乗算世界

五三六P・二四三・渡

第1話

 空洞を抱えたビルが、森のように並んでいる。

 建物の側面が苔によって濃い緑に覆われて、年月の経過を感じさせた。割れたアスファルトは薄く化粧を施されたように、砂に浸食されていた。

 そんな場所で私は走っている。息を切らせ、足を動かし背後に迫る脅威から私は逃げていた。錆付いていて動かない自動車がいくつも並んでいる。足音の間隔が早くなった気がするが、振り返っている暇はない。私は折れた電柱をまたぎ、路地裏に潜り込んだ。追跡者の大きさではこの路地裏に入り込むことはできない。……はずだ。

 それでも足音が途絶えることはなかった。少しずつではあるものの、距離を詰めていっているのがわかる。

 今朝は迂闊だった。いつものようにゴミ山に使えそうな物を探しに行ったことはいい。いいジャンクを見つけたが、欲張ったのがまずかった。夢中になりすぎて、曇り空に紛れた黒い影が広がっていることに気が付かなかった。<くらやみ>は危険だ。視界の隅にとらえられるほど大きくなった黒色に気が付いたとき、私は流石に焦りを感じたが、まだ冷静だった。数日に一回ほどの確率で危険が伴うが早く帰ることができるルートを選べばよかった。その数日に一度というのが今日だったのは、自分の運の悪さを呪った。

 角を曲がる直前、私は追跡者を目でとらえる。トラのようであるし、ライオンのようにも見えるし、恐竜のようにも見える。ただその三者であるのなら、とっくの昔に追いつかれていたことだろうし、どれでもないはずだ。前に立ち寄った集落の人たちが映獣ヴィジョンビーストと呼んでいた生き物だ。

 そんな冷静な観察をしている場合でもなく、息が切れてきてそろそろ危機感がせり上がってきた。これはまずい。

「ノザキ!」

 渡りに船と言わんばかりのタイミングで、聞きなれた声が掛けられる。前方向のマンホールから少女が頭を出して手招きをしていて、その後すぐに顔をひっこめた。

「アル!」

 私はマンホールへ駆けつけ梯子を下っていく。穴に入った次の瞬間映獣ヴィジョンビーストが穴に向かって頭を突っこもうとしてきた。しかし、何か見えない壁にでもぶつかったようにうまくいかない。私はその姿に、舌でも出してやりたい誘惑にかられたが、油断は禁物なのでおとなしく梯子を下りていく。獣はうなり声をあげながら穴を覗いてくる。名残惜しそうに穴の周りをうろついていたが、無駄と悟るとそのままどこかへ去っていった。

 私はため息をつく。

「危なかったですねノザキ」

 梯子を下りた底で、なにも流れていない下水道の上に立ってアルが言う。

「アル、タイミングよすぎるけど、もしかして見計らってた?」

「まさか。でも<くらやみ>が出たって聞いたから、あらかじめノザキが逃げそうな場所を張ってたんですよ。まあ外れたほうがよかったのかもしれないけですけどね」

「へえ」

 屈託なく発言するアルの言葉に私は口をへの字にして見せた。彼女は私が物を拾うのに夢中になって、危険なルートを通ることを予想していたようだ。

「ところで首尾はどうなんです?」

 私はそれにうなずき、ザックを下ろして中身を彼女に見せた。

 中には錆びついたハードディスクが入っている。

「何のデータが入っているんですか?」

「軽く調べた感じだと、有名な料理の会社の食品ARデータぽい」

「えっ、それってもしかして」

「そう」

 私はここに来るまでに、アルにこのハードデスクの中身を教えたときの反応をシミュレーションして来た。そして予想通りの反応を見せたことに満足した。

「今夜はご馳走だ!」


 地下水道だった場所から、かつて地下鉄が通っていた線路に出る。朽ちた列車が倒れているのを見かけたが、すでに鼠の巣としか機能を有していなかった。ある程度進むと高層駅ビルの下についたとアルが言う。そのままホームから階段を上ってかつて展望レストランだった場所へ向かう。階段が崩れていた場所があったが、応急処置程度と言わんばかりの、木でできた簡易の橋が立てかけてある。以前私たちが協力して作ったものだった。

「ねえ。〈くらやみ〉は大丈夫なの?」

 延々と続く階段に飽きが生じ始めたころ、私はアルに話しかけた。

「大丈夫じゃなさそうですね。もう間に合わない」

 こともなげに彼女は言う。

「あー、つまりおいしいもの食べてから迎えちゃおうって話なんだね」

「そう。毎回地下ばかりでやり過ごすのもマンネリですしね」

「でも高い場所だと、誤って落ちちゃわない? いや、そうそうないだろうけど」

「落ちちゃうことより、本当に永遠に同じことを繰り返すほうが私は怖いですよ」

 そんな馬鹿なといいたかったが、アルの気持ちも分かったのでまた口を閉じて、また足を動かす作業に戻った。


 かつて活気でにぎわっていたであろう展望レストランだった場所には、窓がなく吹き晒しだった。豪華なテーブルも、瀟洒なカーペットもなく、コンクリートがむき出しだった。並び立つビルの群れが、風を最小限までに弱めてくれてるのか、心地悪くはなかった。あらかじめ用意していたテーブルを二人で中心に移動させた。そしてザックの中から皿と万能食糧を並べる。このままではただの泥の塊を並べただけにも見える。

 そこでゴミ山から拾ってきたデータが役に立つ。かろうじで機能しているレストランのARスプリンクラーにアクセスし、データを読み込ませた。目の前に血の滴たるステーキと瑞々しいサラダと、湯気が揺れるスープが現れた。

「おおー! いいじゃないですか!」

 アルが歓喜の表情を浮かべた。私も踊りだしたい気分だ。

 ただ、万能食糧と映像にずれがあったので、皿を移動させて合わせてやる。すると、食料が動き出し、映像と同じ形を作った。これでよし。コップに入れたエタノールの水割りをワインに変える聖者ごっこをした後、私たちは席についた。

「乾杯!」

「乾杯ー!」

 窓から外を眺める。そろそろ日が暮れそうで、手前のビルを通して夕日が細切れにされて見えた。遠くに砂漠と見まがうほどの瓦礫の群れが見える。旧レストラン内には夕日によって伸ばされた私たちの影が伸びていた。

 ナイフやスプーンを用意できなかったので、ステーキを手づかみでちぎって食べる。

「美味しい」私はべたべたとした手を眺めながら言った「本当にステーキの味がする……気がする」

「ちゃんとしたステーキとか食べたことありませんですしね」

「でもやっぱり缶詰よりはちゃんとしてる気がする」

「確かに」

「今回は間に合ってよかったね。次の<くらやみ>が明けるまでに万能食糧が腐るかもしれないし」

「ディナーを楽しむには少し早いですけど。おばあちゃん家とか、これぐらいの時間だったかもしれません」

「ああー全然覚えてない」


 くすくすと笑いあいながら夜を待つ。<くらやみ>の到来を待つ。日が落ちると、ARと食糧の同期がうまくいかないのか、魔法が解けたように味気ない泥が残った。「どうやら営業時間を過ぎたようですね」とアルが言った。腹がある程度膨れるほど泥を食べたら、床に並べたシュラフに入った。

 窓の外から遠くを眺めると、夜の暗さよりもさらに黒い塊が見えた。あれが<くらやみ>。黒。自然界に存在しえない存在。もう何度もあれに包まれたことがある。それでもあれを見ると体が震えた。

「大丈夫ですよ」

 アルが手をつないできた。まったく。いつもこうやってくる。私たち何歳になったんだけと数えてみるけど、途中でやめた。それでも私は手を強く握り返した。夜風が吹きすさび、体をゆっくりと冷やす。ブロックノイズのように、黒い直方体をランダムに並べるように、<くらやみ>は大きくなっていく。やがて私たちは完全な闇にのまれた。


 ◆ ◆ ◆


 黒。黒。黒。

 真っ黒。漆黒。くらやみ。あんこく。

 K。ブラックアウト。盲目。

 イカ墨。漆。石油。コーヒー。炭。墨。影。陰。猫。豆。

 シマウマの半分。パンダの一部。

 宇宙。ブラックホール。暗黒星雲。夜。無。

 海。

 世界。

 

 暗い。何も見えない。一切の光を感じない。

 頭の中に光を浮かべる。その光が記憶ではなく、幻だったのではないかと不安になる。初めからこの世界は暗闇に閉ざされていて、私たちが見ていたのは夢だったのではないかと。だから私はアルの手を強く手を握った。黒い物の連想ゲームをしようとアルが言ってきた。正気の沙汰ではない。でも一番初めに「腹」と言ったらアルは笑った。いつの間にか眠っていて、目が覚めると気温が上がり始めたのがわかる。日がのぼったのだろう。しかし依然、視界は黒いまま。何も見えない。のそのそと体を起こし、食糧と水を口に運んだ。そしてまたシュラフに体を入れた。

 この暗闇によって世界は滅びた。世界中の人間……いや動物やカメラでさえも<くらやみ>からは逃げられない。一度に何百万人もの人が数日、あるいは数か月ほど盲目になるという事態に世界の政府はなんとか解決策を見出そうとした。

 <くらやみ>の予報。サイバーテクノロジーによるによる第三の眼。ロボットによる自動制御。音声認識センサー。いくつもの対策が生まれた。しかしギリギリ間に合わなかった。間に合わなかったから世界は滅びた。

 目をつむっているのかそうでないのかもわからない状態だと、常に過去のことが思い起こされる。飛び交う怒号と悲鳴。次々と起こる爆発音。落ちてくる飛行機。

 今いるのは夢なのか。目を覚ましても暗闇が続いている。朝は来ていない。そのたびに叫びたくなるのをぐっとこらえ、ただひたすらまた目に光が戻ることを待つ。強がって見せても、慣れることはなかった。


 ふと隣の寝袋を触ってみると、誰もいないことが分かった。

「アル! アル! どこにいる!」

「なんですか? ここにいますよ」

 部屋の過度の方向から声が聞こえた。信じられない。

「なんで歩いてるの? ここ高さが100メートルくらいある場所で、窓に手すりがないんだよ?」

「大体の場所はわかってますし大丈夫ですよ」

「そんなこと言ったって、勝手に落ちたら許さないから」

「はいはい。ノザキは<くらやみ>の中だと少し感情的で、子供っぽくなりますよね」

「こんな論理的な発言はないよ!」

 私の言葉に呆れたように、アルはそばに来た。

「でもやっぱり退屈じゃないですか。ちょっとぐらい歩かないと体がなまりますよ」

「じゃあその場で腕立てでもすればいいのに」

「それはいいですね」

「えっ」

 彼女はその場で腕立を始めた。無駄に体力を消費するし、雰囲気がうっとおしいのでやめさせる。アルは「そろそろ疲れてきたので止めてくれなかったらどうしようかと思っていた」と言った。なんだそれ。

「そういえば絵はもう描かないのですか?」

「何に急に」

「昔は結構この終わった世界を絵に表したりしてましたよね」

「……紙はかさばるし、データだと容量を食うし」

「何年前ぐらいまでやってましたっけ」

「5年くらい?」

「いやいや。50年位前でしたよ」

「そんなに前ならもはや前世だよ。いちいち掘り起こさないで」

「また描けばいいのに」

「余裕があったらね」


 何度も日が昇り日が沈む。風の音を聞く。雨の音を聞く。<くらやみ>に染まっている間は、迂闊に動けない。だから貯めた食糧を消費するか、寝るかしかやることがない。だから精神が不安定になる。不安定になるから迂闊なことを言ってしまう。「アルはどこにも行かないよね」と私は言った。「どこへも行きませんよ」そう返してくれるのがわかってるから、安心して訪ねてしまう。

 そして二週間ほどたった後、朝が来た。


 ◆ ◆ ◆

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