第5話

「あとは洗い流して、っと……――」


 桶で掬った温泉を少女にかける。彼女の身体を伝うにつれて湯は黒ずんでいき、地へと流れ落ちて還元されていく。それを四度繰り返すと、少女を覆っていた汚れは綺麗さっぱりと無くなった。


 そして、奈津を唖然とさせる事となる――汚れ無き本来の少女が姿を現す。


 怪しく光り輝く黒髪、腰を通り過ぎて臀部まで伸びた長い髪。麗しく透き通る柔肌、言葉を失うほどに綺麗な白い肌。神々しく端正な顔、全てが完璧でありその他一切は劣等種と思わせる彼女の容姿。

 まさにそれらはこの世のモノではなく、どこかで何かの間違いで生み出されてしまった存在なのではないかと、初見した者に思考させてしまう。故にその初見者となった奈津に言葉など無い、ある筈が無かった。


「……奈津様?」


「――ふぇ、あ、」


 鈴の音をかけられる事で、奈津は言葉を取り戻す。しかしその後を続かせるには、今しばらく時間が必要だった。

 瞼を閉じて疑問を投げかける横顔。黒ずみが消え失せたそれがあまりにも怪しく美しくて、同性である事が非道く申し訳ないとさえ思ったからだ。


 息を呑んで、自分は発言してよいものなのかと思案する。しかし考えが思い浮かばない。仕方ないので取り敢えず許しを請おうと口を開いた瞬間に、奈津は喫驚して気付いた様に我に返った。何度か頭を振って、抱いていた不可思議な感情を振り払い、いつもの調子で思った通りに述べる。……だが、少女に対する懸念は払い切れていない。


「綺麗……ううん、綺麗なんてもんじゃない、違いすぎるもの。あんたってさ、一体何者?」


 岩の向こうで草村が大きく揺れる。奈津はそれを見逃さなかった。


「……久野。あんたアタシに隠してる事あるでしょ」


「いやぁ、まぁ、ははは……」


 はっきりとしない返事。しかし明らかに戸惑っていた。久野の事をよく知る奈津はこの時点で彼が何かを秘密にしている事を悟り、奈津の事をよく知る久野はこの時点で彼女が既に感づいてしまったと悟る。


 少女が疑問符を浮かべる静寂の中、しばらくして、観念した様に岩が喋り出した。


「……ああ、その子は人じゃない。遠い所から旅をしてきた、鬼だよ」


「やっぱり。よくよく考えてみれば変だと思ったのよ。目が見えないのにここまでひょいひょい付いて来るし。まぁ、今になって疑問に思うアタシもアタシだけど……でも。まさか鬼だとは思わなっ――……え、鬼なの?」


 そこまで口に出してから気付いたのか、少女が何者かを再確認する。想像もしていなかった存在、最恐の闘争生物を改めて見つめる奈津から徐々に血の気が引く。


「――――ふぎゃあぁぁあ!」


「うわっ、何でこっちに来るんだよ!?」


「だだだだだって、鬼っ、鬼っ、あれでしょ、あの鬼でしょ!?」


 久野の下へと逃走した奈津は、肩を震わせながら彼にしがみつく。自分がなんの体を洗っていたのかとわかった途端に、言いようの無い恐怖が走る。


 人が鬼に対する捉え方は二通り、蔑むか恐れるかの二つ。あまりにも理からかけ離れた存在故に、脆弱な種族はそれ以外に抱くものは無い。後者に位置付く奈津は間違っていない、異例とも言える久野の反応自体が異常なのだ。


「こ、こら。彼女に失礼じゃないかっ」


「じ、冗談言わないでよ、あんたアタシにあんなものの世話させてたの!?気分悪くして殺されでもしたらどうすんのよ!」


 引っ剥がそうとする久野に奈津は尚もしがみつく。薄手の着物が湯気で濡れて身体の線が浮かんでいようと、はだけて淫らな姿になっていようと、気にも出来ず縋りつく様に彼から離れようとはしなかった。


「やだやだやだアタシ帰る!帰るったら帰るっっ!」


「そう言うなら何で抱き付いてくるんだよ……」


「だって恐いんだもの! だからあんたは黙ってアタシを抱えて走ればいいのよ! 胸もお尻もこの際触ってもいいからさっさとここから連れ出しなさいよ!!」


「ちょっ、落ち着けってば。彼女は鬼だけどそんなに恐ろしくは」


「奈津様、如何なされたのですか?」


 と、ひょこっと横から少女が覗いてきた。


「ああすみません。奈津が少々取り乱してしまっ――うわっはぁあ!?」


「ふぎゃあああ!?」


「?」


 突然上がる叫び声に、奈津も驚いて同じく叫ぶ。

 何故久野が叫んだかと言えば、少女の裸体を間近で視認してしまったからだった。彼は、初なのだ。


「奈津様?」


「ふぎゃあ!ごめんなさいごめんなさい。気安く話しかけてごめんなさいってばぁあ!」


「こらっ、だから落ち着けって。すみません、暫くすれば元にぃああああだから早く体隠して下さいぃい!」


 頭を擦り付けてくる奈津を久野はなだめる。同時に少女も気遣うのだが、如何せん此方は格好がまずかった。湯気でいくらぼやけていようと、裸体の艶めかしい凹凸も形も見えるものは見えてしまう。

 幼気で経験が少ない者には刺激が強すぎる上、加えて相手が隠そうともせずに棒立ちなので、気になって言葉を上手く繋げない。

 自分までも彼女を避けている様な姿勢を悪いと思いつつも、出来れば近付いてほしくないと願う。しかしどうにかしたいのだが、やはりどうにもならない。久野は中間で困惑混乱右往左往するばかり。


 そんな状況を前進させたのは、一番落ち着いている少女しかいなかった。


「……奈津様も、ワタクシが恐いのでしょうか」


「あったり前でしょ!鬼が恐くない訳ないで、しょ、お……?」


 あまりの恐怖が通り過ぎ、憤慨へと移り変わっていた奈津は途端に言葉が詰まる。怒鳴りつけた相手の表情を見て、忙しなかった昂ぶりは最終的に呆然とする。


「ち、ちょっと……何よ、そんなに悲しい顔して……」


「あ……、申し訳ありません。ここまでの道中でも、そのような反応をされたものでして……」


 苦笑いを浮かべる。隠そうとしているのか、俯く。


「……久野様と奈津様に会う前にも、ワタクシを見て優しくして下さった方がいました。しかしワタクシが鬼だとわかった途端に怖がり……追い払うように刀を振るわれたのです……」


「――あ」


 奈津は呟く。


 少女の体を洗う際に脱がした着物、その背中が、大きく袈裟切りにされていたのを思い出した。綺麗な切り口は裂けたというよりも切られたに近く、それは刀によるものだと人目でわかった。どんな出来事があったのか、不審に思っていたけど聞けなかった疑問がこれで合致した。


 ――因みに、少女の肌には裂傷の痕などない。刃が届かなかったのではなく、刀を振るった人物が彼女を傷付けるに至らない力量だっただけの話。


「……しかしお気になさらないで下さい。鬼はやはりそのようなモノですから。御二方のご厚意には真に感謝しております。ワタクシは速やかに去ります故、どうか忘れて下さ――」


「ちょっ、ちょっと待って!」


 遮る為に、奈津はやっと久野から離れ、去ろうとする少女の手を握る。


 少女は、何が起こったのかわからないと云った表情で奈津を見つめる。先程まで怯え震えていた人間が手を取り、何故か自分を引き留めている。此方へと振動が伝わってこない事から、彼女の震えが止まったと知る。

 少女にはそれが何を意味するのかわからない。奈津が何を考えてこんな事をしているのかわからない。


 戸惑う心は彼女の言葉で、


「……悪かったわよ」


 更に困惑した。しかしそれも時間の問題、紡がれていく言葉に少女の心は晴れていく。


「奈津、様?」


「わ、悪かったって言ってんのよ。鬼は確かに恐いけど、けど……あんたからはそんな感じしないし……体を洗ってる時は普通に楽しかったわけだし……」


「…………」


 嘘ではない。確かに楽しかった。同年代の異性と言葉を交わし、風呂で肌を重ねる。互いの事はまだ知らねど、友のように接した一連は、本当に楽しかった。


 だが何より、少女の態度と雰囲気は、奈津が思う鬼の姿とはかけ離れていた。姿形は自分達とどこも違いはなく、美しく華やかでいて、どこか切ない。これが血と闘いだけを求める種族……と、言えるのだろうか。

 存在を知ってからは恐怖で満たされていたが、でも少女を見ていると、言葉を交わしていると、それは無くなってゆく。彼女の寂しげな立ち振舞いを見ていると、どうしても引き止めたくなったのだった。


「〜〜〜っ、あんたは大丈夫ぅ……かも知れないじゃない!? 正直アタシは鬼の事よく知らないから、名前だけで一方的に恐がるのも気分悪いでしょうが!」


 奈津の頬は紅かった。それを誤魔化す為に、敢えて彼女は喚く事を選んだ。


 暫しの静寂――。


 久野は奈津の変わり様に唖然とし、それは少女も一緒だった。少女に関しては言葉しか認識できないが、握り締めてくる手の強さで奈津の想いが伝わってくる。だから先に綻んだのは、鬼の頬。


「……奈津様――!」


「ふぎゃっ?!」


 嬉しくない訳がない。自身が世間ではどのように思われているのか聞かされていた。加えて体験もした。たまらなくなった少女は奈津に抱き付いた。勢いそのままに押し倒し、猫みたいな顔で胸に頬ずりする。


「く、くすぐった…っ…ちょっと、止めなさ…くふっ!」


 構わず赤子の様に甘えてくる感触は、胸が平坦な為に大きく感じてしまう。奈津は笑いを抑えるのに必死で、少女を放す事を忘れていた。


 そんな、仲の良い姿を、久野は見る事が出来なかった。目の前で起こっているので視認するのは容易なのだが、上になっているのが少女というのが問題だった。最早湯気も全く関係ないと云った光景、露わとなった臀部を見まいと真っ赤な顔を明後日の方向に固定する。


 でも、頬は笑っていた。きっと彼も、嬉しかったのだろう。


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