三ノ巻

 初めて見る小田原の城下は、山里育ちの玄達の眼には眩いばかりの、絢爛たる都のようであった。車がある。馬が通る。牛が通る。馬や牛を見たことがない玄達ではないが、それが、河を成すのである。まさに、圧倒された。

 だが、人や牛馬の多さなどは、その日かれが目にしたものの偉大さに比べれば、ものの数ではなかった。玄達は、見た。多くの侍を引き従え、堂々たる姿で城下の大通りを進む、騎馬の大武者を。

「あれが、小田原の殿様ですか」

 言う玄達に、案内を務める小太郎は苦笑をこらえるようにして教える。

「氏康さまも赫々たる武者だが、あれには及ばぬ。うぬも、その名くらいは知らぬでもなかろう。あの旗印は甲州の武田菱。そしてあれは、武田晴信。己の父を逐って国を獲り、いま日の本一と讃えられる、武士の中の武士よ」

 玄達は、呆然とした。自分と同じ世に、が生きて存在しようとは、思ってもみなかった。あれは、何だ。あれは、俺と同じ「もの」なのか。

 それは、羨望であり、嫉妬であり、崇敬であり、憎悪であった。だが、玄達は、言葉を操るのは巧みではない。己の胸中を、ことばに変える才などは、あるはずもなかった。針打ち玄達は針を打つ。それが全てであり、それ以外の何物も、この天才は持ち合わせていなかったのだ。

「そのが、何故ここにいるのです」

「和睦じゃ」

「わぼく?」

「駿府の今川と、甲州の武田、そしてわが殿が、三つ巴に組んで、盟を結ぶという。今川家の当主は、既に城中じゃ。武田は今日、着いたようだの。武田の騎馬武者の行進とは、良き物を見たのう。果報じゃ。あの顔、覚えたか?」

「しかと」

善哉よきかな。いずれ、わしが、うぬに、あれを討てと命じる日が来るやもしれぬ。武田晴信は影武者を好んで用いるという。だが、まさか小田原の城に、影武者を差し向けて盟を結ばせはしまい。あれは本物じゃ。よく見、よく覚えよ。けして忘れるな」

「盟を結ぶものを、討つのですか」

「盟など、いつまで続くか分からぬ。この乱世じゃ」

「そういうものですか」

「そういうものだ」

 さて、玄達が城にばれたのは、別に忍びの働きをさせるためではない。和盟の交渉、その席で、座興を披露するためである。もちろん、玄達ひとりが芸をするわけではない。小田原の城下から、総ざらいで、芸のある者が集められた。殿様方の御前にまで進むことになるのは、その中でも数人となる。玄達は選ばれた。

 もちろん、主演目ではない。とりを飾るのは、能の舞台であった。玄達が針を打つのは、その二つ前である。

「あれは、何ですかな」

 庭に出た玄達を見て、そう言ったのは今川義元である。

「農民ですが、針で鳥を落とす達人です」

「……針で、鳥を? 何故、弓を使わず、針なのだ」

 酒杯を傾けつつ、晴信が、たいして興味もなさげに、問いを発した。なお、見るからに豪傑というていの晴信だが、酒杯の進みで勝っているのは義元の方である。相は公家のようであるが、胴回りは太く、武者の風格を併せ持つ、不思議な男であった。

 玄達は、東国随一の戦国大名たちの居並ぶ前で、いつものように、平然と針を打った。八つ打ち。遠当て。そして、背を向けたままに打つ。

「ほう。妙技ですな」

「こんな技の使い手は、見たことがない。晴信殿、如何か」

「まあ……な」

 ふと、ぱちぱちと、手を叩く者があった。

「妙なるかな、妙なるかな」

「これ、氏真。控えおれ」

「よいではありませぬか、義元殿。酒の席ですぞ」

 許されて、氏真と呼ばれた男、いな、少年が、声をかけた。

「玄達殿。表を上げられよ。貴公の妙技、もう一つ、披露してくれぬか」

「は」

「この、扇を打てるか。源平の合戦の、那須与一のように」

「は」

 扇に穴を開けるくらいはわけはない。だが、扇に刺さって止める、となると、玄達には経験がなかった。なかったが、できる、と感じた。ぱぱぱぱぱぱぱぱ、と針が、扇の上に突き立ち、すべて同じ深さで止まっていた。玄達は、八つ打ちで、四つの菱形を描いて見せた。氏真は扇を見て、言う。

「これは」

「武田菱」

 ほっほっほ、と氏真が笑う。

「この今川氏真の扇に、武田菱を描いてみせたか。これは愉快」

 ほっほっほ、と氏真は笑い続けるが、北条氏康は青くなり、今川義元は苦い顔をしていた。晴信は満足げである。

「よい。玄達、もう下がれ」

「いや。玄達どのに、わたくしの蹴鞠を見てもらいとうございます」

 玄達の次の演者は、この氏真なのであった。

「氏真」

「父上」

 氏真はふと真顔になって言った。

「氏真は、勝ち逃げをさせるつもりはない、ということです」

 玄達は、舞台の裾から、今川氏真の蹴鞠を見物することになった。そのようなものを見るのも初めてである玄達だが、妙技である、ということは、その眼にも分かった。これは、この男は、おれと同じだ、と玄達は思った。この男は、はるのぶとは違う。どう見ても、騎馬武者の行進をさせて栄えそうにはない。だが、その蹴鞠は、至芸であった。そのみちを、極めようとするものの技だ。誰に笑われようとも。誰が認めずとも。玄達には分からなかったが、その感情は、共感であり、友誼であった。芸を終えて、人々が口々に讃える声のなか、氏真は問うた。

「玄達どの。如何か」

 玄達は平伏し、答えた。小太郎に、貴人の前ではとりあえず平伏しておけ、と言われているから自分はそうしたのではない、と思った。おれは、この男の前ではどうしても平伏せねばならない。そう、玄達は思った。そして、たった一言で、氏真を評した。

「至極」

 ほっほっほ、と笑う。

「玄達どの。そなたの針打ちに、師はおありか」

「自得にございます」

「では、弟子はおありか」

 寝耳に水の話であった。弟子? この俺が?

「いえ」

「とられては如何かな」

「そうだな。一代で消えるには、惜しい技だ」

 義元が調子を合わせる。機嫌はすっかりよくなったようだった。

「いえ」

「ふむ?」

「教え方が分かりませぬ。下賤の育ちゆえ」

「それは惜しいの。わたくしには、師が居る。弟子も、いずれは取るよ。戦国の世は、いずれ終ろう。だが、蹴鞠の技は、そのあとにも残る。だから価値がある。わたくしは、そう思っておる」

 玄達はその言葉に、総身を打たれたような衝撃を受けた。技を、残す? 極めるのではなく、残す? そういうこともあるのか。そう思った。だが、自分にはおそらく縁がない、とも思った。蹴鞠の技は、なるほど、凄いし、この男がいま日の本一であるかもしれぬが、他にできる者がないということはあるまい。だが、俺の針打ちはどうだ。里には、誰ひとり、真似のできるものはいなかった。風間小太郎にも、出来ぬ。ならば俺の技は、絶えるのか。俺とともに。

 おれは、何のために生まれてきた? 俺のわざは、何のためにある?

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