第19話
道の上で陽炎のように揺らめく人影に目を細めないと僕達は段々とはっきりしてくるその姿を見ることは出来なかった。真夏の太陽が照りつける中、僕達は唯黙って汗が首筋を伝ってしたたり落ちるのを感じている。
ツトムも伏せていた顔を上げて、その場にいる皆がその影を見ている。
自転車から降りた影が青いシャツと白いスカート姿になって僕達の近くで初めて人の姿になった。
仁王立ちになって僕達へ言った。
「君達、ここで何をしているの!学校に山川の坂道で子供達が大喧嘩をしてるっちゅうて連絡があったとよ、それで・・・先生急いで来てみたらまさかの君達じゃない」
最初は勢いよい調子で話していた先生の言葉は最後になると震えていた。
先生は一筋の大きな汗が頬を流れるのを気にすることなく僕達をじっと見ていた。一重の細く切れ長の下で瞳が潤んでいる。
涙だと分かった。
僕達はそれで黙って下を見た。
少しだけ長い沈黙が在った。
蝉の鳴く声がどこからか聞こえている。過ぎ行く夏を惜しむかのようにその声はどこか寂しく聞こえた。
風が吹いた。
「先生・・ごめんじゃ」
勝幸が言った。
「ここを自転車で通っていたら、ゲン太がいたずらをしてきてツトムに変なこと言いよるから大きな喧嘩になったっちゃ」
「いたずら?変なこと?」
先生が皆の顔を見た。
全員が頷く。
「どんな?」
僕達は目を合わせた。その内容を言うのを憚った。
「言わんちゃね?言わんちゃ分からんとよ?夏生、勝幸、黙ったままでは分からんよ」
先生が僕達を促した。
誰もが言い出せなかった。いたずらは至極簡単な話の内容だが、そのあとゲン太が言ったツトムのことを皆言い出しにくかったからだ。
大人になると段々と忘れることだが子供時代は仲間の事をすごく大事にする特別な存在でいられる時期だ。意外と思うかもしれないが子供は大人以上に事情を良く理解していて、大人が気付かない真実や大事なことに意外に簡単に到達してしまう。
それは純粋であるということの特権なのかもしれない。
「ツトム」
先生が強い口調でツトムを見つめている。
黒い瞳がツトムに近づく。近づくとツトムを優しい眼差しで見つめた。
やがてしゃがんでツトムの襟に細い指で触れた。
「襟が破れているじゃない、ボロボロになって、これお母さんが作ってくれた服でしょう?」
僕はそこで初めてツトムのシャツの襟が引き裂かれて破れているのを見た。
ツトムはその先生の一言で、咽び返すように泣き出した。先生は優しくツトムの背に手を遣りながら立ち上がらせた。
その時、先生が僕を見た。
端正で鼻筋の通った先生の美しい顔が僕を見て、にこりと微笑んだ。
(あっ!)
僕は思わず心で言った。
(先生はツトムが何故泣いてしまったのか、何故大きな喧嘩になったのか、分ったに違いない)
先生は僕達に言った。
「皆、先生の家がこの近くにあるから来なさい。ツトムの服を縫わないとね。それと夏生も、勝幸もちょこちょこ腕や足に怪我しているし、消毒液を塗ったほうが良いわ。それと・・・」
先生が勝彦を見ている。
「これは弟の勝彦じゃ」
「ああ・・、黒木先生のクラスの・・」
勝彦が小太りの身体を揺らせて頷く。
「皆、先生の家に来なさい。叔父さんから貰った冷えた西瓜があるから、それを食べましょう。ツトムの服を縫うまで時間があるから先生の家で皆シャワーで、手足を奇麗にしなさい。もう、皆土と砂まみれだから」
僕は先生の言葉の最後に思わずどきりとした。
ツトムには悪いが憧れの先生の所でシャワーなんて考えても見たことも無かったからだ。
僕はそれを思うと頭がボーとして頭がくらっとすると、思わず鼻血が出てしまった。
「ナッちゃん、鼻血が出ちょるよ!」
勝彦が驚いて叫んだ。
先生がその声に振り返った。
「夏生、鼻血ぐらいなんね。しっかり顔上げて自転車押して歩いて来なさい」
ぴしゃりと音を立てて先生の声が僕の頬をはたいた。
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