ヒーロー
定時上がりの帰宅途中。うるさい犬のように頭の中を駆け回るのは、職場の先輩たちの嫌味だ。「義母に手伝って貰っておきながら」とか。「まるで彼女のかわりに残業してるみたい」とか。自分が子守りをしていたときはどうだったんだと言ってやりたい気持ちを抑えて、電車に揺られる日々。泣きそうになった最初の一ヶ月。怒りに頭がおかしくなりそうだった三ヶ月。呆れにすり替えようとしている、この一ヶ月。
義母に無理を言って残業しようかと思っても、それを実行しなかったのは義母への印象を気にしたからだ。職場の印象よりも、義母の恨み節の方が怖い。職場は辞めればすむが、義母の嫌味は一生続く。「旦那の収入が足りないから」なんて間違って口にしようものなら、旦那ではなく義母から離婚を言い渡されかねない。思ってもいない売り言葉で窮地に立つなんて馬鹿なことはしたくないが、勢い任せで出てくる言葉はいつも巷で聞いた誰かの言葉で、気持ちが伴わないことなんてざらだった。
座り放題の電車で、端を陣取って目を閉じる。
電車に揺られる度に、考える。何かを節約すれば、働かなくても生活できるのではないか。あるいは、もっと家賃の低いところに引っ越せるなら。ああ、なんで私は働いているんだっけ。なんて考えて、どれもしょうもないなと切り捨てて終わる。
駅について、改札を通って、自転車にのって、家について。玄関の前で一呼吸して、気持ちを整える。ちょっとでも不機嫌な顔をすれば、義母が気遣うふりをしてマウントをとってくる。しまいには子守りを頼んだことに、愚痴を言われかねない。今さらなんて言葉は、義母には通用しないだろう。
「ただいまー」
私の姿を見るなり、義母は立ち上がる。
どうやら今日は、リビングでお絵描きをしていたらしい。テーブルの上にクレヨンが散乱していた。あとで片付けなくちゃいけない。ため息を聞いて、義母が笑う。
「ゆうくんはいつも元気ね。おばあちゃんじゃ、これが精一杯だわ」
「いつもありがとうございます」
私も笑顔で返して、お礼として買ってきたお饅頭を手渡す。「良いのに」なんて言う義母の笑顔は嬉しそうでありながら、どこかぎこちない。
「じゃあね、ゆうくん。おばあちゃん帰るね」
「うん、バイバイ!」
「こら! ありがとうでしょ」
「ありがと、おばあちゃん」
義母はゆうのありがとうに少し機嫌を良くしたらしく、ゆうに手をふって帰っていった。これでやっと一息つける。いや、少し座ったら片付けをさせて、夕飯の準備を始めなければ。
椅子に座って、顔を伏せる。大仰にため息をついて、今日の疲れを吐き出した。
いつも嫌になる。いつも分からなくなる。私は、なんのために嫌なことに耐えて、働いているのだろう。
腕の隙間から見えたゆうの足に、顔をあげる。
「ママ、これあげる」
差し出された画用紙を、受けとる。きっとさっきまで書いていたやつだろう。そこには見たことのない、仮面をつけた人、ヒーローとおぼしき人物が描かれていた。
「これは、なんの漫画に出てくるの?」
「ちがうよ。これね、僕だよ」
上手とは言えない絵を、もう一度見やる。ゆうにしては随分大きい。子供ではなく、大人を描いたように見える絵だ。
「ヒーローはね、だいすきな人のためにたたかうんだよ。たたかって、だいすきな人をまもるんだよ。それでね、だいすきな人といっしょにまいにち笑うの」
やっぱり、これはヒーローだったのか。つまり、これは将来の夢を描いたということかなんて思いながら、適当な相づちを打つ。そんな相づちにも、ゆうは上機嫌だ。
「僕、ママのヒーローになるよ! ママのために、ヒーローになるの!」
ゆうの満面の笑顔が、目に焼きつく。
ああ、夕飯の準備をしなきゃ。明日もまた仕事だから、早くお風呂にいれて、さっさと寝なきゃ。明日のお礼は何にしようか。何なら満足して貰えるんだろう。ああ、嫌だな。辞めたいな。なんのために私は、こんな苦しい思いを我慢してるんだろう。
ゆうの言葉に涙がこぼれて、ようやく気づいた。私が一番、大事にしたいもの。守りたいもの。耐えることと戦う、理由。
目の前にあったのに、煩わしさに打ち消されてしまっていた。
大好きな人のために傷つくことも厭わない。大好きな人の笑顔を失いたくないから、戦うことを拒絶しない。苦しくても、悲しくても、やりきれなくても、立ち上がり続ける。
屈んで、ようやく合う視線。肩を抱けば、その小ささを再確認した。
「ママも。ゆうちゃんのために頑張るからね」
額を合わせると、その温もりに包まれた。嫌味や妬み、どうしようもない現実が、すとんと落ちた。
嬉しそうに笑う、ゆうの声が聞こえる。
「ママ、大好きだよ」
「ママも。ゆうちゃんのこと、大好き」
私はこの子のために、ヒーローでありたい。あり続けたい。
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