特別篇②「ビルドゥングス・ロマン・イン・マーズ」前編
網膜の傷が見せる虫を目で追ううちに毎日は過ぎていった。それは図鑑で見た池の水に生息しているアオミドロやミジンコに似ていた。池のメダカになったような気分でわたしは空想の小さな池を泳ぎながら少女になった。
家畜の羊か牛のようにわたしの左胸に英数字のシリアルナンバーの焼き印が捺されているのに気づいたのは、わたしが十四歳になった晩だった。あるいはそのとき、わたしは生まれたのかもしれない。ちょうど心臓の真上なのだろう。触れると鼓動が一番よく聞こえる場所に"ch─39661824"と読めるそれはあった。はじめて聞く心臓の鼓動は今にも壊れそうなゼンマイ仕掛けのおもちゃのような音がした。
切り分けられたバースデーケーキを無表情に頬張り続ける、双子の妹のアズサのドレスから覗く胸元には、それはない。
デパートのパーティーグッズ売場で母が買ってきた色違いの安っぽいドレス。部屋中を彩る紙テープをつないだ輪。弟のひとりが他界してからも何故かカーテンのレールに吊られている千羽鶴。それらは不格好な母の手作りケーキと見事に調和している。
背伸びして化粧をしたアズサには大人っぽい赤いドレスを着せて、わたしは年相応の青いドレスを着せられていた。同じ色同じ長さ同じ艶の髪の上に、これもパーティグッズの王冠。アズサの指に光るいくつもの指輪はひとつ500円のおもちゃの指輪だ。
父は獣のかぶりものをかぶって、食べにくそうにかぶりものの口のまわりを生クリームで汚すので、それを母がさっき机を拭いた布巾で拭う。弟のれおなはわたしとアズサを交互に見やり、まるで品定めをしているように見えた。二次性徴を迎えた十四歳の姉ふたりの開いた胸元は、まだ小学生の彼には刺激的すぎるのかもしれない。彼はアズサの膨らんだ胸の先に、ぽつんとさらに膨らんでいるのを見つけた。ドレスの下に何も身につけていないのだ。肩紐のないブラジャーを用意しわすれたのだろう。わたしはシリアルナンバーを指でなぞりながらわたしも同じであることに気づいた。なぜか下も穿いていない。彼が興奮するわけだ。食べることに夢中で見られていることにアズサは気づいていないようだった。
「れおな、あんまりアズサちゃんのおっぱいばっかり見てちゃだめだよ」
あとでわたしのを触らせてあげるから、そう続けようとして、やめた。惜しくなったわけじゃない。
違和感を感じたのだ。
わたしはもっと無意識で無自覚な女の子ではなかっただろうか。目の前に有るものだけが世界のすべてであるこどものように、新しいものにすぐに目移りをして小さな世界を無数に行き来するような。
それに生まれてはじめて言葉を口にした気がした。
れおなが驚いた顔で口から生クリームのついたスポンジをこぼし、あわてて手で拾った。手を生クリームで汚したまま、静止する。顔は少し青ざめて頬の筋肉が唇以上に痙攣していた。甘く幸せな家族の中でれおなだけが顔をひきつらせていた。
「チョコがしゃべった」
母さん、父さん、チョコがしゃべったよ、とれおなは唾とスポンジのかけらを飛ばしながら叫んで、両親と妹を幸福の世界から現実に引き戻そうとする。チョコというのはわたしのあだ名で、本当は「よ」が大きくてチヨコといった。一世紀は前の名前だ。
半年前れおなの双子の弟を失ったことをいまだに受け入れられない母。
リストラされたことをわたしにだけお風呂で話した、毎日会社に行くふりをして職業安定所に通う父。
れおなの秘密もわたしは知っている。最近おちんちんに毛が生えたこと、エッチな本をたくさん勉強机の鍵つきの引き出しに入れていて、勉強をするふりをして裸の女の人の写真を模写していること、それが結構よく描けてること。
小学校で先生にいたずらされてからずっとひきこもりを続けるアズサに両親はどう接していいかわからず、年に一度アズサとわたしの誕生日だけ親らしく振る舞っていた。
母の口癖は、母さんは母親失格よね。もう一度母が呟けば、今日はわたしたち姉妹の誕生日だけでなく、母の母親失格千回記念日になる。
わたしとれおなは別として、我が家の現実はとてもつらかった。
だから今日一日、娘の誕生日だけは幸福に過ごしたい。父も母もそう考えていたに違いなかった。
「馬鹿だな、れおな。チヨコがしゃべるわけがないだろう。なぁ、チヨコ?お前今しゃべったのか?しゃべったりしてないよなぁ?」
まるでしゃべってはいけなかったかのような父の口振りにわたしは思わずきょとんと目を丸くしてしまって、言葉を失った。
「れおな、今日はアズサの誕生日会なんだから嘘をつくのはやめなさい」
「そうだぞ、れおな、チョコがしゃべるわけがないじゃないか」
ママ、わたしの名前が抜けてるよ。パパ、それってどういう意味?
わたしは両親を交互に見やり、アズサを見て、最後にれおなの顔を見た。両親の表情は元通り幸せな作りものに戻り、アズサは相変わらず無表情のままだったけれど、れおなだけは顔をひきつらせて、わたしをしげしげと見つめていた。
どうやらわたしはしゃべれない子か、しゃべってはいけない子らしかった。
午後九時、お誕生日会は何事もなく終わった。
アズサは結局喜んだ顔ひとつ見せず、洗面所で生クリームと化粧を落として、部屋に戻っていった。誕生日会のはじまりからおわりまで一言もしゃべりはしなかった。両親やれおなやわたしが今度アズサと顔をあわせるのは一年後だ。弟のお葬式にすらアズサは顔を見せず、わたしがアズサの代わりに喪服を着て葬儀にじっと座っていた。
わたしのこれらの記憶は、その一部始終の視覚映像と聴覚音声が別々にファイルしてあり、検索をかけることで脳内の映画館で上映される。両親は弟の死をアズサに伝えてすらいなかった。そして今日の誕生日会に家族のひとりが欠席していても、アズサは無関心だった。
困った人たちだな、と思った。
篠塚の家はこうして、一年にたった三時間だけ家族がそろう。
部屋の飾り付けが空しくさえ感じられる形だけのパーティーの後の居間で、れおなは伝説の勇者となってテレビ画面の中の邪悪なモンスターと対峙して、オリハルコン製という設定のプラスチックの剣を振りかざし、母はため息をつきながら晩酌をする父に寄り添いながら、
「あなた、わたし母親失格よね」
と言った。
わたしの思惑通り今日は母の母親失格千回記念日となった。
そんなことないさ、と父は言い、お酒を飲みほすとリストラされ職安に通っているというわたししかしらなかった真実を母に打ち明けた。
夫婦喧嘩が始まって、わたしはれおなに手を引かれ、逃げるように階段をのぼった。
この子は絶対いい男になるとわたしは思った。まるで勇者に救い出されるドラゴンに捕らわれたお姫様になれた気がしたから。
わたしの部屋はれおなと同じ部屋だった。ゴレンジャーやウルトラマン、仮面ライダーのソフトビニール人形やガンダムのプラモデルが部屋中を埋め尽くすおもちゃ箱のような部屋だ。わたしのライナスの毛布だった球体関節人形はソファに座り、その中で女王のように君臨していた。ゴレンジャーやライダーたちは、このおもちゃ箱と女王をインベイダーから守る近衛兵だ。
アズサが部屋に引きこもる前はわたしの部屋はアズサと同じだった。しかしわたしはアズサに嫌われていたからその頃かられおなの部屋でれおなとわたしは遊び、寝ていた。しゃべらないわたしとよくれおなは遊んでくれたなと今は思う。わたしはアズサのように無反応ではなかったから、遊び相手にはなれたのかもしれない。
「今日は疲れたね、チョコ。パパがリストラされてたのも驚いたけど、怒ったママの顔は何度見てもびっくりするよなぁ」
部屋に戻ったらきっとれおなはお誕生日会でわたしに抱いた疑惑の追求を始めるに違いないとわたしは思っていた。しかしれおなはそうはしなかった。ほんの何時間か前の出来事だったから忘れているはずはなかった。
「ねぇ、チョコはもう眠い?ぼくまだ遊びたりないんだけどいっしょに遊んでくれる?」
夫婦喧嘩が始まった居間から逃げ出すことで精一杯だったはずなのに、れおなは伝説の剣と盾の形をしたテレビにつなぐ本体を持ち出してきていた。十四インチの小さなテレビがわたしたちの部屋にはあった。れおなはゲームのパッケージに描かれていた勇者のように剣を構えてみせる。それ一人用じゃない、と思ったけれど、わたしはこくんとうなづいた。
今はまだ無邪気なかわいい弟だけど、やっぱりいい男になると思った。病弱だった双子の弟は学校でよくいじめられていて、そのたびにれおなは上級生の男の子たちと喧嘩しては傷だらけになって帰ってきていたのをわたしはふと思い出した。死んだ弟はわたしはあまり好きではなかった気がする。彼はれおなが自分を守り怪我をするのを当然のように思っていた節があった。
わたしはれおなの手から剣をとり、その小さな体を優しく抱きしめた。
「なんだよ、チョコ。チョコもゲームがしたいの?」
れおなのおでこにわたしのおでこをくっつけた。生クリームの甘いにおいがする唇に、わたしの唇を近づけると、れおなの体がびくっと硬直するのが骨を伝わってわかった。キスしてあげてもよかった。
「ちがうよ、れおな。れおなにだけはお姉ちゃんの秘密を教えてあげようと思ったの」
しゃべらないはずの姉がしゃべった、放心したれおなの体をいつもふたりで寝ているベッドに押し倒す。
「お姉ちゃん、今日からしゃべれるようになったみたいなんだ」
お誕生日会では驚かせちゃってごめんね、わたしはれおなのおでこにキスをした。唇は初恋の相手のために残しておいてあげる、わたしが驚かせちゃったせいでれおなはパパとママに怒られちゃったからそのお詫びのしるしだよ。れおなの顔が真っ赤になった。姉から見てれおなは結構きれいな顔をしてると思うのに、女の子とこういうことしたことないのかな。それともきれいだと思うのは姉の欲目なのかな。
「どうして?」
れおながようやく絞り出した言葉がそれだった。ベッドに積まれていた大量の児童ホビー誌の山が今にもわたしたちに崩れてきそうだった。
「今キスしたこと?わたしがしゃべれるようになったこと?」
わたしは少しだけいじわるな姉らしかった。
「しゃべれるようになったこと…」
れおながあんまり恥ずかしそうな顔をするので、両親が見たら腰を抜かしてしまうだろうふたりの格好にわたしまで恥ずかしくなってしまった。体をどかしてちょこんとれおなの隣に座った。
「ほんというとわたしにもよくわからないんだ。どうして急にしゃべれるようになったのかも、どうしていままでしゃべれなかったのかも全然わかんないの」
わたしはれおなの体の温もりが忘れられなくて、ベッドの上で女の子座りをして膝枕をさせてあげた。れおなはわたしの太股に頭を置いて膝を撫でながら、本当にどうして話せるようになったのかな、と言った。
「だけどチョコがどうしてしゃべれなかったのかは知ってるよ」
無邪気さゆえか、れおなはわたしに残酷な真実を告げる。
「チョコの頭の中の機械の脳は欠陥品だってママが言ってた」
れおなは顔をわたしに向けて、青いドレスの開いた胸元から覗く焼き印を指でなぞった。
「モノクローンってわかる?チョコはアズサ姉ちゃんのクローンっていうやつで、生まれてすぐに脳を機械の脳に交換されたんだって」
似合わない青いドレスなんて早く脱いで、れおなの好きなお洋服を着てあげようとわたしは思った。真実を告げたれおなは少しだけばつの悪そうな顔をしていた。
そのお誕生日会の夜はいつものようにれおなといっしょにお風呂に入った。わたしは昨日まであまりに無自覚で無意識でいたから気づかなかったけれど、れおなはわたしの胸ばかり見ていた。もういっしょに入ってあげないよ、そう言うと、胸から目をそのときだけそらして、盗み見るようになった。わたしが浴槽の外で体を洗い始める頃にはまた胸を横から見ていた。
そのくせ股間は両手で隠してわたしには見せてくれない。れおなも年頃の男の子なのだ。
「絶対もうれおなとはいっしょにお風呂入ってあげないんだからね」
パパやママにわたしの声を聞かれないようにわたしは小さな声で話した。弟のれおなに体を見られることは本当は全然いやじゃなかった。いじわるをしてれおなを困らせたかっただけ。
わたしがしゃべりはじめたことはふたりだけの秘密にしてくれるとれおなは約束してくれていた。しゃべりはじめたわたしを両親の前に突き出すと脅せば胸くらいいくらでも見せてもらえるかもしれないのに、そうしないところがれおなの優しいところだ。
髪をかきあげたとき、わたしの額の前髪の生え際に大きな傷跡があるのが、正面にある大きな鏡に映っているのを見た。れおなの教えてくれた通り、わたしの脳は機械の脳に替えられているとすれば、この傷はその手術の聖痕なのだろう。
ミルクの入ったシャンプーで髪を洗った。れおなは背中を洗ってくれた。
「れおな、今夜もいっしょに寝てくれる?」
れおなは恥ずかしそうにうつむいたまま、うん、と言った。
「手をつないで寝てね」
わたしは目覚めたばかりで人肌が恋しかった。
「いつもそうしてたよ。ぼくはチョコと手をつながないと寝れないんだ」
かわいい子、と思った。れおなの髪や体をわたしは洗ってあげた。
湯船に戻ってれおなにいじわるを続けているうちに、わたしたちはのぼせてしまった。ふたりそろって湯船で溺れてしまわないように、あわててお風呂から上がった。赤と白のタイルが交互に並べられた脱衣場を兼ねた洗面所でわたしたちは裸のまま寝転がった。背中やお尻がひんやりと冷たくて気持ちよかった。
れおなの股間が大きくなっていたのをわたしが見逃すはずはなかった。
れおなは歯の磨き方をわたしに教えてくれた。わたしはお礼にれおなのお気に入りだというピンクのベビードールを着てあげた。
真っ暗にしたれおなの部屋で、室内灯のスイッチコードの先についたマスコットが緑色の優しく光る。お布団の中でれおなはわたしの手をぎゅっと握った。れおなの手は冷たかった。
「チョコとお話するのがずっとぼくの夢だったんだ」
れおなは言った。その声は涙声で、真っ暗でわからなかったけれどきっとれおなは泣いていたんだと思う。
わたしはとてもしあわせだった。
パパとママがふたつのこども部屋に盗聴機や監視カメラをしかけていたことをわたしたちが知ったのは翌朝のことだった。半年前まで一番下の弟のものだった部屋は、二台のモニターと無線機で二人の姉弟とモノクローンのわたしを監視する部屋になっていた。
誕生日会の翌朝、母に起こされたれおなとわたしは、まず繋いだままだった手を引きはがされて、そして床に正座を命じられ、ゆうべのわたしたちの部屋での会話を録音したテープを聞かされることとなった。夫婦喧嘩をしていたはずの両親は日課だった就寝前のわたしたちの監視だけは夫婦仲良くしたらしかった。
母は愛する男を寝取った女を見るような目をして、わたしを三度泥棒猫と罵った。わたしは眠る前にモノクローンという単語を機械の脳に検索をかけて、わたしの存在についてれおなが与えてくれていた十倍以上の量の情報をすでに引き出していたから、あぁやっぱりわたしは母に娘だと思われてはいなかったのだなと思った。
少子化対策や3K労働力不足を自国民で補うことによる外国人労働者の排斥推進、ドナーとして臓器や骨髄の提供、軍事利用等のために解禁となったモノクローンはこの国にさまざまな貢献をする一方で、一家庭においてはエンゲル係数を高めるなどして生活を圧迫するだけの厄介者として捉えられるケースが統計的に多かった。モノクローンの虐待が日常的に行われている家庭は全体の56パーセントで、多くのわたしの同士たちは虐待死させられていた。その一方で近年、神戸モノクローン事件などに代表される同士たちによる反乱も目立っていた。
わたしの機械の脳の情報は「二○○二年調べ」とあった。定期的に情報は更新されるのだろう。頭の中をディスクシステムのように書き換えられるのを想像すると身の毛がよだった。しかし意外にも怒りの表情を浮かべていたのは母たる女だけだった。父たる男は上機嫌に、白い厚紙の箱を抱き抱えて階段をのぼりわたしたちの部屋にやってきた。彼は箱からセーラー服を取り出した。傷ひとつない学生鞄と中学二年の教科書も用意された。一度も使われていないがすべてアズサのものだった。
れおなはまだ眠いのか事態がよくのみこめない様子だったけれど、父たる男がわたしに何をさせようとしているのかわたしにはすぐにわかった。それはつまり、
「チヨコ、今日からアズサの代わりにアズサのふりをして学校へ行かないか」
ということだった。
その言葉はあくまで勧めているだけであるかのように言葉を慎重に選んではいたが、わたしに有無を言わせず強制する威圧感があった。口調はとても軽く冗談にしか聞こえないが、その目は笑ってはいなかった。
父たる男は、わたしの体にセーラーをあててみて、うんうん似合うよチヨコと心にもない台詞を言った。
アズサは小学四年の冬から学校には一度も行ってはおらず、丸五年が過ぎていた。町にひとつしかない中学が、全校生徒三百人あまりしかいない小さな町で、篠塚さんの家のアズサちゃんの引きこもりは町中で噂になっており、本当に町中がアズサの噂ばかりしているかは疑問だが、母たる女は買い物のために少し出かけるといった程度の外出の度にこの五年間恥をかきつづけてきたのだという。引きこもりの原因が先天性の自閉症であったならばまだしも、アズサの場合は小学校の先生にいたずらされたことが原因だった。いたずらは教育と称してパンツを脱がされたというものだったが、噂は無遠慮に肥大化して今では強姦されてしまったことになっているらしい。
父の話は要約するとこんなところだった。ようするに世間体を気にして、同じ顔の代理を立てて学校に通わせ、篠塚の家の不名誉を払拭しようという話だった。わたしは母たる女の顔色を伺いながら彼の話を聞いていた。彼女は怒りの表情を徐々に笑顔に変えていった。
どうやらふたりとも本気らしかった。
「いいじゃない、ね?あなたはアズサのモノクローンなんだから。アズサとお父さんとお母さんのために恥のひとつやふたつくらいかいてくれるわよね」
猫なで声で母たる女は言った。
アズサの引きこもりの原因はいたずらされたからじゃない。両親がちゃんと親の責務を果たさないから、アズサはいつまでも引きこもらなければならないのだ。モノクローンのわたしにだってわかることがなぜこの人たちにはわからないんだろう。
アズサが知ったら怒るだろうけど、わたしはアズサがかわいそうに思えてしかたなかった。
この両親の世間体のためではなく、アズサが近いうちに引きこもりを卒業して学校に行けるようになるように、わたしはその足場作りをしてあげてくれ、というのなら喜んで引き受けたかった。
この話を引き受ければ、アズサは変われるかもしれないが、この親たちは決して変わらないだろう。また何か不幸な出来事がアズサに起きれば、アズサは引きこもりに逆戻りするだけだ。
引き受けちゃいけない。
機械の脳がはじき出したシミュレーションではなく、それに宿るわたしの魂がそう叫んでいた。
れおながわたしのベビードールの裾を引っ張った。指が小さく震えていた。母たる女に見つからないようにわたしはその手をぎゅっと握った。
「ぼくからもお願いだよ、チョコ。アズサ姉ちゃんが早く学校に行けるようになるように手伝ってあげて」
れおなの声は今にも泣き出しそうなか細い声で、手と同じように小刻みに震えていた。姉想いの優しい弟なのだ。わたしはアズサに少しだけ嫉妬した。
そのれおなの真摯な言葉がなければ、わたしは絶対セーラーに袖を通したりはしなかった。
篠塚アズサの通う静岡県藤枝市立那加崎中学校は、市の南に位置しする。わたしたちの家からは徒歩三十分の距離にあった。厳格な校則で知られる那加崎中は、自宅から学校まで徒歩四十分以上かかる生徒のみ、自転車通学を許していた。つまりわたしは今日のよう
にどしゃぶりの雨の中でも歩いて通わなければならないというわけだ。あめあめふれふれかあさんがじゃのまでおむかえうれしいなぴちぴちちゃぷちゃぷらんらんらん。無職の父たる男も専業主婦の母たる女も車で送り迎えをしてくれるほどアズサの代わりに登校するわたしを大切には思っていない。それどころかセーラー服に身を包み、髪をふたつにくくったわたしは、学生鞄と学校指定のえんじ色のナップサックに教科書とノート、体操着にブルマ、ジャージをすべて詰め込まなければならなかった。どちらもぱんぱんに膨れ上がってみっともなかった。両親はアズサのクラスの時間割さえ受け取ってはいなかった。わたしは学校に着いたらまず職員室に行き、アズサの担任を探して教室の場所を聞かなければならなかった。両親はそれがわたしの仕事であることが当然であるかのような顔をしていた。空はどんよりと暗く重たく、今日からはじまる篠塚アズサとしてのわたしの学校生活を暗示しているかのように見えた。
わたしはれおなとお揃いの黄色い長靴を履き、赤い傘をさして、家を出た。アズサにはれおなの部屋の向かいにある彼女の部屋のドアを叩いて、一度代わりに学校に行ってみることになったと伝えた。
「アズサちゃん、わたしだよ、チヨコだよ。わたしね、ゆうべからしゃべれるようになったんだ。でね、パパとママがね、一度アズサちゃんの代わりに学校に行ってみて様子みてくるように言ったの。だからチヨコはアズサちゃんが早く学校に行けるようになるように頑張ってみるね」
ドアの反対側に固くて大きい何かが投げつけられてすごい音がした。椅子かCDラジカセか、あるいは鍵盤が光るキーボードか、二年前の誕生日に買ってもらったノートパソコンだったかもしれない。
玄関から二階を見上げるとアズサがカーテンを少し開いてわたしとれおなを見下ろしていた。部屋は暗く、アズサの表情まではよくわからなかった。
れおなはわたしの手をぎゅっと握った。
「アズサちゃんの中学とれおなの小学校は同じ方角?」
「違うけど、チョコは中学校がどこにあるか知らないだろ?教えてあげるよ」
藤枝市の地図は何万分の一から何百分の一まで何枚かの縮尺図がわたしの機械の脳には入っていただけれど、わたしはれおなの優しさに甘んじることにした。縮尺図によればれおなの通う那加崎小学校は那加崎中とは逆の方角で、家から十五分はかかる距離だった。中学校までの距離を往復して小学校へれおなが着くのは一時間目の授業が終わる頃だ。火曜日の朝はいつも、れおなは一時間目の体育を楽しみにしていたはずだった。ありがとう、わたしは少し涙ぐんでしまった。
「れおなは優しいね」
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