完結篇「インダスト・リアル」破
わたしは天使なんかじゃないし、天使になりたかったわけでもなかった。
街で一番高いビルの非常階段から飛び降りたのだって事故だし、そこから飛び降りた者だけがノストラダムスの恐怖の大王になれるなんていう前世紀の都市伝説も知らなかった。
ガスマスクを被ったセーラー服の女の子の白昼夢を見て、空想のお友達とその子を追いかけてしまったことは、これ以上ない過ちだった。まさか空想のお友達に突き落とされるなんて夢にも思わなかった。中学三年の女の子には知らないことが世界にはあまりに多すぎた。
雨上がりの濡れた階段で足を滑らせ、真っ逆さまに56メートル。
そんな風にわたしは死んだ。
落ちるときに学校指定の革靴が両方脱げた。それを誰かが拾って非常階段に左右を並べ、わたし名義の遺書を書いてくれたものだから、草詰アリスというわたしの名前は、東京ではそこそこ有名のはずだ。最後のノストラダムスとして。
年間23万人の自殺者の行き着く先は、天国でも地獄でもなかった。
自殺した人はその死体を(ばらばらになった人は、ドラゴンボールを探すより大変そうな体のかけらを全部集めてもらう作業のあとで)病院に届けられ、司法解剖がまず行われる。変死体が自殺体か他殺体かを見極めるためだけの簡単な解剖。わたしの担当の先生はわたしの裸をただじろじろと見ただけで、自殺ぅと言った。空想のお友達は助手として白衣を着て、いっしょになってわたしを眺めた。
身元不明の場合と、身元引受人に受け取りを拒否されたわたしのような場合、死体は資本主義社会というそれ自体が巨大な産業がその発展途中にやむを得ず排出せざるをえなかった廃棄物というカテゴリに仕分けられる。わたしの姉妹と両親はわたしの死体写真だけを希望し、わたしを受け取らなかった。メロンの皮のように網の目の形をしたインターネットにわたしの死体でも流す気なのだろうか。
ろくにエンバーミングもされないまま第八番夢の島という名の産業廃棄物処理場へ、全日空の旅客機の生物が乗っていられる温度ではない最下層に乗せられて空輸されて、着陸さえせず原爆でも落とすみたいにパラシュートすらつけてもらえず放り落とされる。わたしのパラシュートは空想のお友達がつけて飛んでいた。飛行機の客室は騒がしく、ハイジャックが起こっているようだった。何時間かすると台湾のあたりからUターンしてきた飛行機がわたしの上を通過して、もう何時間かすると東京の方で大きな火と煙が上がった。
わたしは廃棄物が山盛りになった小さな丘に落ちた。わたしの右腕がちぎれたのはそのときだ。それまではちゃんとついていた。
わたしの死からすでに一週間が経過していた。
三本足のやたがらすや三つ首よだかがわたしの顔をつついて腐肉を食べた。とてもおいしそう。だけどわたしにはスペアの顔はなかった。
三日が過ぎた。すぐ遠くから風に乗って流されてくるひまわりのにおいを嗅いでいるうちに過ぎていった。ひまわりは放射能のにおいがした。空想のお友達はひまわりのにおいのする方に歩いていったきり帰ってこない。どこへ行き何をする気だったのかくらいは、死体になってもわかった。誰かがわたしに気づいて草詰の家に帰してくれるのをわたしは待っていた。
品川ナンバーの軽トラックがわたしの丘のそばに止まった。わたしより三つか四つ年上の女の子が運転席から降りて、わたしのそばに歩みよる。
女の子はとても美しい顔をしているのだけれど、かつらの頭と血だらけの歯が不気味だった。わたしも他人のことは言えないか。
わたしを抱きしめて、頭を撫でて、何か思いついた顔をして、すぐにそれを打ち消すように頭を降った。無声映画のようでおもしろい光景だった。
お願い、わたしを草詰の家に帰して。わたしはわたしのかわりに草詰アリスになろうとしてるあの子に復讐しなくちゃならないの。
しかし願いは聞き入れられず、女の子はわたしを置き去りにして、しばらくすると女の子の運転する軽トラックはあの飛行機のように戻ってきた。
わたしの願いが通じたのかもしれない。
わたしはもう一度、少女に抱き上げられた。
「わたしはツチノショウコ。あなたと同じ産業廃棄物の女の子だよ」「あなたは死体で、わたしは生きているけれど、わたしは被爆してるし、すぐに友達になれると思うわ」「わたしはあなたをあなたのいるべき場所に連れていってあげようと思うの?いいかな?」
わたしはこくりとうなづいた。首の筋肉を動かして、という意味ではなくもちろん、魂で、という意味だ。
ありがとう、ショウコちゃん。わたしはあなたをずっと待ってた。
わたしはそうして、そのツチノショウコという最初で最期の友達にさえ裏切られて、彼女のひまわり畑に埋められてしまった。
わたしの死体はやがてひまわりが太陽色の大きな花を咲かせるための養分になるんだろう。
お節介、とわたしが思ったとき、わたしの魂はじゅっと焼き切れた。
ひまわり畑は島中に広がった。
ツチノショウコとは異なるが、第八番夢の島産業廃棄物処理事務局長となる以前のぼくにはもうひとつ選択肢が用意されていた。
中東での戦線拡大に伴い、モノクローン兵不足が深刻な問題となっており、国は国民から志願兵を募集していた。モノクローンのようにパワードスーツさえ着込めば、ひとりで一個師団を相手にするモノクローンほどではないにしろ、一個小隊くらいは全滅できる。減刑を条件に実験投入された死刑囚たちの戦果からも、それは実証済みだった。255名投入されて、死者8名、負傷者13名という高い生還率が公式発表されていた。彼らの91.76パーセントは無傷で日本に帰ってきたということだ。生還した兵たちは無期懲役囚となり、模範囚であれば十年あまりでシャバに出られることとなった。
公式発表の数字を鵜呑みにはできなかったが、魅力的だった。何しろ志願兵の場合、兵役の期間は無期だが月給は108万であり、作戦に参加する度に手当てがあり、除隊後は兵役期間に応じて最低1000万円の除隊金が支払われ、また入隊年から99年間すべて税金と厚生年金の支払い免除される、とあったからだ。120歳まで生きることはないだろうけど。
それにぼくは一度人を殺してみたかった。戦争での殺人は体育の授業で行うスポーツのようにつまらないだろうけれど、それでも構わなかった。ぼくの父はぼくのモノクローンの兄を虐待で殺していたし、幼なじみの姉妹はどちらが本物であるかをかけて殺しあっていた。ぼくたちの街で酒鬼薔薇聖斗はこどもをふたり殺した。身近な場所で四件の殺人があれば、ぼくが人を殺したくてたまらない青春時代を送っていたとしても、誰もぼくを咎めることはできないだろう。
ぼくが結局この産廃処理島の最高責任者の任についたのは、幼なじみの姉妹の一番下の妹であるツチノショウコに興味があり、彼女の最期を見届けたかったからだ。ぼくは数年にわたり彼女の遺伝上の父と育ての親である孔雀教授や風俗拾路大学病院の裁判を傍聴し続けていたから、彼女が産業廃棄物と指定されることも第八番夢の島に廃棄されるだろうこともぼくには予測がついていた。きみの最期を見届けたい、ツチノショウコが以前聞き取れなかっただろうぼくの言葉の続きがこれだ。
そして、きみたちにぼくはひとつ嘘をついていたことを謝らなければならない。ぼくはツチノショウコの最期の瞬間を待ちわびる待ち受け少年だった。
小島雪と小島夜子の物語はもうとっくに終わってしまったのだから、同じ遺伝子をもつからといって我が物顔で主役を気取って新しい物語を物語られるのは我慢がならない。今すぐぼくの傍らで眠るショウコの首を絞めて殺しても構わないとさえ思う。
だが、あの男の登場なしにこの新しい物語をツチノショウコの死によって終えることはぼくにはできない。ここからの物語はツチノショウコでも片羽根の天使の死体でもなく、彼にまかせよう。
これでわかったろう? ぼくは事務室のデスクでスーパーマリオをしているだけの男じゃないということが。
ぼくは世界の果ての主だ。
そして、女の子ひとり殺せない哀れな傍観者だ。
ヘリコプターのドアを開いた途端、第八番夢の島は懐かしいにおいがした。
ひまわりのにおいだ。
死んだ妹のひまわりと妹の忘れ形見だったがやはり死んだ姪のメイのことを思いだし、センチメンタルな感情が私の心を支配した。なぜ私はふたりを殺してしまったのだろう。そのあと実の母さえ私は殺めた。その話はいつかどこかで誰かがしたと思うからここには記さない。
上空から見た限りでは、ひまわり畑は島中に広がっているようだった。
ミヤザワワタルというどこかで聞いた名のこの島の主からの連絡によれば、ひまわり畑の主はツチノショウコで、彼女はひとりでひまわり畑を広げ、この被爆した島のファイトレメディエイションを監督したのだという。ガイガーカウンターはもはや放射能による汚染を感知しない。ヘリコプターには対放射能防護服を積んできていたが、使わずにすみそうだ。
「孔雀先生、着きましたよ。さぁ、早くショウコに会いに行きましょう」
私は奥の席の老人の体を揺さぶる。研修医時代のオーベンであった孔雀教授は、私が病院をやめてからのたかだか十数年のうちに随分老けていた。皺の数が増え、そのひとつひとつが濃く刻まれていた。七三にポマードで固められた頭髪は総白髪で卵白でシャンプーをしているそうだ。まだ初老のはずだが、長い裁判が彼を老けさせたのかもしれなかった。彼はツチノショウコをめぐる例の裁判で医師免許を剥奪されていた。
長い空の旅でうたた寝をしていた孔雀老人はショウコの名に過敏に反応した。
「ショウコ?儂ゃショウコなんぞとあの子に名をつけた覚えはないぞ」
あぁ、そのとおりだとも。あの頃のあんたはショウコに名前さえも与えなかったさ。番号で呼ぶことすらなかった。ただ第三世代のモノクローンと揶揄しただけだ。携帯電話でもあるまいし。自称育ての親が聞いて呆れる。ヘリの竹とんぼがうるさくて、私の声も自然と大きくなった。
「お忘れですか?私が医師をやめた日にあの子に名づけたのです」
「おぅおぅ、そうだったのぅ」
老人の手を引いて、ヘリから降りる。孔雀老人は杖なしでは歩けないため、車椅子をヘリから下ろしわたしが彼を押すことにした。
島の端にあるヘリポートに降りたって、はじめてその景色の美しさを私は知った。
かつて架空の歴史人物であるウマヤドノオウジは倭の国を日出ずる国と親書に記し、西欧からの客人は日本を見て黄金の国と自著に記したが、この島こそまさしくそれだ。
地平線の向こうまで太陽色の大きなひまわりが咲き乱れる島に今私と孔雀老人はいた。思わず息を飲む。
これをショウコがたったひとりで…。小島姉妹の高校生時代を知っているにも関わらず、わたしの中でまだショウコは培養液の中の小さな女の子のままだった。
「なんじゃ、ショウコは迎えに来ておらんのか」
その声に我に返る。それは私に向けられたものではなかった。
私たちの前方に、まだ若いサングラスの男が立っていた。サングラスに喪服のように黒いスーツだが手塚治虫の漫画のロックには似ても似つかない。男は中肉中背で、被爆したせいか頭髪は抜け落ちているらしく、ヘリの風圧でかつらがとばないよう手でおさえていた。最近流行りのヘアコンタクトか何かにすればいいのに、と思った。半笑いの口元から覗く矯正中の歯は血だらけだ。よく見るとサングラスのレンズの中でマリオが亀の甲羅をビート板のかわりにして水中を泳いだまま時が止まっていた。
「すいません、おふたりがお見えになることは彼女には内緒なんです。ほら、今日彼女のバースデイだから」
そういう趣向だとは聞いてなかった。第一モノクローンの誕生日なんてオリジンの出生日にあわせられるだけだから意味などない。そこまで思考をめぐらせて、ショウコに名前を送ったのが十数年前の今日であったと思い返し、気恥ずかしくなった。私も若かったんだろう。そして年をとった。
「はじめまして、第八番夢の島産業廃棄物処理事務局長のミヤザワです」
男はサングラスをはずし、孔雀老人と私に名刺を差し出した。見覚えのあるのは名前だけではなかった。同姓同名の別人だとばかり思っていたが、病院をやめてから数年間、高校で生物を教えていた頃のわたしの教え子であった小島姉妹の幼なじみだった少年の顔だった。こんな世界の果てで再会することになるとは思わなかった。
「おひさしぶりです、棗先生。雪の葬儀以来ですね」
「なんじゃ?知り合いなのか?おまえたち」
孔雀老人が車椅子からミヤザワと私を交互に見上げた。
「雪?雪の葬儀だって?何を馬鹿なことを。死んだのは夜子ちゃんだろう?」
ミヤザワワタルは小島姉妹の事件以来、人が変わったと人づてに聞いていた。神戸モノクローン事件の真相を究明する会なる団体を作り、警察や裁判所やマスメディアに対し、ミステリーの読み過ぎだとしかいいようのない彼の主張を、事件の真相だとして訴えては事実をねじ曲げようとしていたらしかった。あの事件は、事故で脳に障害を負ったオリジンとモノクローンが入れ替わって育てられたために、実はモノクローンでしかなかったオリジンの私の教え子が、本当はオリジンであるモノクローンの姉ばかりが父親に可愛がられるのを嫉妬して殺害してしまったというなんともいたたまれない事件だった。ミヤザワの主張はモノクローンとして育てられていたオリジンの脳障害はフェイクで、殺害されたかのように見せかけて殺害し、もう一度入れ替わったというものだった。どちらにせよ犯人である一方はいまだ逃亡中だ。
「ま、そんなことはもうどっちだっていいんです」
ミヤザワは歯を剥きだして笑った。
「ミヤザワくん、ひとつ聞きたいことがあるんだけどいいかな?」
彼の笑顔の中で目だけは笑っていなかった。
「私は今、愛媛の松山の駅前で塾講師をしているんだが、数年前から偽名を使っているんだ。保険証や免許証、パスポート、教職免許も医師免許もすべて偽名の名義で偽造したものだ。部屋を借りたときももちろん偽名を使った。要雅雪という名だ。棗弘幸としての足跡はできうる限り消してきたつもりだ」「それがどうかしましたか?」
ミヤザワは両手を広げておどけてみせた。そのとぼけた仕草は私を一層いらだたせる。
「きみからの手紙は、住所が正しかっただけでなく、受取人の名がすでに要雅雪になっていた。きみはいったいどうやって私にたどりついたんだい?」
ししし、とミヤザワは笑った。ヘリコプターがようやく動きを止めて世界から音が一瞬途切れた。ミヤザワは私にまくし立てる。
「あのさぁ、俺、一応国家公務員なんだよね。わかる?国家権力をかさにきてるわけ。あんたの実家が政治家とも関わりのある大会社だかなんだか知らないけど、実の妹とその姪と実の母親殺して、ツチノショウコの生成に関わっていただけでなく、あの子のふたりの姉の片方の通う高校で担任までしてた男に、監視役のひとりもついてないわけがないと思わない?」
いやらしく笑ってみせる。この男はおそらく、わたしのすべてを知っているつもりに違いない。だが私が誘拐犯でもあることは知らないはずだ。
孔雀老人は何も知らなかったはずだが、何も言わず、おどろいた素振りもなかった。この男には十数年会っていなかったから、私の監視役はこの男ではない。
ミヤザワは背中を向けて歩き始め、すぐに振り返って言った。
「あ、そうそう、あんたが誘拐した千のコスモの会の麻衣ちゃんは元気かい?あ、今は要モモちゃんだったっけ?ししし」
私はこの男にすべてを知られてしまっていた。私はその問いに返事はしなかった。麻衣が私の監視役であることは考えられなかった。では一体誰が?
「さぁ、ツチノショウコはあちらの二区先のひまわり畑です。ここからは少し距離がありますが、ひまわり畑の中を歩いていくのも悪くないものですよ。参りましょうか、孔雀教授に、夏の目と書いて夏目弘幸先生?」
それは私の戸籍上の表記の名だった。
「今日おふたりをわざわざお呼び立てしてしまった理由については、道中お話させていただきます」
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