Ⅰ.無礼者と箱入り娘

1.地獄の底のベリアル

 かち、かち――薄暗い部屋の中で、小さな金属音が繰り返し響いている。


 女が一人、延々とライターを弄っている音だ。

 やがて女は大きくため息を吐き、ソファに深く体を預けた。


「……退屈だ」


 低く、甘く――聞いた誰もが安らぎを覚えるような、そんな美しい声をしていた。


「平和ってやっぱり体に悪いね。本気でやることがない」


 またライターに火を点すと、女は視線をゆるりと前に向ける。

 そこには、古いブラウン管型のテレビがあった。

 暗い画面に映るのは、すらりとした長身を黒のスーツに包んだ女の姿だ。

 眼にも鮮やかな赤髪。肩に触れるほどの長さで切り揃えたそれには青いメッシュが幾筋か混ざり、どこか落日の空の色を思わせた。

 寒気がするほど整ったその顔は、今は空虚と倦怠の色に染まっていた。

 その左頬から首筋にかけて、禍々しい黒の紋様が刻まれている。

 それを指先でたどり、女は深くため息を吐いた。


「前の世界大戦から、何年経ったかな……適当にどこか爆撃してみようかな……」


 小さな電子音が響いた。

 コミックスやコーラの瓶を満載したテーブルで、ショッキングピンクの小型端末が震えている。淡く光る画面には、『ミカエル(偽)』の文字が浮かんでいた。

 女は緩慢な所作で手を伸ばすと、通話とスピーカーのボタンをタップした。


『貴様に仕事だ、ベリアル』


 不機嫌そうな声が響く。

 女は――ベリアルは鮮やかな緑色の瞳を細め、淡く光る画面をけだるげに見た。


「不躾な奴だな。私、今ものすごく忙しいんだけど」

『嘘を吐け。……ともかく、十分以内に万魔殿に来い。来なければ殺す』


 通話は切れた。ベリアルは重いため息を吐き、立ち上がった。

 窓の側に立ち、黒いカーテンを引く。

 血の滴るような赤い月。異様な星座の輝く空。哄笑とともに乱れ飛ぶ悪鬼悪霊。

 そして上下左右に、無数の破片めいた地面が積層する。

 みっしりと重なり合う破片の大地は、いずれも毒々しい色をした光に満たされている。あちこちに棺桶のような奇妙な建物があり、そして病的な数の避雷針が聳え立つ。

 遥か彼方には、いまだ燃えながら浮遊しているバベルの塔の残骸が見えた。

 人は、この場所を『地獄』と呼ぶ。


「……ひどいな、雨じゃないか」


 毒々しい色をした雨雲を見上げて、ベリアルは唇を歪めた。


「雨の日に呼び出すなんて人でなしの所業だ。――仕方がないな」


 ライターを手の中で弄びながら、ベリアルは部屋を後にした。

 暗い超高層住宅から出て、青い街灯が瞬く寂しい路地に立つ。

 ベリアルが指笛を吹くと、それに答えるように咆哮にも似たエンジン音が響いた。

 超高層住宅の地下から、強烈な明かりがせり上がってくる。そうして漆黒ののスポーツカーが一台、ベリアルの前に滑るようにして現われた。

 車はベリアルの目の前で止まると、運転席のドアを自動的に開いた。


「……良い子だ、ヴァニティー。私の可愛い子」


 革手袋を嵌めた手でボンネットを撫で、ベリアルはヴァニティーに乗り込んだ。


「久々のドライブだ。ちょっとは面白いものがあるといいね」


 革張りの座席に身を沈め、ベリアルはアクセルを踏み込んだ。

 獣の咆哮にも似たエンジン音が高く響く。

 回転するタイヤが炎を纏い――浮き上がる。

 そうしてヴァニティーは、地獄の夜空へと駆け出した。

 雨の日にも関わらず、地獄の交通は盛んだった。

 車、箒、馬、龍、三角木馬、猿轡を噛まされた四つん這いの罪人――そんな様々なものに乗った悪魔達が、あらゆる破片を盛んに往来している。


「おやおや。今日も賑やかだね」


 黒猫を満載したロボット掃除機がふよふよ飛んでいくのを見て、ベリアルは呟く。


「悪魔も死霊も楽しそうだ。結構なことで」


 溶岩浴場。生き埋めヨガ教室。洗剤から人体まで幅広く取り扱うスーパーマーケット――。

 地獄の人気観光スポットは、どこもかしこも人外のもので大賑わいだ。

 そんな光景を前に、ベリアルはハンドルに顎を乗せる。


「……ずるいね、ほんと」


 やがてヴァニティーの濡れたボンネットに、妖しい光が踊り出した。

 万魔殿に到着したのだ。

 その破片は全体が奇妙な色をしたオーロラによって包まれ、護られていた。

 まず、棺桶に似た建物が目に映る。

 見ただけで気が狂いそうなほどに複雑怪奇な構造をしている。黒い建材と骨肉にしか見えない何かで作られたそれは巨大で、上層には霞みが掛かってみえた。


「さてさて……魔王陛下のご用件は、一体なにかな」


 ぼやきながら、ベリアルは万魔殿へとヴァニティーを走らせた。

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