2002/03/01-03/07
3月1日、金曜日
昨日の話。
花梨さんに会うのはこれがはじめてのはずです。
だけどときどき棗さんから話を聞かせてもらっていたので(無理矢理聞き出したというのが正しいかもしれません)、麻衣はあまりはじめて会う人という感じがしませんでした。
ただ棗さんから聞いていた話では、麻衣よりかわいくないという話だったのに、そんなことはけっしてありませんでした。花梨さんはやっぱりお嬢様で、きれいな顔立ちをしていました。長いまつげに縁取られた瞳はとても大きく、鼻はすっと高く、唇はふっくらと膨らんで、長い黒髪を頭の高いところでふたつにくくっています。まるで西洋のお人形のようでした。かわいらしいツーピースのお洋服を着て、スカートの下からペチコートが見え隠れしていたから尚更です。マリーアントワネットが歴史の教科書から飛び出してきたみたいに麻衣には見えました。
彼女を出迎えたジャージ姿の麻衣なんて花梨さんに比べたら、比べるのもおこがましいくらいです。同じくらいお金をかけたら麻衣も花梨さんと張り合えるのかな、と考えましたがすぐに無駄だと思って諦めました。麻衣は花梨さんには勝てません。
「あなた、加藤麻衣さんよね? わたしが誰だかわかる?」
花梨さんは棗さんを麻衣から取り戻しに来たに違いありませんでした。
「棗さんならいません。書き置きがあって、今朝第8番夢の島に出かけたみたいです」
玄関で向かい合っていればいるほど、麻衣はみじめな気持ちになりました。みじめさの海で溺れてしまいそうでした。
だから麻衣はすべて正直に話すことにしました。それなのに花梨さんは、
「知ってるわ。今日はあなたに用があって来たのよ。今から外に出られない? あなたとは一度、ゆっくりお茶を飲みながら話をしたかったの」
そんなことを突然言い出したので、麻衣は困ってしまいました。
外出をするのならまず脂でべたべたの髪を洗って、体も洗わなくちゃいけません。爪も磨かなくちゃいけないし、歯も磨かなくちゃいけません。耳の掃除だって必要です。お洋服も一番かわいいのを見立てなくちゃ。
みじめな気持ちを少しでも残したら、麻衣は花梨さんに言われたい放題言われてしまうに違いないと麻衣は考えました。今ではもう棗さんのことを好きかどうかなんてわからないけれど、だけど棗さんが選んだのは花梨さんではなく麻衣なのです。棗さんを渡したくはありませんでした。
「今から支度をします。三十分だけ待ってください」
だからそのあとの三十分は麻衣の人生の中で一番がんばった三十分になりました。
3月2日、土曜日
ベランダに干してあったセーラーに似せて作られたロリ服を麻衣は着る気にはなりませんでした。
まだ麻衣は中学三年生ですが、もういつまでもセーラー服もロリ服も着てはいられないと思っていました。
麻衣は早くおとなにならなくちゃいけないのです。少しでも早くおとなになることでしか麻衣は花梨さんに勝てないと思うのです。
下着の上にピンクのワンピースを着て、棗さんに買ってもらった白いブーツを履きました。BABY-Gの腕時計をして、ひとつ五百円の指輪をいくつも指につけました。まだ外は肌寒いのでカーディガンを羽織りました。鏡に映った自分の姿を見てみると、やっぱり麻衣はまだこどもで、洋服も靴も全部棗さんの趣味だったから、麻衣は棗さんを恨みました。花梨さんを驚かせるためだけに、さっきとは違うかつらをかぶりました。
隣の部屋のベランダにはこの日もモヨコちゃんがいて、
「モモちゃんどこか行くの?」
と聞きました。
「うん、ちょっとね。出かけてくる。モヨコちゃんもモモといつかお外で遊ぼうよ」
と麻衣は答えました。
「コスモの電波が消えるまでは無理だよ」
そんな電波は聞いたことがありません。やっぱりモヨコちゃんの男の人はよくない宗教にのめり込んでいるようです。
虹色の布に覆われた手がモモの部屋のベランダに伸びてきました。手の中に何か握られていました。
「これを貸してあげる」
それは虹色のハンカチでした。
コスモの電波に触れると人の体は宇宙から降り注ぐ毒素に汚染されてしまうの、あまり触れてしまうとわたしのように病気になるわ、絶対に逃げられないのよ、だから虹色の布で身を守るしかないの、虹色の布を着ない人もそのハンカチを濡らして患部に当てることで少しは汚染を軽くできるわ、
モヨコちゃんはそう言いましたが麻衣は受け取ったハンカチを部屋においていってしまいました。
今思えばそれがいけなかったのです。
それにしても、コスモの電波なんてまるでお兄ちゃんが好きだったバンドの歌みたい。
3月3日、日曜日
花梨さんの後を麻衣はついて歩きました。
マンションの狭く急な階段を降りて、郵便受けの前を通り過ぎて道に出ました。自転車やバイクの駐輪場がありますが、棗さんは松山市駅の前にある塾まで路面電車で行くので彼の乗り物はありません。
まずは左、次は右、麻衣には自動生成のダンジョンのように複雑に思えるマンションの近辺の道を歩きました。何度も調べて歩いたようにその足取りは正確でした。
松山市には用水がたくさん流れています。一本道路があればその横には必ず一本用水が流れていると言ってもけして言い過ぎではありません。用水のすぐ隣にかまえてしまった家には用水を渡るためのコンクリートの小さな橋がありました。
花梨さんはお茶を飲みながら話したいと言った通りに、ファミレスに入るまで一言も話しませんでした。
何度かわたしを振り返ってキッとにらみつけるだけでした。
ファミレスは、スーパーに面した大きな通りの横断歩道を渡り、十字に交わる先ほどの通りよりは少し小さな通りをしばらく歩くと見えました。
ファミレスに入ったことのない麻衣もドリンクバーくらいは知っていましたが、花梨さんは麻衣をとても田舎者扱いして、先にドリンクバーをふたつ注文されてしまいました。
麻衣はオレンジジュースをグラスに注ぎ、花梨さんはコーヒーをカップに注ぎました。
花梨さんはブラックのままでコーヒーを飲むのです。見ているだけで麻衣の舌は苦くなってしまいました。
3月4日、月曜日
毎朝迎えにやってくる花梨さんに連れられて、ふたりきりでファミレスで夕方までを過ごす生活が二月の終わりから毎日続いています。
花梨さんの話はおばあちゃんのお話のように(そういえばおばあちゃんに麻衣は会ったことがありません)、長い上にいつも同じで麻衣はもう飽きてしまいました。
花梨さんのお話、というのは、
① 花梨さんが棗さんをとても愛しているのだということ
② 高校を休学して棗さんの行方を追っているのだということ
③ お金持ちの家の子だから月三十万お小遣いがあって、探偵をやとって調べたのだということ
④ 麻衣が棗さんを一分一秒でも早く花梨さんに返すこと
⑤ そしてやっぱり花梨さんは棗さんをとても愛しているのだということ
はじめは喧嘩腰に最後は泣き落としに、そんな話を毎日される麻衣の身にもなってほしいのですが、喧嘩腰の物言いにも五日も過ぎれば慣れましたし、泣き落としの前には必ずトイレに行き泣いて出てくる花梨さんを楽しめるくらいにはなりました。
麻衣は異性には好かれますが同性には嫌われるタイプの女の子です。花梨さんともやっぱり友達になれそうもありません。
麻衣は棗さんを花梨さんに返す気はありません。
わたしの名前はモモだし、棗さんはモモのお兄さんだからです。
ココのときのように花梨さんを殺してしまうことになってもかまわないと麻衣は思います。
3月5日、火曜日
花梨さんが雇った探偵は硲さんと言います。
ファミレスで午後六時まで花梨さんのお話を聞いたあとで、硲さんが迎えにやってきました。
164センチの小柄で華奢な体で、麻衣よりは背は高いのですが、花梨さんよりも低く、オーバーオールに綿ニットの帽子という少年のような格好も、頼りない印象を受けました。ニットは触手のような突起がいくつも後頭部にあって、その中にいったい何が入っているのかとても気になります。
偏頭痛もちで、いつもバファリンやイブなどの頭痛薬をブレンドしてお酒といっしょに飲んでいました。持ち込みは困ります。店員に注意されるといじけたような顔をして口数が少なくなりました。
硲さんは、三十を過ぎていると聞いています。
硲さんと麻衣は今日はじめて会話を交わしました。
誘拐犯の棗さんや橋本洋文、テレビのプロデューサーの佐野友陽、刑事さんのコープさんゲロさんなど、普通だったら中学三年の女の子とは無縁の人たちと何度もお話をしてきた麻衣ですが、探偵さんと話すのははじめてでやっぱり緊張しました。
硲さんは麻衣に何も事件のことを聞きませんでした。そのかわりに奇妙な話を麻衣にしました。
14年に一度の周期でひとりずつ、全国各地で加藤麻衣という名前の少女が誘拐される事件が起きている、とまず彼は言いました。
14年前誘拐された加藤麻衣は枝幸の中学三年生で、当時14歳。硲さんが知り合いの刑事さん(物の怪の爺さんと彼は言いました)と彼女をロシア人の誘拐魔から救い出したのだそうです。
そのさらに14年前、その物の怪さんが今の硲さんくらいの年の頃に、加藤麻衣さんは誘拐事件の被害者となって、遺体で発見されました。
そして太平洋戦争が一応の終結を迎えた1945年の夏、物の怪さんの幼なじみの加藤麻衣さんは神隠しにあい、鬼に喰われたような死体になって三ヶ月後に姥捨て山で見つかったそうです。
それ以前にも加藤麻衣の誘拐事件があったのかどうかは、資料がないためにわからないそうです。
「ぼくが顔を知っているのはそのうちのふたり、14年前の加藤麻衣と28年前の加藤麻衣だ。28年前の麻衣は写真だけだけどね。ふたりともきみと同じ顔をしていたよ」
3月6日、水曜日
「密寝具」という、麻衣が麻衣の手記につけた題に当て字をしたような平安時代の文献があるのだそうです。それはかぐや姫の原作とも言われているのだそうです。
題からもわかるように平安時代にすでに英語が日本にたどりついていたことを示す貴重な資料として宮内庁の管理下にあり、もっとも重要なのは、作者でもあり語り部でもあり主人公でもある帝の教育係の名前が「要雅雪」で、彼がかどかわした藤原道長の隠し子は「百姫(ももひめ)」、本名を「麻衣の君(まいのきみ)」というのだそうです。
3月7日、木曜日
硲さんの話を信じることは麻衣にはとてもできません。そんな偶然があるものなのでしょうか。
「その物の怪さんという人は?」
少しだけ気になって麻衣はオレンジジュースをストローで吸ったり、戻したりしながら聞きました。
「死んだよ、去年ね。彼の孫も二度も誘拐をされて、そのせいで定年も近いというのに無理をしすぎた。結局孫にも会えずじまいだ。死の間際、きみにもう一度会いたがっていたよ」
「お孫さんは?」
「鈴木芹香。知らないとは言わせないよ。枝幸で出会ったきみのともだちだよ」
そして硲さんはこう続けたのです。
「ぼくもきみをずっとおいかけてきた。やっと会えてうれしいよ、麻衣。探偵事務所はあの頃のままにしてあるんだ。さぁ、ぼくとなつめ市に帰ろう」
硲さんはテーブルの上に置いた麻衣の手を両手で優しく包んで、そう言いました。
14年前の加藤麻衣さんは、身よりがなく、誘拐事件のあとは硲さんが面倒を見ていたのだそうです。麻衣ではないその麻衣は、ある新興宗教がからんだ事件の捜査をしている途中殺されてしまったそうです。
硲さんの話を聞きながら何かが狂いはじめているのを麻衣は感じていました。
それが人なのか世界なのかはわかりません。
麻衣はとてもこわくて、とてもきもちがわるくて、ファミレスを飛び出しました。
モヨコちゃんの虹色の布を麻衣は持ち歩かなくちゃいけなかったのです。
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