第67話 霊安室の帰りから:あの物静かで色白な美人

 医者になって、大学病院のある診療科に入局して、病棟業務を開始して、最初に目に映った女性が、あの“物静かで色白な憂い”だった。彼女に対する僕の第一印象だった。


 このときは思ってもみなかった。この人が、社会人になっての最初の3年間を支えてくれる大切な女性になることを。


 午前0時を確認してからしばらく経った時間だと思うが、僕の患者が亡くなった。高齢で、多くの病を抱えていたから仕方なかったが、誰もが納得のいく死だった。それほど苦しまずに最後を迎えた。そのとき一緒に立ち会い、死亡宣告を手伝ってくれたのが夜勤担当の彼女だった。


 死後の処置として僕は、医療機器を外し、点滴などの管類を抜き、傷ついた体に対するできる限りの修復を加えた。同時進行で、彼女は遺体に死化粧を施していた。病室でのそうした作業は淡々と進む。厳粛な雰囲気のなかで、重苦しい空気が流れる。この時間があることで、僕は、ともすると医師として驕りがちな気持ちを律することができるようになった。


 昼間からの慌ただしい作業を終え、やっと一息ついた。彼女からの「夜中までお疲れ様」の声は、身体のなかに隅々まで沁み渡る聖水のようだった。

「うん、ありがとう。そちらこそ、大変な勤務になっちゃって申し訳ない」

 霊安室からのお見送りの帰り、そんな当たり障りのない会話をして、この一連の業務は終了しかけた。


「そうだ・・・、今日はだいぶお世話になっちゃったから、今度、お礼でもさせてくれない・・・」

 死亡されたとはいえ、ある意味病院の日常診療である。本来、礼などする必要はないのだが、僕は咄嗟にそんな言葉をかけていた。

「えっ、お礼なんかいいですよ。ナースとして当たり前のことをしただけですから」

 社交辞令にしか思ってくれなかったようだ。

「まあ、そうなんだけど、ちょっと話しでもしてみたいなぁと思って、嫌でなければ付きあってもらえると・・・・・・」


 どんなところに連れて行ってよいか少し悩んだけれど、とりあえず落ち着ける小料理屋を案内した。

 ここで僕は、彼女の素性をはじめて知ることになった。生まれは青森県、年齢は僕より3つ年上、顔立ちは四角顔の檀れい、髪型は長めボブ、趣味はダンスだった。ゆったり目のブラウス姿のためか、少しだけ胸元が見えた。

 冒頭紹介したように、落ち着いた蒼白の美女だった。ダンスを趣味にしている割には口数は多くない。それどころか、ほとんど笑わない。きっと、黙々とやるタイプなのだろう。冷酒を注文する姿が、なんか似合っていた。


 青森の看護専門学校を卒業した後、はるばる北関東のこの大学病院に就職を希望した理由はいったい何なのかを問うと、「東北の田舎から離れて都会の方に出てみたかったけど、東京まで行く勇気はなかったので」と答えていた。

 控え目な彼女らしかった。


 彼氏はいるのかという質問には、「一応いるよ」とのことだった。

「でも、ちょっとダメなのよね・・・」

「どういうこと?」

「実は、この大学の医学生なのだけれど、あまり勉強しないから留年しているわ。このままだと卒業できないかもしれなくて、そうなったら『別れよう』っていう話しになっているのよ。医者になれなきゃ、ただの人だもの」

 耳が痛い。確かに僕の卒業した医大は、毎年1人か2人、授業についていけずに放校になるものがいる。彼も、そのクチなのだろう。


 青森から単身この地に来て、一人でがんばっている看護師さんだった。表現は難しいのだが、“憂い”と“艶”に加えて、いい意味での“自負”というものを合わせ持った女性だった。


 それからたまに、僕は彼女を誘うことになった。おかずをツマミながら日本酒を飲む。自分はほとんど飲めないけれど、彼女は「口当たりのいい辛口の冷酒が好き」と言って、毎回2合くらい飲んでいた。飲んで饒舌になるどころか、やはり必要以上のことはしゃべらない、だから酔っているかどうかもわからない。変わらないその柔らかな口調が心地よかった。

 そして、移ろいゆく季節のように、透き通る肌が薄いピンク色に染まっていく様子が、彼女の色気を際立たせた。僕は、それをただ眺めることで満足していた。


 日頃の仕事に忙殺され、ササクレ立った気持ちになってくると、雨水を求める宿根草がごとく、気が付くと僕は彼女の温もりを求めていた。

 しかしながら、彼女は何も求めてはこなかった。淡白といえばそう言えなくもないのだが、何かをして欲しいという甘えよりも、何もしないことへの優しさを・・・、哀しみという脆弱性よりも、哀しさへの愛おしさを・・・、そして、ずっと一緒にいたいという執着よりも、一緒にいられるこのときがもっとも大切という気位を感じた。


 時が経ち、彼女は別の病棟に異動していった。顔を合わせる機会が減り、それにともなって約束を交わせるチャンスも減った。

 90年代、バブルのとっくにはじけた名残惜しい時代に医師になった駆け出しの僕を、少しだけ大人に導いてくれた。

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