図書館の秘め事

佐渡 寛臣

前編

「あら、楠木さん。まだ残ってたんだ」


 千条先輩の声が静まり返っていた図書館にふわりと響いた。

 水面に雫を一滴落とすような、落ち着いた声。それが流れるように私の名前を形作って、耳を通して胸に響いた。

 振り返って、後ろに立つ先輩を見上げた。


「図書委員の特権ですよ。千条先輩」


 鍵をチラつかせると、ふふ、と口元に手を当てて僅かに笑む。淑やかな、微笑である。


「先輩こそ、どうしたんですか? こんな時間に」

「昨夜、読み終わったの。……だから次の本を借りにきたわ」


 細い手を、そっと鞄に差し入れて、静かにテーブルに本を置いた。私の気に入った、青い表紙の青春小説。白の花のワンポイントが可愛らしく、かつ作品の全てを表しているようなそんな装丁だ。


「どうでした?」

「――よかったわ。『ゆみ』の『しぃちゃん』に対する静かで熱い、愛情にも似た友情。素敵だったわ」


 表紙の花に指を当てる。そっと気付かれないように千条先輩の顔を見上げる。

 こんな表情の先輩を見るのが好きだ。何も言わなくても伝わってくる、先輩の柔らかくて暖かい感情。それを見つめるのが好きだ。


「それじゃあ、その作家さんをもう一冊いかがですか?」


 そういって、私はしおりを挟んで本を閉じて立ち上がる。棚へ向かって歩く私の、一歩後ろを千条先輩がついてくる。

 静まり返る図書館に、二つの足音。目当ての本棚の前で立ち止まり、ちらりと千条先輩を一瞥する。唇に軽く手を当てて、千条先輩は無数に並ぶ背表紙を見つめていた。

 自然と、私の視線は先輩の唇に向かう。淡い桃色の艶やかな唇。考え事をしているときの、唇を触る先輩の癖。そんな仕草に思わず熱くなる私がいる。

 千条先輩は気付いているだろうか。何気ない先輩のあらゆることに、揺り動かされている私がいることに。いつも触れてしまいたいという衝動を抑えている私がいることに。


「どうかした?」


 ふと先輩が私に言った。じっと見つめていた私を不思議に思うでもなく、いつもの柔らかな微笑を浮かべている。途端に、顔が熱くなって私は視線を落として唇を噛んだ。


「――いえ、なにも。それより、いい本ありました?」

「うん、と……そうね」


 呟きながら先輩は本棚を眺める。軽く目を細めて、うん、と首を傾げる。


「タイトルだけじゃわからないわ。楠木さん、またオススメを選んでもらえるかしら」


 そういうのがわかっていたから、私はここ数日、ずっとこの作家の本を読んでいた。笑みと想いをうまく隠して、私は一冊の本をとって先輩に渡した。


「――『あなたにあげる交換日記』……面白そうね」


 手に取った本のタイトルを読み上げて、私に笑みを投げる。キャッチボールみたいに笑みを返して、私は貸し出しカウンターに入った。

 先輩が貸し出しカードに名前を記入する。私の名前だけが書かれたカードに、先輩の名前が並んで書かれる。私は帳簿に先輩の名前と管理番号を書き込んで手続きを済ませた。


「――いつもありがとうね、楠木さん」

「いえ、係ですから」


 そういって、ぺこりと頭を下げる。ふふ、と先輩は微笑を浮かべ、先ほど私が座っていた椅子の隣に座った。吸い寄せられるように私はその隣に座った。

 私は、少し動揺していた。いつもなら先輩は、本を借りたら図書室を出て行くのに。

 ――静かね、と先輩は言った。いつものことじゃないですか、と私は返した。僅かに響く声が部屋全体に広がる。


「先輩……帰らないんですか?」


 答えない。しんと静まり返った図書室で、私は先輩の顔も見れずに俯いていた。

「楠木さんは……」


 先輩が呟くようなか細い声で言った。


「楠木さんはこうしているとき、寂しくはないの?」

「こうしているとき?」


 声に重なるようにチャイムがなる。外はすっかり紅く、入り込む夕日がほんの少し図書室を朱に染め上げていた。


「――一人でいるとき、私はときどき堪らなくなるわ。どうしてかなんてわからないのだけれど、人と一緒にいるときは煩わしいとさえ思ってしまうのに。楠木さんはそういうこと、ない?」

「寂しくて、ですか?」


 少しの逡巡のあと、小さく頷いて「今はありますね」と答えた。


「――今は?」


 短い先輩の声。


「えぇ、今はときどき。――以前は、寂しいも何も私には友人なんていなかったですから」


 保健室登校をしていた。イジメに負けた可哀想な子。でもそれもこれも人とうまくコミュニケーションをとれない私のせい。高校にあがっても、私はやっぱり人と上手くはやっていけていない。

 だから誰も利用していないこの図書室に入り浸っている。一人で本を読んでいるその間は、私は物語の中に居られたから。


「――それは……」


 先輩は言いかけて口を噤んだ。しばし考えるようなそぶりで目を伏せて、なんでもない、と呟いた。

 今は、時々堪らなく千条先輩に会いたくなる。携帯電話を見つめては、コールすることを躊躇って、布団の中の暗闇で千条先輩を思い浮かべて丸くなる。いつの間にか眠ってしまうことを期待しながら。


「――そんな時、先輩はどうしてるんですか?」

「音楽を聴いてるわ。音の澄んだ綺麗な曲を選んでね」


 やかましいのは苦手なの、と苦笑いを浮かべて先輩は鞄から音楽プレーヤーを出して、イヤホンの片方を私によこした。

 先輩が、ほんの少し椅子をずらして、肩が触れ合うくらいの位置でプレーヤーの画面を覗き込んだ。私も先輩と同じように画面を覗き込んで、技と先輩の肩に、自分の肩を押し付けた。

 柔らかな、肌の弾力が伝わってくる。先輩も私の体の柔らかな部分を感じてるのだろうか。少し、緊張しながら待っていると、イヤホンから静かな音楽が流れ始めた。

 ピアノ曲だった。森林にいるようなイメージの、澄んだ空気が感じられる曲。


「こんなのを聞きながらね、眠るのを待つの。目が覚めたら、いつもどおりの朝で、昨夜の寂しい気持ちなんか嘘みたいに飛んでるのよ」


 ――眠るとき、私と同じだったらいいのに。私は胸のうちで呟いた。

 私と同じように、先輩も眠るとき、私を思い出して欲しいな。

 夢のなかで会えることを期待して、眠りについて。夢の中くらいでしか、先輩には触れられないから。

 思い出して、顔が熱くなった。私のことを名前で呼ぶ、夢の中の先輩のことが頭に浮かんだ。そのときの情事が思い起こされて、私は堪らなく恥ずかしくなって視線を落とした。

 扉の開く音が響いて、私は心臓が飛び上がるように驚いて、後ろを振り返った。弾みでイヤホンが耳から外れて落ちる。

 そこには、見知らぬ男子生徒が立っていた。千条先輩が、聞こえないくらい小さく息を吐いた。


「――千条、悪い、待たせたな」


 彼から先輩の名前が呼ばれた。私の胸がぎくりと萎縮するのを感じた。


「板垣くん、やっと部活終わったの?」


 プレーヤーを鞄に直して先輩が立ち上がって答えた。


「先に帰ってしまえばよかったわ」


 言いながら、千条先輩が彼の元へと歩いていく。私から離れて歩いていく。

 見ているだけでそうとわかる関係がある。先輩と彼はそういう関係なのだ。私は視線を落として、生唾を飲み込む。ただ、痛い。

 何がなんだか、分からなくなってしまいそうだった。本当は何もかもわかっていたというのに、私はそれを認めたくなくってただ俯いて、唇を噛んでいた。


「その子は?」


 彼が言った。


「――後輩よ。最近、知り合ったの。……じゃあね、楠木さん。また来るわ」


 はい、とだけ、振り返りもせずに私は答えた。そのとき、先輩がどんな表情をしていたのか、私は結局知らないままだった。気が動転していた私には、恐らく幸せそうにしている千条先輩の姿なんてみたくはなかったし、そんな余裕もなかった。先輩の声が酷く落ち込んでいたことも気付かなかったし、漏れる吐息がため息だったことにも気付かなかった。

 先輩が出て行った図書室で、私は一人泣いてしまった。

 もともと、叶わぬ恋だと知っていたのに。知っていたから何もしなかったのに。いつか風化してしまう想いだと、そう思っていたのに。

 だけどどうしてこんなにも痛いんだろう。先輩のいなくなった……先輩を失った図書室はただ広く、ただ寂しげで、私の泣き声だけが響いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る