君は強くなれる。僕は、
凍龍(とうりゅう)
第1話 手羽先の唐揚げ
彼女と初めて出会ったのは、梅雨の走り、小雨まじりの午後だった。
僕の所属する物理化学部の部室に、彼女は一人でやって来た。
女子が訊ねてきたと困惑気味の後輩に呼ばれ、慌てて戸口に立つ。と、そこにはボサボサの長い前髪のすき間から、ギョロリとした黒目がちの瞳で俺を見上げる一風変わった女の子が立っていた。
背はそれほど高くない。夏服に変わったばかりの制服からのぞく手足はとても細く、肌は随分と日焼けして浅黒い。とてもとても失礼な言い方になるけど、彼女を見て僕が最初に連想したのは、名古屋名物〝鶏の手羽先唐揚げ〟だった。
「あの」
その瞬間、僕は思わず息を飲んだ。
僕のへんてこな妄想を一瞬で振り払うほど、その声は涼やかだった。
「岸田先輩から紹介されて来ました」
「……ああ!」
なんとなく見えてきた。
岸田先輩は学外で他校の生徒と組んでバンド活動もしている吹奏楽部の三年生(イケメン)だ。うちの部長(ブサメン)と同じクラスで、属するカーストが天地ほど違うくせに妙に仲がよく、前に一度、部長を介してバンドのMV撮影を依頼されたことがある。というか、部費調達の手段として、僕本人が知らないうちに部長が僕を売ったというか。
「岸田先輩、撮影のセンスがいいってすごくあなたのことを褒めてて、今度のことも手伝ってもらえないか聞いてこいって言われて……」
「へえ」
思わず頬を緩める僕。
一方、僕の背後からは、扉の裏に張り付いて僕らのやり取りに耳をそばだてていたらしい部員連中のため息が聞こえてくる。まさか告白でもされるとでも思ったのか?
(残念でした。こんなメガネの陰キャに誰が好き好んで……)
「うちの部、今年が創部四十周年なんです。それで、秋の定期演奏会の来場記念に会場で特典映像を配ることになりました」
「なるほど、それで?」
「はい、毎日の練習風景から、春の定期演奏会、そして今年の吹奏楽コンクール地区大会までのビデオクリップを――」
「僕に撮影しろと?」
「はい。ああ、いえ、撮影だけじゃなく、できれば録音も……」
「うーん」
僕は唸り声を上げた。
ボーカルに加え、キーボードとギター数本のバンドなら録音はそう難しくない。ボーカルの声はマイクが拾うし、ドラム以外の楽器の音はすべて電気信号だ。ミキサーにそれぞれの楽器の音が集まってくるので、単純にそこからミックスアウトを分岐してもらえばいい。ドラムだって、専用のマイクを一本追加すればこと足りるだろう。
でも、数十人編成のブラスバンドになるとそうはいかない。電気信号になっている音が一つもないので、ステージに生録用のマイクを立てないといけない。それも何本も。結構な大仕事だ。
だが、僕がしかめっ面で悩んでいるのを誤解したのか、彼女は慌てて言葉を補う。
「プロを雇うほどのお金はないですけど、ちゃんと部費から必要経費もお出しします! わずかですけどお礼もできます! それに、私も全力でお手伝いしますから!」
「……まあ、そうだな」
僕は悩んだ末に頷いた。
彼女の必死な表情にほだされたというのもあるけど、部長の
岸田先輩もそれを見越して、部長でなく僕に直接
「わかった。で、いつから始めればいい?」
「では、今から」
「えっ!」
「早速部室に行きましょう!
そう言うと彼女はさっと小雨交じりの空を見上げる。よっぽど気がせいているのか、そのまま駆けだして行こうとするそぶりさえ見せる。
「ああ、ちょっと待って!」
僕は慌てて背後の扉を引き開けると、扉の裏側に張りついて気配をうかがっていた部員たちが転がり出てくるのをまたぎ越して部室の中に踏み込んだ。長机に放り出していた自分の鞄をつかんですぐにきびすを返し、傘立てにぎっしり詰め込まれた透明なビニール傘を適当に二本抜き出すと、一本を彼女に手渡した。
「あ、ありがとうございます」
「行こう。これ以上ここにいると君が汚れる」
僕は相変わらずその場に転がってだらしないにやけ面を浮かべている部員達を冷たく見下ろすと、彼女をうながした。
こうして、僕はこれまで全く縁のなかった吹奏楽部に関わることになった。
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