表せる新たなマーカーを作りだした。それが経産婦マーカーだった。

 そしてその経産婦マーカーを持った女性に対して多くの企業が経済的にも社会的にも優遇な措置を行う事を積極的に発表する事で、多くの女性にとって経産婦マーカーが自然なものとして徐々に受け入れられていったのである。


 ――

 

 経産婦マーカーは、22世紀に急速に発達した生体工学の応用であるウイルス調整テクノロジーのたまものだった。

 ウイルス調整テクノロジーとはウイルスのDNAを改変する事でウイルスの特性を調整する技術だった。調整されたウイルスは体細胞に侵入し、ウイルスが生き続ける限り体細胞に特別な性質を与えるのだ。


 妊娠した女性は、固有のホルモンを分泌する事で女性が妊娠出産に耐えられる体に急速に変化していくのは20世紀後半から知られていた。その応用として低価格でも検出能力の優れた妊娠検査薬が出現し多くの女性に利用されてきた。


 生命管理委員会はマーカーを女性の体表に出現させる手段の開発を世界中の研究機関に対して要求した。その内容は妊娠時のホルモンをトリガーとして女性の特定部位に沈着色素を固定するように、体細胞を変異させるウイルスを調整する技術の開発だった。 


 ところが、ウィルス調整テクノロジー自体はまだ生まれたばかりの技術でありDNA配列とウィルスの特性は未知の部分が多かった。そのため生命管理委員会の要求に対して完全な解を提供したのは、極東の島国のある研究所だけだった。


 ――

 もちろん、女優やモデルといった特別な理由で経産婦マーカーを出産後に消したいという女性も数多く存在していた。

 そのような特別な理由により申請を行う女性には経産婦マーカーを消去することも出来るという事が、経産婦マーカーの導入時に女性達の不安を払拭する大事な要因となっていたのは否定できなかった。


 そこで、調整されたウイルスにより体細胞が自分の体の中の特定な場所に能動的に色素沈着をおこなう対の技術として、すでに沈着した色素を分解拡散する体細胞に変化させる調整ウィルスも当然のように準備されることになった。

 ――


 しかし、妊娠(受精)する女性に精子を提供するパートナーの男性にとっては経産婦マーカーといった改革は一切無関係であった。

 また、実際に妊娠・出産・授乳といったイベントに男性が積極的に関与できる事が少ないため、女性の立場からは男性にも育児に対する負担を強制させるべきとの意見も多かった。

 それには、男性側にパートナーの女性が妊娠している事を知らせる男性版の経産婦マーカーのような物を造るべきだと一部女性からの強い要望があった。


 しかし男性に対してパートナーの女性が妊娠している事を人間の手を介さずに伝えるような生化学的な手段が存在しなかったのだ。そこで生命管理委員会は、パートナーの女性が妊娠した事を男性側が生化学的に人為的な意思を介在させないで反応する方法も世界中の研究機関に要求していたのだ。


 その要求に応えるように――極東の島国のある研究機関が母体フェロモンに反応するウィルスの開発に成功したのだった。


 それは、妊娠中の体内で生成される母体ホルモンが母体フェロモンという匂いとして空気中に発散される事を利用したものであった。

 男性が母体フェロモンの匂いを嗅いで、そのフェロモンが自分の遺伝子情報をベースに妊娠した母体の物であると判断した場合に細胞内に色素を沈着させる。男性の体細胞をそのような細胞に変異させるウイルスを調整することに成功したのだ。

 このウイルス調整を成功させた研究所とは、母体マーカーを世界で唯一開発した研究所と同じ場所、同じ研究スタッフであり、その研究チームを指導している博士も同じ人だったのだ。

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