夢なき丘、果ての景色
春嵐
夢なき丘.
夢などない。
目的も、それにともなう意識もない。
ただ、手段と結果があるだけ。
そうやって、生きてきた。だから、結果と手段には困らなかった。夢は、見ない。
家に帰るとすぐ、テレビとパソコンをつけてドラマや配信をたくさん流した。現実ではないどこか、何かが、欲しい。幻想的な何かを持たなければ、夢がなければ、現実は、見えなくなっていく。自分の精神を現実に引き留めるために、ありもしない人間模様や起こり得ない状況をひたすら画面から探し続ける。
そうやって、生きてきた。
これからも、そうなのだろう。
電話。
声はなく、アナウンスだけが反響している。
『警視庁から各管区。警視庁から各管区。至急応援要請。都内で傷害事件発生。犯人は急行した警察官の装備を奪い逃走中。繰り返す』
傷害。警察官の装備。ふたつ、メモする。
『聞こえたか?』
「聞こえた。誰だ?」
『今の無線の犯人。おまえに依頼がある』
今回の依頼主か。
「聞こう。受けるかどうかは話による」
『逃がしてほしい。二週間程度でいい』
「なぜ逃げる」
『無実だからさ』
こちらから、電話を切る。
そして、警察へ電話。
『はい青課』
「聞きたいことがある」
『どうしました?』
「ついさっき起こった傷害事件」
『傷害事件。ちょっと待ってくださいね』
待った。キーボードの打たれる音。
『直近一時間で傷害は起こってないですね。いちばん古いので12時間前の酔っ払いが窓壊してけがさせたやつ。都内じゃない話ですか?』
「いやいい。その情報だけで充分だ。また連絡をしたい。味方できるならアルファ、味方ができないならベータ。それ以外ならエコー」
『了解。お身体を壊さないように』
「女扱いするなよ」
電話を切った。
パソコンを配信から警察無線のハックに切り替える。直近一時間。無線幅。
確認して端末に情報を転送し、家を出る。テレビは付けたまま。
掛け直す。電話。
『はい』
「喋れるか」
『ええ。それはもう』
「受けよう。二週間逃がす」
『ありがたい』
窓を、叩いた。反響音が、電話からも聞こえる。
『えっ』
「開けろ」
窓が開く。
「うそだ。こんなに近くにいたなんて」
「たまたまだ。車に乗せろ。後部座席」
普通の車だが、覆面車。
ドアが開く。すべりこんで、扉を蹴って閉じる。
「出せ」
「いや、まだ無線が」
「二週間はいらない。無実なんだろう?」
「ええ、まあ」
「いまから警視庁にこの車を突っ込ませる」
「ちょっと待ってください。そんなことは」
「無罪なんだろう?」
「それとこれとは」
「逃げるのか。攻めるのか。どっちかにしろ」
男。頬にあざ。身動きからして、左肩に切り傷か何か。
車が、ゆっくりと、動き出す。
「どこへ行けばいいですか」
「高速道か、あるいは都心環状。とにかく道幅が広く見通しがいいところだ」
「検問に掛かります」
「大規模には追われていない。確認した。さっきの無線は、おまえを誘い出すための嘘だ」
「そんな」
「警察官だな?」
「はい」
車。ゆっくりと、揺れる。運転が上手い。
車に乗ってから、口調が敬語になった。それだけが、いやに心のとげを刺激してくる。
「話を聞こう。なぜ無罪なのに傷害になったのか、逃げる理由はなぜか」
「私は警察管区内の下水処理を担当しています」
「内偵か」
「はい。都内と、ある県の捜査協力に関する汚職を見つけました。それで、警視庁内と当該圏管区から狙われています」
「証拠は?」
「ありません。それを確実に洗い出すために、二週間逃げる必要があります。いま、秘密の場所に置いてあるパソコンが、汚職に関するデータをゆっくり気付かれないように転写していて」
「必要ない」
「いえ。立件して事件を表沙汰にするには」
「無理だ。あきらめろ」
「私は警察官としての職務を」
「捨てろ。おまえはもう、警察官には戻れない。内偵担当だと分かれば、どうせ同部署にもいられなくなる。分かっているだろうに」
「それでも」
「それでも、なんだ。拳銃で自殺でもするか?」
男。無言。やはり最後はそれしかないと、思っていたのだろう。
「ばかのやることは、いつもワンパターンだ。死ねばなんとかなると思っている。その腐った性根から変えろ」
男。しばらくのあいだ、無言。
「女性だとは、思いませんでした」
「女で悪いか?」
「いえ」
女であることを、呪わない日はない。
心と身体をぎりぎりまで追い詰める仕事は、いつも男のものだった。そのたびに、殺してやりたいと、心から思う。
「私も、かな」
「何が」
「首もとの、ネックレスを。取っていただけますか?」
かなりきつく縛ってあるそれを、後ろから取った。
「ありがとうございます」
女の声と、胸が、変わる。
「ほう」
「内偵担当なので、ときどき使っているんです。女性同士、よければ」
女になった男の首の血管を、爪で圧迫した。
「次。同じことをしたら、この血管を、切る」
男。血管から、心拍数を読み取る。少し速い程度。
「まいったなあ」
男の声に戻る。
「なぜそんなに、女であることを」
血管のとなりの何もないところに、爪を刺した。
男が咳き込む。しかし、車は揺れない。
「次はない。いいか。次は、ない。女を偽るな」
「わかりました」
男。ミラーから見える表情に、少し硬直。
「警視庁に車で突っ込み、汚職の元凶を絶つ。拳銃と警棒はあるな?」
「一式ありますが、これは」
「これを使って、殺す。いちばん殺さなければならないやつの名前をいえ」
男。焦りが見える。
「言わないならそれでいい。敵が分かるまでこのまま運転していろ」
電話をかける。
『はい青課』
「アルファか?」
『はい。把握しました。汚職に手を付けようとして、ひとり逃げてますね?』
「話が早くて助かる。今から車で警視庁に突っ込んで、汚職の元凶を殺す」
『殺すんですか』
「二週間逃げるより、ましだ」
『もったいないから、僕に身柄をください。絞れば汚職以外にも出てくると思うので』
「非公式で
『出せます。というか、警視庁内を普通に制圧するならそれしかないです』
「地下駐車場から上がる。そこで合流」
『了解しました。今回も、男、ですか?』
「ああ。女に偽装したから喉を爪で刺した」
『女だからという理由で殺さないように』
「どうだかな」
電話が切れる。
「警視庁へ。地下駐車場に入れ。それでおまえの目的は達成される」
「あの」
「喋るな。少し眠る」
目を閉じた。
夢のない景色。
ただ黒く、瞼が閉じられただけの、世界。
それが、自分にとっての眠りだった。このまま死んでも、何も残らない。
だからこそ、殺す。
誰を。
本当に殺したいのは、自分ではないのか。
なぜ自分を殺さず、他者の命を天秤に掛ける。
この傲慢が、赦されるのか。
着いた。目を開ける。
地下駐車場。
車のドアを、足で蹴って開ける。
「よし。ここで待っていろ。車からは出るな。ここから先は、私の領域だ」
男。喉を気にしながら、こちらを見るしぐさ。
「喋ってもいいぞ。もう会うこともない」
「ありがとうございました。その、お礼に今度、食事でも」
「ひとりで勝手に行け」
車のドアを、蹴って閉じた。
地下駐車場から上に昇り。
一階に入る前の、監視カメラのあるスペース。
『青課です』
「アルファか?」
『滞りなく。今から特別訓練と称して建物内に
「あとは
『その通りです。対象の名前や顔は?』
「知らん。聞いてもいない」
『ありがとうございます。警察内の恥ですから。見られたくはないものです』
「私がそれを殺すと、エコーか」
『はい。殺し方によります。ベータになることはないとだけ、お伝えしておきます』
「それだけでいい」
目を一度閉じ。
開く。
「やれ」
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