アプローズ

まゆし

夢叶う青

 今日は私の誕生日。


 お洒落で少し高級なホテルの部屋に入ると、テーブルには一輪の青い薔薇が飾ってあった。


 彼は笑顔で

「誕生日、おめでとう!」

 と、言った。


 私は彼に言わなければならないことがある。

 でも、それを言うのは今じゃない。


 だから、私も笑顔で

「ありがとう!」

 と、言った。


 彼がルームサービスで頼んでおいてくれたであろう、ケーキとシャンパンが部屋に届いた。私たちはそれを口にする。

 そして「この薔薇はプリザーブドだから、そう簡単には散らない」と教えてくれた。


 彼は、意外にもその大きな頼もしい身体から想像もつかない習い事をしていた。華道を二週間に一回、もう何年も習っているそうだ。手も大きくて、繊細な作業が出来ることを不思議に思っていた。華道に疎い私には、良し悪しはわからなかったけれど。

 おまけに、大学を卒業してからもOBで楽団をしていて、打楽器を担当していた。何度か演奏会に行ったこともある。ティンパニーを叩く姿は、二階席からは遠くて。曲の合間に「がんばれ!」と、私は気が付いて欲しくて、同僚と一生懸命手を振った。

 チケットを用意してくれていたのは彼だから、座席の把握は出来ていたのだろう。表情が見えなくても、照れた雰囲気でこっちを見て手を振る姿が思い出された。


 私が好きなシャンパンまで選んで用意してくれていたのね。グラス片手に、思い出を噛み締めて、青い薔薇を見つめた。彼は私がずっと前に言った一言を忘れていなかった。


「私、青い花が好きなの」


 自分でもいつ言ったかを忘れた、たった一言を。


 何て優しい人なんだろう。何て暖かい人なんだろう。私の全てを包み込んでくれる。ずっと一緒にいれたなら、どんなに幸せなことだったろう。

 私の心は締め付けられて棘が刺さる様に痛んだ。


 こんな人は、二度と現れない。


 でも、彼に言わなければ……私が彼を独占することは許されない。彼の将来を邪魔したくなかった。

 彼が順調に出世していくことを、同じ職場の私は知っている。社長に気に入られてるのはもっと他の社員だったけれど、彼は自分の実力で社長の信頼を勝ち得ていた。だからこそ、彼の努力を私は全力で支えた。

 ただの社長お気に入りの社員とは違うのだ。


 誰かに取り入ることは、彼の性格上簡単に思えた。でも、その道を選ばない彼の真摯に取り組む仕事に対する姿勢を尊敬した。信頼を築きあげていく姿を見て、彼を支える為に私は細部まで気を配った。

 時には、私が秘書のように同行し、彼が質問の回答に窮した時には代わりに回答したりとサポートした。

 彼が成長し、努力で出世していくことを、私はすぐ近くで見ていた。嬉しかった。新卒で入社してきた頃の頼りない彼は、私が思うよりずっと早く数ヶ月でどこかへ消えた。


 彼の好意に気が付くまでには、時間がかかった。気軽な飲み仲間と思っていたし、努力家で優秀な後輩を出来る限り支えようと思っていた。公私ともに信頼できる男性だった。だから、男女の仲になるなんてことは考えたこともなかった。


 私自身が彼に好意を持っていたのだとしたら、それは純粋な友愛のようなもの。


 でも、彼は違った。


 彼の好意に気が付いたきっかけは「川島先輩って、ボディーガードみたいですよね!」と、私に向かって彼のことを後輩の誰かが言ったからだ。


 そういえば、職場の飲み会に参加する時は必ず彼もいた。あまり話したことがない男性社員と話す時も近くにいた。

「今度、食事にでも」と執拗に声を掛けてくる苦手な男性社員がいれば、必ず彼はどこからか席を移動してきては、自然と会話に割り込み溶け込んで話をそらした。

 確かに、私は守られていた。


「先輩は面倒見が良すぎるから、勘違いしてしまう奴らが多いんですよ。苦手な話でも相手に合わせただけでも、勘違いする奴もいるんだから。少しは気をつけてください」としきりに私に言ってきたことを思い出す。


「え?う、うん」よくわからなかった私は、生返事をした。そして、すっかり酔っ払った彼に延々と何故か説教をされたのだった……


 そして、私はもう先輩じゃないんだなと少しだけ寂しく思った。私の方が先輩だったのに、いつの間にか彼にずっと甘えていたんだな。


 やっと気が付いた、彼のことが好きなんだと。


 もう彼は一人で率先して仕事をこなしていける。部下もいる。きっと、大丈夫。つまずいても、彼はそう容易たやすく諦めるはずがないのだから。

 距離を置くべきだ。


 誕生日が近づいたある日。職場で「誕生日暇だなぁ」と同僚と話していた時、デスク脇でスマホが震えたので見てみると、少し離れた席にいる彼からだった。


「誕生日、一緒にどこかへ行きませんか」


 私は旅行が好きだから、「どこかへ」誘ってくれた。幸いにも誕生日は土曜日だった。気兼ねなく出掛けることができる。


 でも私は迷った。追い詰められる。あなたには幸せになって欲しい。だからもう、言わなければならない。大丈夫、私の支えは必要ない。


 時を巻き戻すことは、誰にもできない。私と彼の年の差は変わることはない。誰にも埋められない十年。お互いを知らない十歳の年月。十歳の差。


 もうすぐタイムリミットだと感じた私は、すでに会社に辞表を出していた。会社にも仕事にも未練はないし、転職も視野には入れてたから。


 決めた、彼と「どこかへ」行くことを。

 これで、おしまい。さよならのお出かけ。


 彼にプランを全て任せたら、一泊旅行だった。男女の仲でもないから、一泊することも嫌ではなかった。ただ少しだけ、今回だけは少しだけ緊張した。


 レンタカーで小旅行に出掛けて、適当に観光や買い物をしてから夕飯を軽く食べて。


 そして、今。


 シャンパングラスをきゅっと握り締めて、彼が真剣な面持ちで言った。


「僕、あなたのことが好きです」


 彼は、言ってしまった。

 その言葉は、言わないで欲しかった。


 私はその言葉の返事を曖昧に、自分でもわかる程の上手く作りきれていない歪んだ笑顔で、彼を見て答えた。


「アリガト」


 一輪の青い薔薇の花びらに、唇で触れる。

 あなたのことが、大切です。心の底から。


 さよなら、もう二人で会うこともない。

 その言葉は、言わないで欲しかった。



 私が口を開くその前に、彼が私を抱き締めた。


「僕は知ってますよ。先輩がもう僕に会わないように決めていることも、会社を辞めてしまうことも」


 ──どういうこと、誰にも話していないのに。


「僕は入社した時から、先輩に助けてもらってばかりだった。最初は細かなところまでよく見ている、僕のことだけではなくて皆を支えてくれる人だと、憧れてた」


 私は、何も言葉が出ずに黙って動かず彼の体温を感じながら話を聞くことしかできなかった。


「憧れてたけど、先輩は本当に隙が多すぎ。くだらない話題にも先輩は笑顔で聞いてて。話し掛ける社員が全員敵に見えてた。僕は、先輩を誰にも取られたくない一心でしたよ」


 素直に彼は私への想いを口にしてくれた。私は……それでも、彼の将来を邪魔したくない。ギリギリ締め付けられる心に深く棘が刺さる。


「私と、いくつ年が離れていると思うの?こんな素敵なホテルにサプライズ。とても嬉しいけれど、私には勿体ない。ちゃんと将来を考えなさいよ。こんな素敵なサプライズは、これから出会う人にしてあげて」


 精一杯の強がりと、年上の余裕を見せようとする。そっと、腕の中から逃れようとした。


「気持ちを伝える為だけに、僕はここまで努力したんだから。そんなこと言われても諦めないですよ」


 彼は、私を逃がさなかった。


「知ってます?青い薔薇の花言葉」


 彼の腕の中で、私の心が激しく動いて締め付けられて深く深く突き刺さる棘の痛みを感じながらも何とか答える。早く、この腕から彼の体温から離れなければいけない。

 視界が歪む。青い薔薇は長い間、存在しなかった。それが花言葉だったはずなのだ。


「確か、『不可能』でしょう?」


 それを聞いた彼は、笑った。


「花言葉は『夢叶う』です」

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