第76話 山登りのきっかけから:“頂”というゴールのある行為への憧れ

 僕にとってのアウトドア三大趣味のひとつが、“山登り”である――残り二つは“ジョギング”と“乗馬”だ。

 山登りと言ってもしっかりとした登山道の敷かれた道を歩く程度なので、まあトレッキングというか山歩きに近い。


 今回は、山登りをはじめたきっかけについて話したいと思うのだが、山の話題に触れると、たいていの場合観念的な内容になってしまう。今回もそうならないとは限らないので、あらかじめ断っておく。

 ただひとつ最初に結論を示しておくとしたら、このきっかけが、後に、おそらく僕の一生を支える重要な営みになったということだ。


 30代半ば、付き合っていた彼女に連れて行かれたのがはじまりだった。それは、僕が英国留学から帰ってきて間もないころで、第69話『イギリス留学から』で記述したように、(他人からみればどうでもいいような)深い悩みを抱えていた。


「ワタシ、子供のころ、よく父に連れて行ってもらったからわかるよ・・・・・・、行ってみる?」と言葉をかけられたのが、そもそものきっかけだった。もしかしたら、僕の悩みに対して何かしらの危機感を抱いていたのかもしれない。


 目指した山は、栃木県の那須岳だった。

 いくらかの山グッズを携えたが、運動をほとんどしていない時期だったから、それはもうスッタモンダの山行だった。彼女の励ましを受けながらやっとやっとでなんとか朝日岳の山頂に立てたものの、自分の非力や山の凄み、自然への驚異といったものを肌で感じた。

 が、しかし、「大変だったから二度とゴメンだ」ということにはまったくならず、それどころか、この日を境に、近隣の山々を一つずつ踏破していくという、僕にとっての新たな目標が生まれたのだ。より充実した歩行を目的に、ザックやトレッキングシューズ、レインウェア、トレッキングポールなどをそろえていった。


 彼女が同行してくれることもあったが、たいていは単独行だった。人との調整が面倒だったし、山登りに興味のある友人なんてほとんどいなかった。ただ、そのぶん慎重になる。場合によっては無理をせず、山頂近くまで行ったものの強風にあおられやむなく撤退という経験もたくさんした。


 それから約10年間、暇さえあれば山に通う日々が続き、特に大学病院を辞める前の1年間は延べ50日間山中にいた。週に1回は行ったという計算になる。常識的に考えるならば、医者でそんなに行ける人などほとんどいないだろう。


 なぜ、それほどまでに僕は山にハマっていったのか?


 月並みな表現になってしまうけれど、「自分と向き合う時間が必要だった」という以外に言いようがない。景色を満喫するほどロマンチストではないし、みんなを誘って自然を楽しむほどオプティミストでもない。達成感とか充足感というのとも少し違う。

 大学病院での不祥事や告発事件、離婚問題などを抱えていた自分にとって唯一の逃げ場が山だったということもあるが、はたしてそれだけだったのか?


 冷静に考えると、生き急ぐというより、心のどこかで「自分は死に急いでいるな」と思うことがある。

 山奥深くに分け入るたびに、「もしこのまま道なき道を進んでいったとしたら、確実に遭難するだろう」ということを考える。死にたいと願っているわけではないが、でももし、この先に安らかな地があるとしたら、迷い込んでも悪くないと思うことがある。

 神隠し、狐火、怪物、謎の怪音、異世界・・・・・・などなど、山に関する怪談話はこと欠かないが、確かに山にはそんな怪しさというか、もしかしたら何でも包み込んでくれるような優しさがある。すべては自分のスキル、最後は自己責任という危険性のけっして少なくない登山に憧れる僕には、ちょっとした自虐、自傷があるのだろう。


 改めて登山の魅力とは・・・・・・? 僕にとっては独りで頂を目指すという、その行為にこそ意味があった。とにかく一歩ずつ歩を進めさえすれば、たどり着ける場所があるということが大切だった。

 帰る場所もなく、さりとて行く場所もない自分にとって、たとえツラくとも一歩ずつ歩むことによって行く着く“頂”というゴールのある登山という行為に、なんとなく憧れというか吸い寄せられる感情があるのだろう。


 もっと言うならば、いくつもある登山ルートのなかからこの道をたまたま選んでしまったという選択が、過ちを繰り返してきた修正の効かない己の人生とダブるのかもしれない。

 ただ、この期におよんでになるが、いざとなれば引き返せることのできる山道は、僕に何かしらの安心感を与えている。

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