当日 ウンチの場合-2

 頭のどこか奥の方で、理性の箍が外れる音を聞いた。


「どうして、生まれてきちゃったのかな……」


 力なく横たわる妹が呟いたのは、七年前のあのとき、彼女が零したのとまったく同じ文言。言葉も満足に知らぬ少女が世間に吐き出した、精一杯の恨み言。


 その呪縛から逃れるために、必死に努力してきたつもりだった。身を削り、心を削り、両親のサンドバッグになろうと、それでも今まで耐えてこられたのは。僕の背負った苦しみがいずれ、彼女の生きる意味に昇華されると思ったから。苦い思い出を全て忘れ、生きていてよかったと、彼女が笑える未来があると信じていたから。


 なのに、その行き着く結果が、この有り様だというのか——見開いた瞳からはいつしか涙が溢れ、噛み締めた唇からは、血が滲んでいた。目の奥が眩むような鉄の味を飲み下し、僕は拳を握る。


「あ?なんちぃ?さっきみたいにハキハキ喋らんか、ああ?」

(『あ?なんだって?さっきみたいにハキハキ喋らんか、ああ?』)


「ちょっと、あなた。このガキ、血流してるわよ。流石にまずいんじゃ……」


 足先で妹の下腹部を小突く父と、引きつった笑みを浮かべる母。……こいつらに、僕たち兄妹の「生まれてきた理由」を尋ねたところで、返ってくる答えはわかり切っている。

 「『ウンチ』と『チンコ』なんて名前の兄妹がいたら、なんとなく面白いと思ったから」。あのとき、妹の問いかけに答えることが出来なかったのは、僕たちの生命に価値なんてないと、とっく昔に知っていたからだ。


 それでもいつか、この苦悩を超えた先に、輝かしい未来が待っているかもしれない——希望と呼ぶにはあまりに頼りない光が、僕たち兄妹が生きてゆく、唯一の糧だった。けれどそんな、慎ましく無害な望みでさえ、こいつらは無残に奪い去ったのだ。


 そして、次の世代に生命を繋ぐという、最後に残された望みすらも……。彼女の身体から滲み出る血糊の赤が、目蓋の裏に残って離れない。こんな連中を相手に「親子の義理」を通そうとしていたなんて、僕は何と愚かだったのだろう——痛みのあまり痙攣し、軋みを上げる身体に鞭打って、どうにかこうにか立ち上がる。

 


 ——なあ、聞こえてるか?ようやく気づいた、随分と簡単なことだったんだ。僕たちがただ、それを認めようとして来なかっただけで。


 さっき、お前は言ったよな。こいつらは人間じゃない、欲望を貪る醜い豚だって。……けれどそれは、このふたりだけに限ったことじゃない。「蛙の子は蛙」という諺にもあるように、豚と豚がまぐわって出来た僕たちも、所詮は同じく、醜い豚でしかないんだ。


 そのくせして何を勘違いしたのか、自己満足な人間ごっこを続けて、悲劇の主人公を演じていただけ。これまで背負った痛みに、悲しみに、苦しみに、屈辱に。飯事ままごとを演出する小道具以外の意味なんて、何ひとつなかった。


 最初から、我慢する必要なんてなかったんだよ。……だからもう、僕は我慢しない。下手糞な人間ごっこを続けるために、これ以上要らぬ苦しみを背負うつもりはない。逆立ちしたって何したって、僕たちみたいな薄汚い畜生風情が、人間らしく生きていける筈なかったんだ。



 もっと早く、こうしていればよかった——今にも崩れ落ちそうな全身を、僕は硬く強張らせた。耐え続けるためではない、歯向かうために。

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