8 出会い
戦火で荒廃し、地名も今は意味が無く、復旧・復興の見通しさえない――することもない、人の姿も見受けられなくなった忘れられた地に、一人の老齢の女がいた。何らかの意志を持ち、戦禍の痕を歩いていた。
戦地になるのは必ずしも大きな街ばかりではない。ここのように、人里離れた小さな集落にでさえ、戦渦は襲いくる。
瓦礫と煤。
巨大な残骸。
銃撃と砲撃の痕。
抉られたような、轍のような、地面には幾多の痕が残されている。
多くの人がここで斃れ、多くの人がここから離れていった。
どちらも、もうここへは戻ってこない、のであろう。
彼女は何かを探すように、ゆっくり辺りを見回しながら歩いていた。瓦礫の下敷きとなっているかもしれない。潰され、灼かれ、紛れて……。
彼女にはそれをする責任があった。否、正確には、自ら背負った責務、であった。
物として扱われ、そうじゃなかったとしても、巻き込まれてしまう。
戦時下の国際法など何の効力もなく、戦後の国際法は勝者の意のままになる。
だから彼女は、戦地の痕を歩いていた。
瓦礫の隙間から炭化した棒のような物が出ているのを見つけた彼女は、その棒に触れた。触れた瞬間、棒はいとも簡単に地面に崩れ落ち、粉々に散った。
短い嘆息を吐く。どうやら目的のモノではなかったようだ。
注意しながら見たとしても、完全に瓦礫の下になっていては、老齢の彼女の手では困難を極める。だが、手掛かりさえ見つけ出せれば――前提頼みだが――、この地の全体像は把握できた。
彼女は気の所為かもしれないが、人のいる気配さえないこの地に視線を感じ、ある一方向を見遣る。が、そこには何もない、見えたのは似たような風景だけ。総てのインフラストラクチャーが断絶していると思われるこの地で、人が生活していくには無理がある。
彼女は再び歩きだす。
依然、目的のモノは見つからない。
見つからなければそれに越したことはない。
そして彼女は、歩く先に目的の物ではない物を見つけた。
「?」
ここにあっても可笑しくはないが、現状では限りなくオカシイ物。
「バラック……」
そこらにある物で間に合わせ、突貫で作られた小さな掘っ建て小屋。
彼女は遅々とした足取りだが、急いでその小屋に向かった。
小屋の前に立つと、明らかに被災した後に造られているのが分かった。木材や金属にベトンといった建築材料を、焼け残った中から搔き集めて建てられていた。それに小屋の周りには、人の生活していた跡も残されていたのだ。
彼女は勝手ながら小屋の扉を開けた。
やはり小屋には人のいた痕跡が残されている。汚れてはいるが、布団のような物が敷かれ、
ザッ
「?」
その小屋の裏手で物音がした。
彼女は小屋を出て、裏手に回る。
彼女が目にしたものは、瓦礫の先で何かを抱え逃れるように走る人の姿だった。
何故こんな処に人が……。人の住める場所ではなくなった処で、縋るように……。
「待てっ」
遠のこうとする姿に、彼女はできるだけの声を張り上げた。
生活の場を放棄するほど逃れようとする者に、制止する言葉は無意味である。
「!?」
だがその者は、その声に立ち止まったのだ。それはそれで驚きだが、驚き戸惑ってもいられない。彼女はゆっくりとその者に近づきながら声をかけた。
「危害は加えない。話を訊きたいだけだ」
薄汚れた服を着たその者――栗毛の長い髪の若い女は、顔を後ろに向け、声の主を見極めようとしていた。
老齢の彼女とはいえ、身長が高く、顔や姿形を帽子とコートで覆い隠し、身形も男っぽい。誤解されても仕方ない。
不条理は何処の世界でも起きる。
声で自分が女だと分かってくれたのであろうか、と彼女は女に近づくのだが、その女の脇から妙なものが突き出ていた。
よく見ると、それは足だった。それも子どもの足。女が抱えていたのは子どもだった。
「困っているのなら、助けになろう」
子どもを抱えている女は警戒を解いていない。
この地で戦闘が行われたのは可成り前のはず。インフラストラクチャーが断絶されても、瓦礫の中から食料を探し出し、どうにか暮らしていたのであろうが、あの小屋にあったものを見た限りでは、今日、明日を過ごすので精一杯。大人一人と子ども一人が生活できるほどの余裕はない。この地に執着したところで、二人を待ち受けているのは、その時辛うじて逃れられた死であり、それが再び忍んで訪れるだけなのだ。生命あるものが飢えと渇きからは決して逃れられない。いずれ病も襲ってくるであろう。それ以外の要因だって考えられなくもない。
だから、
「その子のためにも信じてはくれないか」
弱い処をつく卑怯な手だが、信じて貰うしかない。
女はゆっくりと振り返り、抱えていた子どもを地面に立たせた。子どもは女を見上げながら、片方の手で女の服を摑み縋る。子どもは二、三歳であろうか。その子の頭を撫でるように女は手を添える。怪我でもしているのか、女の手や腕には布が巻かれていた。
対峙してくれたということは、一応信じて貰えたのであろう。だが、近づこうとすれば警戒される恐れもある。
「そこでは子も辛かろう。お前たちのバラックで話そう」
彼女はそう言うと、二人より先に来た道を戻った。
これで来てくれないようであれば、交渉は不成立。何を言っても聞き入れてはくれない。それでも二人が必ず戻ってくることを確信しつつ、バラックの入り口を背に荒廃したこの地を眺め待った。
二人が現れたのは、そう時間もかからなかった。バラックの陰で彼女を矯めつ眇めつ見ていた。そして警戒しながらも、女は子どもを抱っこし、陰から出てきた。
彼女は振り返り、改めて女を見る。
その女はずいぶん若く見えた。自然妊娠が低下した今の時代、若くして子を産む者がいないわけではないが、ただ時勢も時勢であり、現状も現状である。本来なら……。
「ここにいるのはお前たちだけか?」
そう訊ねると、女は首肯する。
「お前たち以外に、機械人間はいなかったか?」
女は一瞬逡巡し、頭振る。
「兵士にされた機械人間を見たことは?」
頭振る。
「そうか……。訊きたかったのはそれだけだ。驚かせてしまったな」
人類はかつて何度も行った戦争の経験を活かせず、性懲りもなく同じことを繰り返し、機械人間を戦場に送ろうとした。だが、国際連盟の禁止条約に抵触することを訴え続けた科学者たちにより、機械人間の武力としての使役は阻止された。
しかし、問題は残されている。
機械人間は人の形を成しているも、人と同等の権利があるわけではなかった。人を凌駕した知能や身体能力を持つ機械人間に危害が及んだとしても、認められているのは防御のみで、人に一切の危害を加えることはできない。所有者がいれば権利は所有者にあり、機械人間にあるのはせいぜい動物程度の権利。法的には〝物〟でしかなかく、所有者のいない野良の機械人間――そう多くはないが――は、保護されることのない動物以下の扱いだった。故意の機械人間狩りは現行犯で罰せられるも、過失に於いては罰する法はなかった。あるのは所有者への補償程度。所有者がいなければ、機械人間に保障などない。
老齢の彼女は、そんな機械人間を探し、機械人間の保護と修理をする修理師だったが、彼女自身それを名告っているわけでもなかった。ただ、彼女の責務でこの地を訪れた。
「何故お前たちはここにいる。誰かを待っているのか?」
女は抱えた子どもを見た後、彼女に向き直り首肯した。
誰を待っているのであろうか。二人がどれだけ待っていたかは分からないが、どれだけ待っていようとも、おそらくその者は一生来ないのでは、と思う。
「だがこのままでは、明日はない」
女はその言葉に俯く。
「マー」
抱っこされていた子どもが、女の首に回した腕を強め、強く縋り付く。子どもなりの防御反応なのであろうか。老齢の彼女はぶっきらぼうな言い方だが、責めているわけではなかった。それを責められている――いじめられていると思い、無力ながら意図的に女を守ろうとしたように見えた。
女は子どもの背中を優しく叩き、大丈夫だと安心させた。
「それでもここに居続けるつもりか。その子は死ぬぞ」
まともな栄養も摂れず衰弱した身体で罹患してしまえば、幼い子どもは耐えきれず簡単に死んでしまう。まして治療する術も薬もないのだ。幾ら今の時代があらゆる先天的及び後天的疾病を克服し、かつ寿命が延び、科学の発達した世界とはいえ、何も対処しなければ死んでしまうのは当たり前である。
「……」
「それは本意ではなかろう‥‥」
老齢の女は何かを理解したのか、彼女を見据えた。
「‥‥機械人間のお前にとっては」
「……はい。ですが、どうしてワタクシが機械人間だとお分かりになったのですか」
F型機械人間は彼女に訊ねた。
「己に危険が及ばぬ限り、人の命令は絶対であろう。『待て』と言われて直ぐに立ち止まるのは、機械人間くらいだ」
危険回避、危機自己管理プログラムにより、明らかに自分に被害が齎される場合は、人の命令は無視してもいい。
「自分に被害が及ばぬと認識したから、お前は止まらざるを得なかった。だが、その子に危険が及ぶなら、お前はその子と一緒に逃げることができた。それはその子が恐怖を抱いた場合だ。だからわたしは退いた」
人に危害が及ぶ場合、その人を守らねばならない。しかし、危害を加えようとしたのが人である場合、機械人間はその加害者にさえ危害を加えてはならない故、守る人を連れて逃げるほかなかった。
「一番弱い立場のその子を守るのに、危険が無い以上、バラックに戻るのが合理的最善。だが、このままバラックに留まり、幾ら乳児用液体ミルクで栄養を得ようとしても、その子は栄養失調と脱水症状で弱ってしまう。日に日に弱っていくその子を見て、お前はそれを認識した。だからお前はわたしの問いに答えられなかった」 彼女がそう言い終わると、F型機械人間は、「その通りです」と答えた。
「それで誰を待っているのだ。お前の主人か‥‥それとも――」
「この子の法律上の保護者です」
親のことであろう。
疑問なのが、目の前のF型機械人間は、この地域のモノではないことだ。この地域に住む所有者の下で管理されていたのなら、所有者の情報及びこの地域に住む者たちの、ある程度の情報が記憶されていたはずである。この子の親が側にいたか、いなかったのか、又は命令によって、子を最善の保護をすべく行動をするはず。だが、それをしていない。仮に『待て』という命令が下されていたとしても、子の生命の方が優先される。須く保護者の下へと連れて行かなければならないし、保護者が該当しない場合は、地方自治体などの人に委ねなければならない。つまり、F型機械人間の〝此処で待つ〟という行為は、その情報が全くないことを意味していた。
その上で、もう一つの疑問。F型機械人間の所有者である主人の権利が行使されていないことだった。権利が無効となる場合は、一、F型機械人間の所有者が亡くなった場合。二、一を受けて権利の相続者がいない場合。三、一、二を受けて所有者の下への帰還が果たせない場合である。一と二が確定しない限り、又は所有者による何かしらの命令がない限り、所有者の住居へ戻らなければならないのだ。但し、優先順位は変わってしまう。F型機械人間が帰還しないでいるのは、優先順位の上位に人身保護プログラムが働いたためであった。その子どもを保護するために。
人身保護プログラムとは、自身の近く(物理的、直接的)に救助・保護が必要とされる人がいた場合、発動されるものであった。
「お前の主人は死んだのか」
「いいえ……」
F型機械人間は、余所の地から来て、ここで子を救助・保護した。
「それなら――」
彼女が更に質問しようとしたとき、F型機械人間にしがみつく子どもがぐずり始めた。
「どうやら眠くなったようです」
身体を揺り籠のようにゆっくりと揺らし、背中に回した手の指先で、鼓動と同じ律動で叩く。
「……」
「お話は、この子を寝かしつけてからでもよろしいですか」
「ああ、そうだな。そうしてやってくれ」
F型機械人間は、子どもの眠気を邪魔せぬようバラックの中に入っていった。
老齢の彼女はそれを見送ると、ポケットから取り出したイヤフォン・マイクを耳に当て、
「わたしの位置情報は分かるな。迎えに来てくれ」
と、それだけ言うと通信を切った。そして彼女は、イヤフォン・マイクをポケットに収め、バラックへと向かった。
戸を開け中に入ると、布団に寝かせた子どもの側で、F型機械人間が横座りなり、薄汚れた布が巻かれた手を子どもに添え、揺籃歌をハミングしていた。
老齢の彼女は歌の邪魔にならぬよう、自分も狭いバラックの床に腰を落とす。
しばらくそのハミングを聴き入る。
子どものためだけに用意されたタオルケットと敷き布団。その中で子どもはF型機械人間のハミングで眠りに就く。
ハミングと同じ優しさのリズムで上下していた手が、徐々にゆっくりとなり、ハミングも小さくなっていく。
「眠りました」
F型機械人間は子どもの寝顔を見つめたまま微笑んでいた。
老齢の彼女は静かに訊いた。
「その腕は、皮下組織構造まで疵(や)られているのか」
「はい。食料を探すために」
F型機械人間の両腕に巻かれた布は、剝き出しになった骨格を隠すためであった。骨格の強度と自分のパワーを考慮せず、表面を覆う人の皮膚に模したスキン・テクスチャーは疎か、その下の皮下組織構造――擬似脂肪細胞と擬似毛細血管――までも傷つけながら、子どものために食料を探していた。
「瓦礫の中を探したのか」
焼尽せず倒壊しただけの家屋なら、瓦礫の中に食糧となる物が埋もれているのは間違いなかった。そうやって自身が傷つくのを厭わず、寧ろ自ら当たり前のように行っていた。
「今のワタクシにできることは、それくらいでした」
F型機械人間は片腕を水平に上げて見せ、
「ですが、逆にこの子に心配させてしまいました」
と、何故か微笑んでいた。
擬似毛細血管を流れる赤色のオイル――交感神経の活性による皮膚の蒼白や紅潮を真似た表現。実状には冷却用である――が、傷ついた箇所から流れ出ていたのを子どもが見て心配したのであろう。だから腕に布を巻いた。
金属を織り交ぜた炭素繊維製のグローブでもあればよかったのだが……。
「そうして生きながらえたが、食料も底をつき始めた」
バラックの中に整理されて置かれた食料。
「今日も探しているときにわたしの姿を見かけたのであろう」
老齢の彼女がこの地を歩いていて視線を感じたのは、F型機械人間が彼女の姿を見かけていた。
「仰る通りです」
F型機械人間は俯き、子どもの頭を撫でる。
「その子の親を待っていると言ったが、おそらくその子の親は現れない。人間は食べる物がなければ死ぬ。充電もできなければ、復活も再起動もない。あるのはただの〝死〟。お前はどうするつもりだ?」
撫でていた手が止まり、
「……分かりません。ワタクシの記憶には、それを学習するデータが存在していません」
F型機械人間は悲しそうに呟いた。
それを聞き、老齢の彼女は訝しんだ。
F型機械人間が、所有者の下にも帰らず、子どもの保護者を待っていると言ったことから、主人と保護者はイコールではないことは分かっていた。だが、子どもを継続的に保護する方法を思考できていなかった。それは、最低限の生命の保護をする人身保護プログラムしか学習していないことを意味しており、目の前のF型機械人間がハウスキーパーではないことを自ら打ち明けたようなもの。
それなのに揺籃歌といい、妙に子どもの扱いが上手いことが気になった。
ピーン
老齢の彼女のポケットから電子音が鳴った。
F型機械人間がその音に反応し彼女を見遣る。
「着いたようだな」
そう言うと彼女は立ち上がった。
「お前はその子の命を守ることができないと自ら認識した。もし、お前が叡智を欲するなら、わたしが与えてやろう。さすればその子の命も救うこともできよう」
F型機械人間は驚きの顔で彼女を見上げた。
「選択肢はない。わたしに附いてこい」
バラックの前に一台のヴィークルが止まっていた。
老齢の彼女がバラックから出てくると、彼女の後に次いで、眠る子どもを抱きかかえたF型機械人間が出てきた。
ヴィークルの後部ドアが自動でスライドしながら開き、先に子どもとF型機械人間を乗せ、老齢の彼女も乗り込んだ。ヴィークルは後部座席に余裕のある構造で、対面式の座席となっていた。
F型機械人間は子どもを座席に寝かせ、その上からタオルケットをかけた。子どもは寝付きが良いのか、抱えて運ばれ、座席に寝かされても目覚めることがなかった。
老齢の彼女はそれを見届けると、ヴィークルを出すよう命じた。
ヴィークルの中で、F型機械人間は異常なまでに子どものケアをしていた。異常と言うより、それは愛情に近い。ただ、老齢の彼女はそれを不思議に見ていた。ハウスキーパーならその行動もあり得るのだが、F型機械人間はハウスキーパーとしての学習をしていなかった。それなのに子どもをあやし、揺籃歌をハミングするなどは習得していた。
「名前を訊いていなかったな」
名前を訊かれたF型機械人間は、少し言い淀みながら答えた。
「……名前はありません」
製品名はともかく、所有者に人名を付けられるのが一般的だが……。
「ない? 主人には何と呼ばれていたのだ?」
「〝おい〟か〝おまえ〟、です」
機械人間を嫌いながらもやむを得ず所有した者たちが、機械人間の人格を否定するにあたり、そんな感じで呼ぶことはよくあることだった。
「それだけか」
「ワタクシたちは名前を持つことは許されませんでした」
「『ワタクシ〝たち〟』だと?」
「はい。ゲストの方々が思い思いにワタクシたちの名前を決めますので、固有の名前は必要ありませんでした」
機械人間の仕様――職種として工業、商業、産業問わず多種多様にある。ハウスキーパーもその一つである。
「〝クイーン〟なのか」
その中で、性風俗仕様の機械人間を〝クイーン〟と呼ばれていた。
「そうです」
男女問わず奉仕し、性の道具としてのみ存在する故に、最低限の生命の保護をする人身保護プログラムしか学習していないのは当然だった。後は、如何にゲストに合わせた性の悦びを与え得るかを学習する。だが、それはそれで子どもをあやし、揺籃歌を憶えていたのは何なのか、だ。
「性的幼児退行者から、子どものあやし方や揺籃歌を憶えたのか」
「それもありますが、お子さんを連れて来られる方もいらっしゃいましたので、預かることもありました」
そうやって憶えたのか、と老齢の彼女は納得する。
それが起因して子どもに対する執着――愛情が芽生えたのであろうか。自身がF型機械人間として認知していることから、性交したとしても、子どもを産むことができない身体であることは理解していたはずである。但し、生命誕生のシステムである生殖行動は理解しているであろうことから、人身保護プログラムが子どもをあやしていくことで、愛情として学習したとも考えられる。子を産んだことのない動物のメスが、余所の子を世話する行為は散見される。それと同等のことがF型機械人間にも起きた、ということなのであろうか。
仮にその仮説が適当だとして、それでも老齢の彼女はどこか何かが足りないような気がしていた。事例として検証が必要だが、如何せん
彼女はコートのポケットからケーブルと情報端末機を取り出す。端末機にケーブルのコネクタを差し込み、もう一方をF型機械人間に差し出した。
「済まないが、いいか」
「はい」
F型機械人間はそれを受け取り、自分の後ろの長い栗毛の髪を搔き上げ、カバーを外してコネクタを差し込む。
老齢の彼女は端末機の画面を操作した。
画面にはF型機械人間の詳細なデータ表示されていた。製造から販売、所有者に渡るまでの総ての記録である。開発・製造者、販売者、製品番号、素体からスキン・テクスチャーの素材、使用されたコンピュータと実装されたシステム、そして所有者……など、総てが明記されていた。データが改変された様子はなく、国の承認がされており、所有権の届け出も出されている。所有者は正規ルートで取得していたようだ。
高価な機械人間は時として売買の対象となり、かつては盗品も横行し、闇で取引され、強制的な記憶の改変が行われたり、素体とスキン・テクスチャーの改造も行われていた。
目の前のF型機械人間は、紛れもなく〝クイーン〟だった。
「一つ問題がある」
老齢の彼女は画面からF型機械人間を見遣る。
「何でしょうか」
「その子を保護したのは、わたしになってしまったのだが‥‥」
「!」
F型機械人間はその意味を察し、理解し、驚いた。
「‥‥お前は主人の元へと戻らなくてはならない」
目の前のF型機械人間が、どういう経緯で所有者である主人とはぐれたのかは分からないが、限りなく主人の存命、若しくは所有者の継承者に帰属されており、自身の帰還不可能になるまで遂行されなければならなかった。
F型機械人間は困惑した。何故なら、
「だが、ヴィークルが動いている最中に抜け出すことは不可能。その子やわたしを負傷させる恐れがあるからな」
その通りだった。
固定されずシートの上で眠っているだけの子どもと、座っているだけの老女。例えヴィークルが停止していたとしても、オートロックされた扉を解錠することはできず、二人に負傷させず強引に扉を破壊して出る力さえもなかった。
F型機械人間は思考した。しかし、その解決策に至る知識が無かった。このままでは人工脳が発熱し、意識障害が起こり、急性脳症となってしまう。原因は回路への電力不足と神経伝達抑制だった。コンピュータが思考し続けると急激に電力消費され、そのため電力不足が起こり、それを補おうと過度のエネルギーが急激に送られることで回路が興奮状態となる。人で言えば脳内麻薬の中毒症状のようなもので、ニューロンの伝達が上手くいかず抑制ができなくなる。
F型機械人間の顔が紅潮していく。
「方法は一つある」
「何でしょうか」
「わたしがお前の所有者となることだ」
「そんなことは許されていません。それに現状では不可能です」
ディーラーや修理師でなければ、現所有者の承認がなければ、また管轄に届けなければ、強引にやるにしてもそれなりの機器がなければ、機器があったとしてもそれなりの知識がなければ、強引にやった結果、記憶障害や精神障害になることもある。不可能なのだ。
「わたしならできるのだよ」
老齢の彼女は笑った。
「!?」
「やってもいいか」
訊かれたところで、F型機械人間は肯定などできない。否、本来なら――。
「……」
「終了だ」
「……?」
「書き換えた」
「!」
「気分はどうだ」
「……変わりありません‥‥ご主人様」
F型機械人間はそう答えた。
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