第2話 N・Y
ニューヨーク州を流れるハドソン川の行き着く先リバティ島。自由の女神が立っているその島の方角から吹いた突風に煽られて彼の細身の身体が枯枝のように揺れた。煤けた貯水タンク。錆びた金網。それらが満月に照らされてシュルレアリスムな影を落としている。耳障りなサイレンが摩天楼の谷間から屋上にまで響いてきた。ついに警察が動きだしたか。間もなく説得するためにそこの階段を駆け上がってくるだろうか。そんなふうに思いを巡らせながら耳をそばだてていたが、やがてサイレンが遠くなっていくのを聞いてF氏は苦笑いした。
「自意識過剰だな」
いくらNYPDの仕事が早いからといって先回りできるはずもない。ましてニューヨーク市警が勤勉と聞いた試しもない。もっともF氏からすればニューヨーク市民が何かにつけNYPDを批判するのは、それもまた残念なことではあるのだが。連中だって日夜頑張っているのだ。少しくらい褒めてあげたって良いじゃないか。青ざめた顔をあげ これを見納めにとマンハッタンを見渡してみる。風上にはトリコロールにライトアップされたエンパイアステートビルの先端。その左手にはチョコレートの包み紙みたいにぴかぴかに光ったクライスラービルの肩。F氏の趣味は建造物の撮影だった。ブルックリンブリッジ、グッケンハイム美術館、三叉路に合わせて建てられたフラットアイアンビル。もちろんエンパイアステートビルとクライスラービルも彼のお気に入りだ。ただしワールドトレードセンターだけは彼のコレクションには収まっていなかった。あの天を貫ぬく平行線はもう古い映画でしか拝むことができない。一度壊したら取り返しがつかない。いまの自分の状況と同じだ。視線がアップタウンへと移った。T型フォードの時代から競うようにして発展し尽くされたメトロポリス。右のほうには華やかなりし五番街。左のほうにはかつてジョン・レノンが倒れた場所がある。ずっと上のほうはハーレムだ。そしてその中心にはカッターナイフでくり抜いたみたいな四角い暗闇が横たわっている。セントラルパークだ。
「ん?」
己が置かれた状況を一瞬忘れF氏は公園の一点を凝視した。彼の双眸に映るのは女性ジョガー。白いランニングウェアを纏い 長い四肢を規則正しく動かしていた。彼女は街灯が照らす場所から闇へと消え、消えたと思うとまた次の街灯の下に現れて、そうして現れては消え、現れては消えを繰り返して五番街のほうへと向かっていた。なぜかは分からない。ただ彼にはそのジョガーが同じ日本人のように思えた。どうする。いくら治安が良くなったからといってこんな時間に女性独りで走るのは無謀。いいや。再び青ざめた顔が苦笑する。何もする必要は無い。あれは幻覚だ。この距離で顔を判別するなんて不可能。冷静さが失われている証拠だ。それほど大きな過ちを犯してしまったのだから。頭がバグを起こしているのだ。世界は私は許さない。さあ、楽になってしまおう。そう決心するものの同時に臆病さが目の前の現実を先送りしようと無意味な質問を捻りだしてしまう。そういえばいつからジョギングをしなくなったのだっけ。そうか。また苦笑。これもサチエ女史と出会った翌朝からだ。彼女には最期まで振り回されっ放しだったな。苦笑が壊れそうなほどに醜く歪んだ。複数の人々の足音と緊張をともなった声が階段室から聞こえてきた。いけない。今度こそ本当に追手だ。終わりにしなければ。震える膝を抑えるようにして片足を屋上の縁に掛けた。この期に及んでまだ怯えている。情けない。もたもたするなと角のガーゴイルが叱責した。急かされてもう片方の足も踏み出しなんとか縁の上に立つことができた。腰が引けた不格好な姿をガーゴイルが嘲る。爪先の下にはいつもの交差点。斜向かいのドーナツ屋がやけに遠くに見える。信号が変わった。ミニュチュアみたいなトラックが歩道脇に停車した。あれは一階のレストランに野菜を運ぶ夜便だな。なんてタイミングの悪いドライバーだ。今飛び降りたら荷台をへこませてしまうではないか。
頭上には一塊の雲が漂う。それは月明かりと眠らない都市の灯りとに挟まれて白く鈍く反射光を放し続けていた。
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