1-3

 目の前にいる、美少女は一体誰なのだろう。

 ヒュマシャは、目の前でゆったりと宝石で飾り立てられた珈琲カップ受けを手に、その香りを楽しむ少女へと向けた睫毛を、驚きのままに上下させる。


  ――ポーリャ? あなた、ポーリャよね?


 宦官長クズラル・アースゥの案内に従い、後宮ハレムに足を踏み入れてすぐに出会った少女に、そう声をかけられたのはつい先ほどの事だ。はっ、とそちらを見遣れば、そこには、四年前、共に故郷から攫われトゥルハン帝国で女奴隷として売られたはずの少女――ガリーナがいた。

 彼女は故郷にいた頃より、農奴の娘であったヒュマシャのように乾燥から枯草のような手触りの金髪でもなく、せっかくの白い肌が日に焼ける事もなかった。領主の娘として苦労知らずで育ったために、生まれもった白磁の肌に、薔薇色の頬、月の光のような繊細な金の髪を損なう事がなかった。

 故に、近隣ではちょっとした評判の美少女であったし、それこそ、葡萄畑で働いていたために年中爪の中が果汁やアクで黒くなっていたポリーナ――ヒュマシャとは大違いだったのだ。


(あの頃から、外見だけは・・・・・まぁ、天使のように可愛いと思っていたけど……)


 四年ぶりに再会した彼女は、当時の感想なんて鼻先で笑ってしまうほどに、輝くような美しさを手に入れていた。元々白かった肌は、より抜けるように白く。月光を手繰り寄せたような髪はより柔らかく、より艶やかに。本物の橄欖石ペリドットさえ霞んでしまいそうなほど、キラキラと光を弾く大きな瞳。

 発光しているのではないかと思うほどの胸元は、内衣ギョムレッキをこれでもかというほど押し上げており、そのふくよかな乳房の間には深い深い谷間が見えた。


  ――懐かしいわ。あなたも、後宮に入ることになったのね。昔から、すごく可愛らしかったもの。当然だわ。


 ふわぁりと、まるで東方のシルクが舞うかのような柔らかな笑みを浮かべながら、ガリーナは聖母かそれとも慈愛の天使か、と思うほどに、親しげなで心安い声音をヒュマシャにかけてくる。彼女が一歩、近づき度に、頭布ターバンを彩る宝石がキラキラ光を弾いた。


(……えっ。っていうか、あたし達、そんな親しかったっけ!?)


 確かに会話をした事だけなら何度もある。

 けれど、その都度ヒュマシャには嫌な思いしか残らなかったし、彼女も決して自分を好いて話しかけてきたわけでもないだろう。攫われた後に、互いに心細くて寄り添った事はあったが、それでもこうして、まるで長年親しく付き合ってきた親友であるかのように話しかけられるとは、正直想像もしていなかった。

 少なくとも、彼女の口から自身に対し「可愛い」という言葉が出てくる事が信じられなかった。


  ――あ、やだ。忘れちゃったかしら? ミフリマーフって今は名乗っているけれど……ほら、ガリーナよ。同じ村で、育ったじゃない。

  ―-……あ……、いや、うん。ガーリャ、でしょ。覚えてる。覚えてる、けど……。

  ――ふふっ、その言い方。ちょっと素直じゃないの、本当にポーリャって感じ。懐かしいわ。


 その後、彼女はヒュマシャの意見など聞きもしないままに、宦官長に彼女を自身の部屋へ呼んでもいいかと訊ねていた。


  ――ヒュマシャは、皇帝陛下スルタンジャーリヤとして後宮へ上げた。ミフリマーフ、お前の侍女としてではない。

  ――わかっていますわ、宦官長さま。勿論、侍女としてではなく、懐かしい故郷のお友達が後宮に上がる事になったんですもの。お友達同士、積もる話がしたいというだけですの。


 元よりこの後宮での侍女というのは、容色がさほど優れず皇帝に召される可能性のない女奴隷たちがなるものである。一瞬、ヒュマシャ自身も、彼女の侍女となるために呼ばれたのかと思ったが、四年という長い時間はかけたものの、それでもジャーリヤとして後宮に上がった彼女を侍女にするというのは、側室イクバルとして寵愛を受けているガリーナ――ミフリマーフにも無理な話らしい。

 本来ならば、そのまま妾たちの大部屋へと赴き、そこで後宮での新生活を始める事になるはずだったヒュマシャは、同郷の知己に出会ったせいで彼女の部屋に呼ばれることとなったのだった。


(……って思ってたけど、本当にこれ、ガーリャなのかな……)


 招待された彼女の部屋は、四方を美しいタイルや壁画で飾られており、室内を一周するかのように長椅子セディルが取り囲んでいた。床には幾何学模様の厚い、如何にも高級そうな絨毯が敷かれており、至るところに置かれたふかふかとしたヤストゥク(クッション)は、平織りキリムの織物でカバーがかけられている。恐らく、故郷にいたならば一生お目にかかる事のなかっただろう品々である。

 けれど、「一生お目にかかる事がなかった」というならば、数々の絢爛な調度品や部屋ではなく――。


「それにしても、本当に可愛くなったわね。ポーリャ……あ、いえ。ヒュマシャ、だったわね。村にいた頃から、可愛いとは思っていたけれど、こんな美少女に成長するだなんて、思ってもいなかったわ」


 珈琲カップへと軽く口をつけながら、ふんわりと微笑みをヒュマシャへと向けてくるそのおもては、記憶よりも遥かに垢抜け美しくなっているものの、確かに知己のものである。

 しかし、彼女から紡がれるその言の葉は、ヒュマシャが収穫したばかりの葡萄を片っ端から食べて行き、悪意を可愛らしい微笑みと声で包み込んでいた彼女ととても同一人物だとは思えなかった。


「どうしたの? 遠慮せずに、くつろいでね? 今日は、後宮へ陛下のお渡りがないそうだから、ゆっくりしましょうよ」

「……いや……。別に、遠慮はしてないけど……」


 ミフリマーフの侍女から差し出された珈琲カップ受けを手に取り、口許まで運ぶものの、どうにも状況の呑み込めなさに再びそれを絨毯の敷かれた床へと置いた。


「さっき、宦官長から後宮にはルィム出身の妾が寵愛を受けているって聞いたけど、それ、あんたの事だったのね」

「そうね。陛下のご寵愛を頂いていらっしゃる側室は、他に何人かいらっしゃるけれど……ルィム出身は、私だけだわ」

「ねぇ。……訊きたいことがあるんだけど」

「なにかしら。えぇ、どうぞ?」

「……あの日一緒に攫われて売られたあと、どこでどうしていたの?」


 奴隷市場で売られた時に、目玉商品・・・・だったガリーナは、とっとと高値で落札されたが、彼女を買っていったのは南方出身の黒人ではなかった。その後、後宮入りする前に教育を受ける場所でも彼女を見かけることはなかったし、てっきりどこかの豪商なり高官に買われたものだと思っていたが――。


「私を買ったのは、大宰相ヴェズラザムさまだったわ」

「大宰相さま……?」

「そう。大宰相の、メフメド・パシャさま。トゥルハン帝国の高位の方々は、時々後宮に入れる妾を自らご教育されて、送られるそうなの。もっとも、黒人宦官たちが買い集めるように、北方出身なら誰でもいいっていうわけではなくって、それ相応の女だけ……らしいんだけど……」

「ミフリマーフさまの美貌は、世界中の花々を集めたとしてもきっと花の方が恥じらってしまうほどのお美しさですからね」

「後宮には大輪の花々がおいでですけれど、ミフリマーフさまの美しさ、そして賢さに勝てる者などおりませんわ」

「まぁ……二人とも。それは贔屓が過ぎるというものだわ」


 困ったこと、と言いながら美しい形の眉の尻を下げ、口許にほっそりとした指を当て微笑むミフリマーフの表情は、それでもまんざらでもなさそうだ。

 つまり、あの日同じように売られていたにも関わらず、ヒュマシャは選ばれず、彼女のみが選ばれたのは、自分が優れていたせいだと――どうやらそう言いたいらしい。人の事をどうこう言えた義理ではないが、あの葡萄を煮詰めたような黒い腹は一体どこに消えてしまったのかと案じていたが、あまりに懐かしい彼女らしい顔がようやく出てきたことで、ヒュマシャの唇はにんまりと弧を描いた。


「確かに昔から、ガーリャ……、いえ、ミフリマーフは近隣でも評判の美少女だったものね」

「まぁ。ヒュマシャまで……」

「炎天下で人が葡萄収穫している真横で、呑気に葡萄をバクバク食べてて。栄養たっぷり取って、ストレスなしの楽しい生活送ってたせいで、本当お肌も綺麗で、髪もツヤッツヤで。本当、羨ましいくらいの美少女だったわね」


 にこにこと微笑みを頬に溶かしていたミフリマーフのおもてが、ス、と温度をなくした。柔らかい橄欖石の瞳が、一瞬で冷える。月の光ミフリマーフの名の通り、冷たい光がヒュマシャへと矢のように刺さった。

 けれどその程度で怯むような少女ではない。故郷では、散々彼女が作った揉め事のせいで買わなくてもよかった喧嘩やしなくても良かった苦労、怪我をしてきたのだ。

 さらに、後宮に入る前の教育場でも、女の世界であったわけで、一通りの修羅場は潜り抜けてきている。

 相手が如何に側室さまと言えど、怯んだら負けだ。ヒュマシャが眉根を寄せて、真っすぐに彼女の瞳を見返すと、橄欖石と藍晶石カイヤナイトが冷たい火花を以て絡み合う。

 何が起こったかわからずあたふたとしはじめたミフリマーフの侍女たちの姿に、どうしたものかと思い始めた頃、ふ、と凍り付いた空気を砕くようにミフリマーフは固まる表情を一瞬で解いた。その呆気なさに、ヒュマシャの睫毛が一度あれ? と上下する。


「ありがとう。でも、ヒュマシャもやっぱり可愛かったわよね。あの頃から、ずっとそう思っていたのよ」


 突然の持ち上げるような発言に、少女の眉が先ほどとは意味を変えて顰められた。


「でもこんな美少女になるなんて、想像もしていなかったわ」

「いや……いや、私も別に自分を不細工とは言わないし、そりゃ後宮に入った以上そこそこの外見はあるとは思ってるけど、あんたに言われると嫌味以外の何物でもないんだけど!?」

「まぁ。自分の魅力を理解していないのは良くないわ、ヒュマシャ。あの頃は日焼けしてたけど……今なんてほら、抜けるような白さだわ。それにその藍晶石の瞳に、赤みがかった柔らかそうな金の髪も、誰もが羨ましがるものじゃない」

「……そ、そう……?」


 正直、自分程度の外見ならば、後宮には掃いて捨てるほどいそうなものだが。

 むしろ幼少期から十二歳になるまで栄養が足りなかったせいか、するするっと身長こそ伸びたものの、胸やら尻やらにいまだ肉はつかないままだ。好みの差はあれど、ほっそりとした体型は、この後宮では好まれないものだろう。

 ふ、と気づけば窓から夕陽が差し込み、部屋全体が橙色に染まりかけていた。あとしばらくしたら、夜の帳が下りてきて、橙と闇の色が混ざり合い、瑠璃色に空が滲むのだろう。


「ねぇ、あたし、いつまであんたの部屋にいていいの?? そろそろ妾の大部屋に帰った方がいいんじゃないの?」


 すっかり冷えてしまった珈琲に口をつけ、啜りながら目の前の側室さまに訊ねると、彼女は可愛らしい顔に拗ねたような表情を貼り付けた。


「いやだわ、ヒュマシャ。久々に会ったのにもうお別れなんて寂しいこと、言わないで」

「寂しいって……同じ後宮ところに住んでるじゃない。またどうせ会えるんじゃないの?」

「それはそうだけど……。ねぇ、今日はこの部屋、泊まっていきなさいよ」

「は?? なんで??」

「だから言ったじゃない。久々に会ったんだし、積もる話っていうのがあるでしょう?」


 いや、あたしには特にないんだけど。

 喉元まで出かかった正直な気持ちは、相変わらず柔らかな笑みを浮かべた彼女の姿に音を持つことなく口内で溶けていった。

 相変わらず、腹黒いところは健在で、実際自分を上に見せたがる傾向も変わる事はなさそうだが、それでももしかしたら彼女にしてもこの後宮で色々心細いことがあるのかもしれない。

 久々に出会った同郷の知己に、必要以上の懐かしさを感じてしまっているということなのだろうか。


「……まぁ、あんたがいいなら……。あと、宦官長さまがいいって言えば……」

「宦官長さまには……、アサル。報告してこれるかしら?」

「承知いたしました、ミフリマーフさま」


 許可を得る為に、侍女を使わすようだ。

 そこまで言われたからにはしょうがないか、と、ヒュマシャは飲み終えた珈琲カップ受けを絨毯の上に置くと、「じゃあお邪魔するわ」と承諾する。


「嬉しいっ。今夜はちょっと、夜更かししてお話しましょうね」

「……まぁ、別にいいけど……。わっ、すごい夕焼け。あっちがヒッポス海峡? 眺めいいわね、この部屋」

「でしょう? 本当、まさかあなたと再会して、この景色を見ることになるなんて思ってもいなかったから、嬉しいわ」


 両手で唇を抑えながら、ミフリマーフの橄欖石は微笑む。


「……こんな美少女になって……後宮で再会する事になるなんて、ね……」


 すぅ、とその瞳が細められた事を、ヒュマシャは知ることなく、窓の外の橙を見つめていた。

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