羅生門・後記
白水悠樹
羅生門・後記
辺りはただ闇が広がるばかりで、誰かの通る様子は無い。何処か、はるか遠くの木々のざわめきの中を、
この頃の京都はすっかり廃れていた。疫病やれ盗癖者やれがそこかしこを行き交い、死に急ぐ若人が道の脇を埋めて行く様を何もせずに見るのみである。やがて心残りを失った人々は、都を抜け、何処かに彷徨い、帰ってくることは無いのであった。下人もその一人である。小さな店でいくらかの盗みを犯しながらも、都の行く末に恐れを成して、今夜その決意を固めたのだ。
下人は凍えるようにゆらゆら頭を振り、手を震わせながら歩いている。雨上がりの道を行く足取りは重く、微かに怯えた様子もある。上がりの空に月は無く、下人の進む道は、その暗闇に慣れた目でも二寸先すら見通せない。
下人の変に歪んだ背を押す乾いた風が、秋の寒さを運んでいる。月は雲に覆われて、進む頼りを無くしてしまいそうである。
そんな中、この暗闇を進む下人の足取りは確かなものであった。どうしてかと言うと、この時下人は海を目指して歩いていた。誰かの下で暮らす他なかった下人は、少なからず見知らぬ土地に興味を持っていたのだ。下人は大して博識では無かったが、川の流れる先に行けばやがて海に辿り着くと言うことを、流れの
そうして下人が歩いていると、ふと自身の行く先に小さな火を見た。それは確かな人の足取りを映している。こんな夜において火を持ち道を行く者であるから道中稼ぎかとも思えたが、今にも消えそうな火が闇夜に浮かべたのは渋柿のような一人の
「あんさん。」
ようやく下人の足元に来ると、伸び切った髪から手が伸びて着物の袖を引き、砂の混じったような声が下人を呼び止めた。しかし、下人はそれを振り払い歩き進めた。童は軽く押し出す程度でも倒れ転けてしまいそうな程に貧弱であった。下人は多少なりとも申し訳ない様に思って目を細めた。
「あんさん、待ってくんろ。」
童が今度は下人の前に枯葉のような足で仁王立ちすると、
「なんだと言うのだ。俺はこの夜の内に海に行かねばならんのだ。幸い俺は、お前のような童から物を盗るような冷血漢では無い。とっとと去れ。今すぐ去るが良い。」
「そんな事言わねで。あのな、父っさんが寝っ転がったまんま動かねのさ。あんさんは良い人でねえの。自分で言ったものな。そんだからね、あんさんや、お願いしたいのさ。少しで良いから、来ておくれよ。」
この童は下人を何処かの医者だとでも思っているようだが、この事が下人には不思議で仕方がなかった。そもそも、人一人の命を救うためにたった一人で何を出来るという訳でも無いだろうが、今の下人の風体は決して裕福そうでは無い。たとえ相手が子供であれ、その程度の事ならば気が付きそうな物であるのだ。
一先ず下人は歩き出し、童はそれに追い縋りつつ話を続けた。童の持つ火は風に煽られながらも多少の役目を果たし、下人は仄かな温かみを頬に受けている。しかしどうしても寒さを拭えず、下人は度々剣先を顔のところで合わせるのであった。
「この先にな、ワシの家があってな、今はおらんが婆っさんがやって
下人は相槌を打つでもなく、話を繋げるでもなく、ただしんとして、ふつふつと感じる物の正体を探っていた。繰り返し繰り返し、無意味に笑顔の童を見ながら、きっとそこに真意が隠れていると思い成すのである。しかし知恵遅れの下人にとって、それは到底無理であった。結局、探りを入れるべく、下人は固く結んだ口を開いた。
「お前の父は一体何だ。流行りの患人か。」
「いんや知らん。だけんど、婆っさんば草取り行きよって、ワシに容態は分からん。あんさんには悪く思うけんども、来てくんろ。」
これを聞いた下人は、心の内で童を嘆いた。恐らく、この童は頼りの不在に怯え、偶然行き逢っただけの下人に持てる希望の全てを託してしまったということなのだ。下人はいやに納得して、それから身の振り方を講じた。童に調子を合わせてやれば、構え良く下人を追う足は、所々が擦り切れ、大きな腫れがいくつもあって、右の膝などロクに動いてはいない。一息置いてウンウンと唸ったり、大袈裟に小言を並べてみた下人であったが、大した時間もかけず、ついに首を振った。童は、如何にも子供らしく笑った。
「すぐに来てくんろ。」
堂々とした足取りの童の後を追って歩くと、最早道と呼べぬ程の所をズカズカと進んだ。先程までそれは逆であったと言うのに、童の姿が小さくなるのは早かった。必死に足踏み、息を吐き、下人はようやく集落に辿り着いた。そこはまるでつい前までは花めきを見せながらも、しかし唐突に去らねばなくなったような、
童の足はやや奥入りの草屋根の家の前でようやく止まった。下人はすり足で近寄ると扉を引き、周密な視線を泳がせた。しかし何かも知れない荷の影が連なるのみで、ここにも終極の寂しさばかりが感じられた。
「しばし待て。」
下人は童を外で待たせておいて、自分は身を屈めると、扉を潜り、
下人はその時、目を見開きながら大きく頷いていた。それは、ほつれた糸先のように細々とした骨身が服を纏っていなかったからのみではない。それは、童に見られる何かの面影がその男に由来するものだと言う確証から来るのであり、そしてそれこそが、下人の抱えた
「こりゃ、御主人か。」
下人の目は、筋の無い腕から無様に散った毛の先までを冷ややかに彷徨った。ヒタと目先の頬に触れれば、まるで熱が吸い上げられるような感触を覚えて、僅かに身を退いた。無論下人は医者ではないが、ご主人の脈がとうに途切れている事だけは確かであって、童に似つかず盛り出た腹に膨萎は見えず、四肢が変に曲がっている。最早、渇求の余地など微塵もないのである。
下人は、外で火を起こす童を呼び付けると、ご主人を指し示し言った。
「お前の父は、とっくの昔に絶えている。最早、助かることも無かろう。」
童は息を詰まらせ、割れた石像のように立ち
「よく見ていろ。」
下人は、何を思ってか童の影を
「これで分かったか。」
下人はそれを慌てて引き抜き、少しも変わらぬ
だんだんと夜が明けて、壁の隙を漏れる筋がご主人を刺す。穏やかな光に当てられた主人の体は白く輝こうとしなかった。童は、たった今まで生きていたはずの体から少しの血も流れない事に気付くと、口を抑えたまま立ち尽くした。目は虚ろになり、涙が溜まっている。
暫くして、童はようやく家を出た。消え入りそうな呻きを上げ、コクコクと頷きながら扉を閉め、
暫くの後、下人は童の手を引き剥がすと、もと来た道を戻って行った。童は一切口を開かず、それを見送った。自分の影が遠く伸びる事など気にも留めず、呆然と、ぎょろりとした目で、下人の面影を見詰めている。
やがて、童は静かに合掌した。そしてフラフラと太陽の方を向き直してもう一度合掌した。童の目にうつる景色には、恍惚とした光で満ちた夜の果てがあるが、その他に何も無い。夜が明けようとも、何も無い。ただ一つの望みもない明るい空虚が広がるばかりである。
童の行方は、誰も知らない。
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