第3話 透析患者から:立ち止まってなどいられない
週3回、1回3~4時間、ベッドに縛り付けられるのが透析治療である。糖尿病性腎症、慢性糸球体腎炎など、理由はいろいろあるけれど、最終的に働かなくなった腎臓の役割を担うために行う治療が“血液透析”だ。一種の“生命維持行為”に近い。
回路によって血液を一旦外に引っ張り出して、特殊な装置を用いて老廃物と余計な水分とを抜く。これを繰り返すことによって健常的な生活を送ることができる。生きていくための手段だとしても、相当な負担はかかるし、面倒な治療であることは間違いない。
透析がスムーズに行われているかをチェックするのも医師の仕事である。患者のなかには血管系の病気を抱えている人も多く、ごくまれではあるが、透析中に急死したりする場合もある。通常は腎臓内科医や泌尿器科医が専門性をもつのだが、田舎の病院では仕方がない。僕にもその役割が与えられている。
順調に治療が終わりかけたときである。急に血圧が下がり、それとともに脈拍が増え、体中から冷や汗の吹き出た患者がいた。「たいしたことない」って言っているけれど、ベッドから起き上がれなくなっている。そう看護師から連絡を受けた僕は、すぐに透析室に向かった。
顔色の悪さを察知し、「気分はどうだ? 苦しいところはないか? 胸は痛くないか?」などを問うた。何より急性の心筋梗塞が怖かったからだ。もしそうだとしたら生死に関わる。
心拍は速いものの不整はなく、心電図の異常もなかった。意識は十分保たれていたし、麻痺や構音障害といった神経障害の徴候もなかった。患者は、気分が優れないだけで他に症状はないということを主張した。
理由は定かではなかったが、急に血圧が下がったことによる一時的な生体反応だろうと推測し、「血圧が戻って状態が落ち着くまで、少し休んでいってください」と、しばらくの安静を促した。透析中の血圧低下はよくあることでもあったからだ。
ところがである、「これから仕事もあるし、終わったのなら大丈夫です。帰ります」
「いやいや、まだ脈も速いし、冷や汗も出ているし、もう少し横になっていてください」と、再三にわたって説得を繰り返したが、帰るという考えを曲げなかった。
透析患者はわりとこだわりをもつものが多い。自分の体調は自分が一番よくわかっているという自負があるのかもしれないが、よく言えば頑固、悪く言えば人の話を聞き入れない。誤解を与える言い方になってしまうかもしれないが、癖の強すぎる人もいる。負担の多い治療だし、慢性であれば長年の経験もあるだろう。それがアクの強い性格変化に関わってくる部分もある。
結局、制止を振り切り、彼は帰っていった。
「仕事に行くって言っていたけれど、何をしているのかな?」
スタッフの看護師から、「介護士ですよ、“平和荘”で働いていて、透析の日でも出勤しているんですよ」との回答だった。
「こう言ってはなんだけれど、自分の体調を押してまで一刻を争って行かなければならない現場かなぁ? 多少遅れたっていいんじゃないのか」
「先生! 何を言っているのですか、やり甲斐のある立派な仕事ですよ。彼は真面目なんです」
確かに彼は真面目だった。維持透析患者にしては、すごく礼節をわきまえ、物静かで弱音を吐かない。食事や水分摂取量を守り、滅多なことでは余計な体重を増やしてこない。トラブることのない優等生で、看護師や工学技士などのスタッフとモメるなんてことも、ただの一度もなかった。ところが、今回の応対はどういうことなのか。
彼の仕事を否定するつもりはなかったけれど、でも介護士という職種は、他人の体を預かる仕事なのだから、自分の体調をしっかり管理していく必要がある。そうでないと利用者に迷惑をかけないとも限らない。
そういう意味でも彼は真面目だった。であるはずなのに・・・・・・、終わったからといって、あれほど慌てて帰らなくてもいいではないか。そんな想いが巡り、僕は、まだ釈然としなかった。
後日、その後の状況に関する情報が入ってきた。仕事には行ったものの、やはり途中でつらくなって早退したそうだ。
「ほら、言わんこっちゃない」、少し休んでから出勤していれば違っていたかもしれない。もっと言うなら、その日は休んだってよかったんだ。僕は、医学的な正当性を強調したかった。
「でも先生、平和荘から聞きましたよ」
「ん、何を?」
「彼の働いている平和荘には、結構前から自分の奥さんが入所しているそうよ。だから、彼は、前の仕事を辞めて介護士の資格をわざわざ取って、奥さんの面倒を診ながらそこで働くようになったの。透析の終わった日は、帰りにスイーツ屋や惣菜屋に寄るそうよ。その日は、少しだけ自分の透析への縛りを解いて、買っていったお菓子やおツマミを、奥さんと一緒に食べているんだって」
そうだったのかぁ。彼が早く帰りたがる理由は、それだったのか。腎臓を悪くした理由は、彼自身にもあったらしい。そんな夫に対してずっと尽くしてくれた妻がいた。ある事故をきっかけに、奥さんは障害をもってしまった。それには彼の責任もあったらしい。
そんな奥さんに、いま精一杯の恩返しをしているのだ。透析患者である自分の余命が、普通より短いことは百も承知している。ちょっとした血圧の低下で立ち止まっている時間など微塵もないのだ。
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