近づけた気がした

「おやおや、過去最高得点じゃないか」

 六時限目が終了。返却されたテスト用紙、赤いペンで書かれた点数が間違いではないか再度確認。安堵の溜め息をついた。ひょこりと肩越しに友人が、声を弾ませた。よく頑張ったねと頭を撫でるのは、明らかに子供扱いされていたが、今はただ喜びを表現した。

「ありがと、そっちは?」

「私は心配ないよ。君より賢いからね」

 流れるように貶されたが、いつも通りだ。悪意などない、怒るだけ無駄だ。雨子が手をあげれば、察した友人も同じ動作。

 ぱん、と肌がぶつかる小気味の良い音。ハイタッチに、お互い見合わせて、にんまりとした。やりきった達成感、緊張や不安からの開放感に感情が高揚した。

「二問以外は解けてたみたいで、安心した。これなら日向くんにも報告できる」

「赤点だったら」

「自害する」

「たまに突拍子もない冗談を言うね」

 あれだけ放課後付き合わせたのだ。悩む雨子に根気よく繰り返し教えてくれたのに、点数最悪でしたとは絶対に伝えられない。土下座ではすまないだろう。

 あとは日向自身の成績が下がっていないかが問題だ。彼は、どこだ。

「菊永さん、どうだった?」

 探す前に彼から傍に来てくれた。まるで己の成績を聞くかのような、不安そうな顔に用紙を差し出した。九十点の赤色に、一気に雰囲気が明るくなり、ほっと胸をなで下ろした。

「やった、高得点だ」

「うん。数学では初めてだよ。本当にありがとう、日向くんのおかげだね」

「菊永さんが頑張ったからだ、俺はあんまり手助け出来てなかった」

 謙遜ではなく本気なのだろう。自分のことのように喜ぶ優しさに、胸がうるさい。翻弄され、一喜一憂する姿は、他の人間の目には、さぞ滑稽にうつるだろう。

「おめでとう」

 彼は、すっと腕を上げた。何だろうか、眺めて数秒急かすように背中を軽く押される。振り返れば友人が呆れた様子で顎をしゃくった。示されたのは、彼の手。はっとし、漸く理解した。ハイタッチだ、つい先程の記憶と同じ。だが。

 相手は日向だ。臆病な雨子には少々難易度が高く、躊躇した。触れるのは緊張するが構わない。友達でも不自然ではない行為。

「私とはしてくれないのかい、葵」

「する気ないだろ……」

「よく分かってくれて嬉しいよ、葵クン」

「急に甘え声出さないでくれ、驚くから」

「つめたぁい、泣いちゃうぞ」

「彼氏に慰めてもらってくれ。それか琴梨」

「殴るぞ」

「怖すぎるだろう」

「あいつらが嫌いなの知っていて名前を挙げたんだ。半殺しにされる覚悟があるということだろう」

「罪が重すぎる」

 随分気心の知れた仲のようだ。日向は琴梨、友人は雨子か恋人としか会話しないので、その辺りの関係性は不明であった。だが今ので二人は昔からの知り合いのを推察できた。友人は琴梨とは昔馴染みなので、ありえない話ではない。

 ふと友人が目配せする。どうやら時間稼ぎだったらしい。さっさとしろと言わんばかりの目に、覚悟を決める。ええい、ままよ。雨子は手を伸ばした。

「ひ、ひなたくん」

 裏返る声音に反応する。日向は、にこりと微笑んで、軽く手のひらを合わせた。痛みがないよう加減したらしい。音は鳴らなかったが、妙な感覚に襲われた。じわじわと触れた部分から熱が広がり、息苦しいような。

 どうしようもない暴れる感情を持て余して、目を閉じかけると、彼が思い出したように取り出した。

「これお祝い」

 はい、と手渡されたのは水色のリボンでラッピングされた包みだった。透明な袋からは色鮮やかなマカロンが覗いており、可愛いの一言に尽きる。水色、桜色、赤色、黄色、抹茶色、紫色。色取り取りの宝石が輝いていて、思わず感嘆の声をあげた。

「すごい、きれい」

「マカロン嫌いだった?」

「すき、食べるの勿体ないぐらい」

「あはは、そう言ってもらえて安心した」

 多分味も大丈夫なはず。と付け加えた。頭を掻いて照れた顔に、雨子は目を見開く、まさか。

「葵、無駄な女子力を発揮するのは止めてくれないか」

「失礼な。お菓子作りは俺の趣味だ」

「それは料理が苦手な私に対する当てつけかい」

「あのなぁ……大体きみは、したくないだけだろう」

「面倒だろう。いちいち計量するの」

 やはり、予想的中。この店に並んでも違和感を覚えない菓子は手作りらしい。日向が自ら。残念だが自分より上手いのは証明された。

 嬉しい反面、先日のクッキーに後悔が襲った。これほどの腕前を持つ相手に渡したのか。羞恥に倒れ込みそうだ。

「ごめん、私のクッキー、ほんとごめん」

「えっなんで、謝ってるんだ」

「だって、あんな粗末な、ほんとにごめ」

「粗末じゃないっ!」

 早口な謝罪を遮った声は、自分よりよほど焦っていた。

 ぎゅっと手を握りしめて、真っ直ぐ目を合わせる。色素の薄い瞳に閉じ込められた自分が見えるほどに近付く。

「美味しかったんだ、それに嬉しかった。何より君が作ってくれたから」

 途切れた。はっとした顔で日向が固まる。見て分かるほど、じわりと頬を赤らめていく。今、なんて。聞く勇気は臆病な雨子にはなかった。

「お客様、うちのアイドルに何しているんですか。お障り禁止です」

 友人の戯けた台詞に止まった時間が動き出す。ぱっと離れて、一歩下がる姿から目線を逸らした。気まずい空気、二人だけだったら耐えられなかっただろう。大切な菓子が潰れていないか確認しつつ、ちらりと盗み見た。日向は友人に揶揄われて言い合いをしていた。

 お礼を、言わなくちゃ。

 混乱、期待が入り交じる。緊張で凍り付いた声帯をどうにか動かした。

「あの、ありがとう。大切に食べるね」

 勉強を教えてくれたお礼を考えねば。決意を秘めて微笑むと、彼も同じように綻ばせた。

「改めて、お疲れ様。おめでとう」

「――あ」

 太陽のような眩しく、一切の汚れなどない笑顔。

 大尉が、近づいた。一歩距離が縮んだ。漠然と言葉が心に浮かんだ。

 一瞬だけ、全部忘れてしまえればと。恋人ではなく友達でもいい、自分とは反対、彼の美しい世界に飛び込めたら。

 馬鹿だ。随分とロマンチックな例えだ。しかし雨子は本気であった。

 彼の思考、感じ方が同じであれば。

 そうすれば、きっと。

「日向、こんなところにいたのね」


 あの子の、駆け寄る音がした。


 冷水を浴びたような、急速に熱が下る感覚。

「日向、今日は一緒に帰れるわよね」

「ああ、うん」

「今日も司さんが来てくれるらしいの、珍しいわよね! 今日も二人で、彼のお話を聞きましょう」

「……そう、そうなんだ」

 一目でわかるほど、わくわくと喜ぶ彼女とは反対に、日向の空気が変化した。表情が暗く重く、沈んでいく。つい最近まで赤の他人であった雨子にすら気付くぐらい、一気に落ち込んだ。

 貼り付けた笑顔を疑わず、彼女は彼の腕に絡んでひっつく。まるで雨子たちなど見えていなかのように、平然とした態度で連れて行く。一連の動作があまりにも自然で口を挟む隙がなかった。

 嫌がっているのは明白だったのだ。止めるべきだったのでは。だが、相手は琴梨という幼馴染だ。二人の仲に口を出すのは。そもそも彼が嫌がっているのも勘違いかもしれない。

 ――ああ。

 止めることができなかった自分に言い訳をしている。その現状が許しがたく、頭を振る。それから友人へと問いかけた。

「司さんって……?」

「琴梨お嬢様の愛しい婚約者だよ。ちなみに相思相愛」

「……ええっと、そんな人のとこに、日向くんも行くの?」

 婚約者という自分の人生に無縁な存在。詳しくはわからないが、愛し合っているなら恋人となんら変わらないだろう。そんな相手の元に異性と会いにいくのだろうか。相手は嫉妬しないのか。

「日向くんも仲いいの?」

「まぁそうだね。間違ってない。三人は幼馴染だしね。だがまぁ、日向は居心地が悪いだろうねぇ。面倒な奴らだから」

「いまいち、理解できないけど。聞かないほうが良い話?」

「いや。簡単に説明するとだね。琴梨は婚約者も愛しているが日向も同じくらい愛している、だから二人一緒にいたい。だから日向も連れて行く。それだけのことだよ」

「――あぁ、そう、いう」

 恋愛経験がない自分では分からない。二人同時に、愛することが、よくある話なのかも。

「まぁ、ただ。琴梨お嬢様は、どうにも心が幼い。愛しているというのは雨子とは別の好きだけどね」

 日向の妹も言っていた。日向への感情は、両親、執事、婚約者――等しく同じものであると。

「気まずいだろうねぇ、婚約者は琴梨に執着している。その間に挟まれるというのは、胃に穴があく思いだろうさ。いい気味だ」

「日向くんのこと嫌いなの?」

「ああきらいさ。琴梨から離れる勇気も覚悟もないくせに、雨子を誘惑するなんて」

「誘惑されていない」

「でも、きみ。さきほどの好きは否定しなかっただろう」

 雨子とは違う好き。

 無意識に避けていたらしい。指摘されて、自分の気持ちに嘘がつけないことに気づいた。苦いものを飲み込み、雨子は反撃すらできずに顔ををそらした。

 もう、違うと嘘をつけないところまできている。叶わない恋の可能性が高くても、認めるしかない。たった一言、当人がいない場所ですら言葉にできなくても。

「難儀なことだ」

 友人の呆れた声に、沈黙を返した。

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