17: record 街道


 宇多川うたがわほたるは約束の公園であさひを待っていた。砂場のドームにやわらかな陽が注ぎ、風も穏やかだ。

 間もなく緩い私服の旭が現れた。美大からそのまま来たらしく、絵の具のついた平たい鞄を持っている。

「昨日はありがとう」

「あいつどうなった?」問いかけではあるものの、教員の末路には何の興味もなさそうだ。

「計画的な失踪っていう設定で化学が自習になった。出勤拒否扱い」

「最高だな」旭は力の抜けた笑い方をしてブランコの柱に寄りかかる。強い風が過ぎた後、フィデルに頼まれた絵を描きに水族館へ行きたいと言い出したので同行する旨を伝えた。

 陽射しの下で昨日の偽制服姿を重ねつつ観察していくと、くたびれたトレーナーの輪郭に光の縁取りができていた。特に彫りの深い顔ではないが、瞳の色が透き通った濃い緑で、髪も茶に近い。そしていつも頑なに集団を避け、罠だらけの社会に対する離反的な態度を崩さない。単独主義故に、紙と鉛筆さえ供給されれば無人の廃街でも生きていけそうだ。

 旭は日頃からあまり他者の話をしないので、フィデルとどのような感覚で接しているのかはわからないけれど、漫画の関係で繋がっているのなら嬉しく思う。


 流れ着いた暗く青い空間で、少し離れたところから柱の形をした巨大な水槽を眺めていた。視覚的な美しさにこだわりが感じられ、揺れ動く色合いがとても綺麗だ。

 館内を描き写している旭の隣で吹き抜けの手摺に腕を載せる。

「できるだけゆっくり描いて。海の仲間たちとここで暮らしてもいい」

 手摺に向き直ったとき、ひとつ下のフロアに見慣れた学生服の男女を捉えた。無意識に顔を確かめた刹那、ぞっとして後ずさる。

 異変を察知した旭の、鉛筆と同化した手が腕に触れた。「大丈夫か?」

飛田ひだが……」

 一緒にいる女子は、小兼こがね杉谷すぎたにと行動を共にしていたメンバーだ。次の標的にするため、慰めるふりをして誘い出したのだろう。きっと彼女も殺される。

 旭は険しく唇を閉じ、狙撃手風に階下の様子を窺い始めた。「あの制服の男が飛田なのか? ……隣の女子と喋りながらフォンの画面見てる。たぶん俺たちには気づいてない」

「イメージと違った?」飛田の率直な印象を訊いてみたくなる。「友だちがたくさんいて好かれてる感じがしない? 人殺しだけど」

 旭は僅かに首を傾けて苦く笑う。「いや、そのものだった」


 先に水族館を離れるよう指示され、サブウェーに乗った。彼の閃きで避難場所に選ばれたメディカルセンター前の広場は、患者とナース、見舞いに訪れた人々で賑わっている。

 初めはなぜここなのかと疑問だったが、デート中の飛田が遠くの医療施設に来る確率は低く、仮に旭とふたりでいるところを見られても、偶然話し込んでしまった他人を装える。

 涼しげな芝生に癒され、花壇と一体化したベンチに座って旭の到着を待った。

 水族館で眺めていた彼の絵を鮮明に思い出せるけれど、描き手の静かで深い感情の重みと、美術へ捧げた命の温度を想像させる作品だった。

 旭の、幻惑的な世界をえがき続ける直向きな強さを見上げずにはいられない。柔脆であたたかい土台を夜の美しい紺で包んだ彼の絵が、虚ろな傷の傍らに青い水路を残す。

「遅くなって悪かった」

「そんなに経ってないでしょ」と現れた旭の前で太陽を指す。「無事でよかった」

 本当は飛田と歩いていた女子に駆け寄り、殺されたくないなら今すぐに逃げてと伝えたかったが、こちらの言葉を信じて行動してくれる可能性はゼロに近い。戦略が必要だ。

 ベンチの横に手を遣って促すと、彼は浅く頷いて隣に掛けた。

 自然な流れでスケッチブックを取り出した旭に高等科時代のことを訊ねたかったけれど、寡黙な胸に穴をあけて中を覗くような真似をしてはいけない。

「灰色の街、いつ描き上がるの?」

「順調にいけばもうすぐ。……ほしいのか? 頻繁に進捗知りたがってるけど」

 あんな絵、と言いたげな口調に容赦のない自己否定が揺れている。

「くれるの? 貰おうかな。素敵な街だったから」

 無関心な態度ながらもどこか嬉しそうな横顔を見ていると、ベンチの前に可愛いあれが転がってきた。

 弾む球体を拾い、芝生で遊んでいた子どもに手渡す。直後、何気なく視線を向けたメディカルセンターの窓から、こちらを窺っている白衣の男性が目に留まった。距離があるため定かではないが、軽く会釈したように見えたので、遅れて同じ動作を返す。まったく覚えのない人物だ。旭の知り合いかもしれないと思い、広場をデッサンしていた彼に告げる。

 しかし旭が鉛筆を止めて立ち上がった頃には、3階中央の窓は無人になっていた。

「たぶん平間ひらまセンセイの同期だ。挨拶するの面倒だから逃げるぞ」

 彼の反応からは微かにも不穏な気配を感じなかった。それ以前に、顔を合わせたくない相手がいるのなら、ここを避難場所に選ぶはずがない。

 迫る敵を意識して冗談ぽく歩道を駆けている最中さなか、街を潤す生温い雫がふわりと広く降り注いだ。鞄を傘代わりにした旭に抱き寄せられ、服の布越しに大きな身体が触れたとき、『明日死んで絵を奪われても後悔しない?』と口にしかけて胸が痛んだ。

「駅前の公園まで走れるか?」

 振り仰ぐと、旭の前髪から伝い落ちた水滴がトレーナーの襟に吸い込まれていた。

「これ使って」

 ポケットに入っていた薄い紫のハンカチを首元に押しつけたが、汚せないというニュアンスで布を返してきたので、小さな子にするように彼の肌からやさしく水気を拭う。

 旭は称号を授かる騎士と同じ表情で頭を下げ、跪かずにそっと目を閉じた。

「眠いの?」とトレーナーの袖口を引っ張ってみる。「髪も拭いていい?」

 互いに扉の鍵を見せ合わないまま壊れていく関係かもしれないけれど、たとえば通り雨の襲撃で、離れ離れになったりはしない。



                               record:17 end.

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