最終話。壊れた人生の先に

 人は言う。人生には無限の可能性があると。


 だけど、その言葉は嘘だった。

 選べる道はいつも限られていた。その中から必死に悩んで考えて、一番善いと思う道を選ぶしかなかった。


 そして今回は、どの道を選べばいいのだろう。

 道の数だけは一見すると豊富だが、よく目を凝らせばどの道の先も巨大な壁で塞がれている。


 あの壁は、勝利者である事を約束された無敵の壁だ。

 迂回路なんてない。乗り越える事なんて誰にも出来ない。どんなに壊れても、きっとまた目の前ですぐ修復されるに違いない。


 それでも、私達三人は話し合い必死に考えた。

 あの無敵の壁にもほんの僅かな綻びがあると、私は二人に信じさせて一つの道を選んだ。


 地味で見栄えのしない、細い道だった。

 三人で並ぶには狭すぎる。ハスキ一人の方が、よっぽど上手く渡れるだろう。


 けれど、私は結果を見届けたかった。

 私の選んだ道だ。

 もしも道が間違っていても、後でいつものように後悔する事になっても、これは間違いなく私が選んだ道なんだ。


 だからその結末は、私のものだ。

 他の誰かに渡したくはない。


 私だってこの程度の我儘くらい、許してほしい。




「ゼノフォビアァ……第1話で死んだ中ボス風情がよぉ……! テメェが見下してた異種族に味方しやがって、そんなになってもまだ俺が憎いかぁぁ……!? 経験値も手に入らねぇ死体をワラワラ増やしやがって、ウゼぇぇええんだよぉおおおー!」


 巨人が吠えている。

 月明かりも星の光も奪われた。空はピンクの雲で覆われ、人形が絶え間なく降り注いでくる。目印になる光源は怒り狂う巨人だけだ。

 これから私達は、無敵の英雄と戦わなくてはならない。


「ハスキ、確認だ。奴の居場所は変わっていないか」


「ああ、匂いでわかる。奴はオレと戦った場所からそんなに離れていない」


「具体的な場所は分かるか」


「あの巨人の足元近くだ」


「本当に巨人の中に入ってないんでしょうか……」


「あの巨人がどれだけ暴れても音が出なかったし、地面に降りた時にも振動が無かっただろう。だから、あれは本物の巨人じゃない。アベルが出していた光の延長で、乗ったり入ったりはできないはずだ」


「おい! 人形が近くに落ちてくるぞ!」


 ハスキの忠告の直後、頭上の枝をへし折りながら人形共が数体ほど目の前に降下してきた。奴らは派手に地面に激突した後、おぼつかない動きで立ち上がった。


「クレア様……」


「目を合わせるな。声も出すな。無視して進むぞ」


「わかった。お前を信じる」


 人形共が私達に気づき、手足を振りながらこちらに近づいて来る。私はそちらを直視はせずに視界の端でのみ捉える。奴らを無視して足も進めた。

 奴らの顔が近づいてくる。くそ、緊張で胃が重い。


「コウキョウノバデコンナコトシチャダメダゾ?」


「……」


「エッチナノハイケナイトオモイマス」


「……」


「バカバッカ」


 無視を続けると、人形共は何処かへ去って行った。何とか上手く騙せたようだ。

 私達三人は今、切り取った人形の頭を被っている。突くと皮だけ残して破裂した粗末な奴から作った覆面だ。目の部分に穴を開けて視界を確保した上で、人形共の服を奪って着ている。


 ミサキが着ているのは教会のシスターの服装だ。スカートが長すぎて歩きにくそうだったが、見破られないためにも肌の露出は少ない方がいい。

 私は白地に青のスカーフが付いていた服。スカートはあまり履きたくなかったが、買い物気分でゆっくり選んでいる場合ではないので妥協した。

 ハスキは黒い帽子とコートがセットになっていた厚手の服だ。少し動きにくそうだが、耳と尻尾と唯一の武器であるゼノフォビアを隠さなければならなかった。


 それ以外の荷物と武器は置いてきた。

 この奇襲が通じなければ、本当に詰みだ。


「寿命が縮みそうです……他の方々は大丈夫でしょうか……」


「人狼達は元気に暴れているし、冒険者達は脱出口を探して外周へ向かっているはずだ。気になるのは怪我人達だが……他の二組よりも多めにゼノファビアンを配置しているから、そう簡単にはやられないはずだ。三組にはなるべく派手に暴れてもらって、敵の意識を集める囮になってもらおう」


「だけどあの巨人、動かないぞ。あれが他の組に向かった隙にアベルを奇襲できなかったらどうする?」


「それはそれで好都合だ。あれだけ怒っていて動かないのなら、それはもう動けない理由があると考えるべきだな。君にやられた傷でアベルが動けないから巨人が守っているんだろう。木々に隠れて動けば、頭上から見つかる可能性は低い」


「お前、本当に色々考えるなぁ」


「全部憶測でしかないし、上手くいく保証なんてどこにもないけどな」


「覚悟は決めたつもりでしたが、まだ怖いです……」


「大丈夫だ。失敗しても、死ぬか死ぬまで犯されるかのどちらかで済む。ゼノフォビアで奇襲する以外の方法は何も思いつかなかったし、勝てる可能性は万に一つかもしれない」


「何にも大丈夫じゃないぞ!?」


「冗談だ冗談。ヤバい時ほどこうやって気を紛らわせる余裕を持てって、私も習ったんだ」


 怖いのは私もだよ、ミサキ。

 こうしてそれっぽい事を言って強がらないと、震えてしまいそうだ。




 ハスキが立ち止まり、片手を軽く上げた。

 アベルを見つけた合図だ。口を閉じて息を殺す。

 付近には巨大な穴があった。地面はもちろん、周囲の木々の枝葉も大穴に沿って菱形に途切れている。白騎士が地面に剣を突き刺した痕跡だ。

 その大穴のすぐ側、白騎士の背後、草花が密集した茂みの中にアベルはいた。上半身は裸でこちらに背を向け、茂みに屈みこんで何かをしていた。


 私達は顔を見合わせた。ハスキが無言で頷く。私も頷き返した。周囲に人形の気配はない。ハスキが足を踏み出し、アベルに近づいていく。草をかき分ける音が出てしまうが、巨人の怒鳴り声がかき消してくれているはずだ。アベルは振り向かない。私とミサキは木陰に身を潜めて遠巻きにそれを見ている。


 ハスキがコートの下からゼノフォビアを取り出した。

 アベル本人が絶対領域の影響を受けないのなら、アベル自身の血を吸ったこの刀もまた、絶対領域を無効化できるはずだ。あいつの服や靴にも、あいつ自身の血や汗を染み込ませているに違いない。

 ハスキとアベルの距離が縮まっていく。もう私には眺める事しかできない。


 ……おかしい、順調すぎる。

 頭上の白騎士は相変わらず叫び暴れてこちらを見ようともしないし、周囲には邪魔な人形の一体もいない。アベルは隙だらけで、スレイの姿も見当たらない。

 ハスキがゼノフォビアを上段に構えた。


 そうだ、こんなに何もかも上手くいくはずがない。

 湧き上がる私の不安をよそに、ハスキはアベルの無防備な背中を目掛けてゼノフォビアを振り下ろした。




「それで? 次はどうするんだ?」


 恐ろしく穏やかな声だった。

 ハスキの手からゼノフォビアが滑り落ちた。刀身のない、柄だけになった、私達の切り札。……何て事だ。


 失敗したのか。前提が間違っていたのか。アベルの体の一部なら、あの光に消されないんじゃないのか。だって現にお前の服やスレイは……ああ、くそ! じゃあどういう条件で攻撃対象を識別してるんだよ! イカサマ野郎め!


「お前ら、もういいぞ。そいつを捕まえろ」


 地面から次々と生えてきた舌が、ハスキの全身を瞬く間に絡め取っていた。

 人形達が次々と草むらから立ち上がる。

 罠だった。こいつ、人形達を伏せて隠すために茂みにいたんだ。


「まさかこれで本当に終わりじゃないよな? 他にも何かあるんだろ? こんなの誰だって思いつくからな」


「くそっ、くそっ! こんなのすぐに引きちぎってやる!」


「ケモミミっ娘の軍服コスとかたまんねぇなぁおい! そうそう、肌を出せばいいってもんじゃねえんだよなぁ! ヒューウウ!」


 遥か高みで下品な大声を出す白騎士とは対照的に、アベルの態度はどこまでも穏やかだった。

 怒りで我を見失ったフリをさせていたのか。私達を誘き寄せるために。


 ハスキは抵抗を試みたが、次々と集まってくる人形に完全に捕獲されてしまっている。人形の覆面を引き剥がされ、地べたに押さえつけられて身動きが取れなくなってしまったようだ。

 どうする。どうすればいい。助けるべきか。逃げるべきか。何も思いつかない。


「俺の血を塗った武器で攻撃、ねぇ。少しは考えたみてぇだが、その手は前に一度、ゼノフォビア本人がやろうとしたんだなぁこれが。あの時はスレイが眷属にされて……おい、人が話しているだろ、暴れないでちゃんと聞けよ」


「ぐ……ぐっ……!」


「ああ締め付けさせすぎたか、悪い悪い。喉だけ少し緩めてやるよ。これで話せるな?」


「後でたっぷり◾️◾️◾️の締め付け具合も確かめてやりたいぜぇー!?」


「くそっ、くそっ!」


「さて、お前の仲間はどこだ」


「群れの仲間は今も戦っている!」


「そいつらじゃない。お前に入れ知恵をした奴だ」


 アベルの尋問に、ハスキの抵抗が一瞬止まった。

 ミサキが息を飲む。私の頬を嫌な汗が伝う。


「嘘をつこうとしても無駄だ。今の反応でわかった。今も近くで見ているな」


「そ、そんなの……」


「人狼は群れで狩りをする。昼間に全員で負けたのに、夜になって一人だけ報復に来るはずがない。俺とスレイを罠に嵌めた方法が、脳筋種族の人狼だけで出来るはずがない。いるんだろ、近くに。お前に入れ知恵をした奴が。コスプレでダッチワイフの目をごまかすことを考えたのもそいつだろ? なにせこいつら全員アホで、いちいち細かく命令してやらなきゃ何も判断できねえからなぁ」


「誇り高き人狼は仲間を売ったりはしない!」


「あーあ、その返答がもう白状してるんだよなぁ」


「良い子にはベッドの上でご褒美だぁー!」


「よし、もういいぞ。うるさくなる前に猿ぐつわでもしておけ。それと、周囲にディルドミサイルを10発ほど展開して下に向けろ」


 アベルの言葉に従い、白騎士を取り囲むように巨大な気球がいくつも出現した。全ての先端が地表を向いている。


「さあ出てこい! 3分以内に出て来なければ、この付近一帯がテクノブレイクガスに飲み込まれるぞ!」


「3分間待ってやる! カラダもってくれよ、感度三千倍快王拳だぁー! 脳が溶ける快楽を味わいながら、穴という穴から全ての体液を吐き出してアヘ顔で死ぬぜぇー!?」


 ミサキが私の服の裾を強く掴んだ。

 大丈夫だ心配するなと、今度は私が笑って言ってやろうかな。


「私が出る。君はここにいろ」


 あー……やっぱり無理だ。恥ずかしい。


 これが最後の作戦会議だ。

 私はミサキに向き直ると、お互いの頰が擦れるほど顔を近づけてささやき声で話しかけた。これならアベルにも聞こえないはずだ。


「クレア様」


「勘違いするな、私だけ犠牲になるつもりはないぞ。最後まで聞け」


「……はい」


「奴がその気なら、とっくの昔に全員殺されてる。ハスキのように捕まるとは思うが、多分すぐには殺されないだろう」


「でも……」


「だから後で助けに来てくれ。アベルが寝た後が狙い目だ。それまでは人形に紛れて隠れるんだ。頼んだぞ、できるな?」


「……わかりました」


「無理はするなよ。もし逃げられそうなら君だけ先に逃げてもいい。私も後から何とかする」


「一人で逃げたりなんかしません。必ずクレア様を助けに行きます」


「ああ、期待しているぞ……っと」


 私は人形の覆面を捨て、両手を上げて木陰から飛び出した。


 やだなぁ……本当に死ぬまで犯されそう……。拷問されそうだったら舌でも噛み切ろうかな……。


「隠れていたのはお前だけか?」


「ああ、そうだ。私が人狼達に色々と入れ知恵した」


「セーラー服ぅ〜? お前ちょっとは自分の目つき考えた方がいいんじゃねえのかぁ〜? どこの世界にそんな殺気溢れる目のJKがいるんですかねぇー? ちょっとゾクゾクすんだよコラァ!」


 何を言ってるんだこいつは本当に。


「とりあえず、両手をあげたままこっちに来い」


 もういちいち反応する気も起きない。黙って奴に従い、ゆっくり歩いてハスキの隣に並んだ。


 ハスキと目が合ってしまった。彼女の泣きそうな顔が心に痛い。すまない。私が作戦を間違えなければ。


「もう一人、いただろう。元奴隷の幸薄そうな感じの娘が。どうなった」


「死んだ。冒険者と人狼の戦闘に巻き込まれた」


「オイオイオイオイ! 死んだじゃねぇだろがぁ! 美少女の死は世界的損失って常識を知らねえのかぁ!? もったいねぇことしてんじゃねぇよ! このクソビッチ!」


「クソビッチ?」


「うん、まぁそれはそれとして、実はお前に聞きたいことがある」


「なんだ」


「誰に雇われた」


「誰に……? 私は組合でお前達と同じ」


「猿でもわかる嘘をつくなよ」


「嘘じゃない」


「おい、そいつの両腕を捕まえろダッチワイフども。そんで俺が片手を上げる度にそいつの腹を一発殴れ。殺すなよ。子宮が破裂しないよう手加減しろ。それ」


 アベルが片手を上げると、人形の拳が私の腹にめり込んだ。痛みと衝撃で息が吸えなくなる。すぐに両腕も人形に掴まれて引き伸ばされた。


「おいおい、じゃあ何か? お前は、偶然人狼討伐クエに参加して、なぜか現地集合場所に行かず、たまたま先に人狼どもと会って、不思議と意気投合して、情報ナシでそこのケモミミ美少女が狙われていることを知って、天才的にも俺とスレイへの対策を練って、見ず知らずの俺たちを、こんな悲惨な目に会わせたってのか?ええ?」


「うっ、ぐっ、ぐっ、あっ……!」


 アベルが言葉を切って合図を出す度に、人形が私を殴りつける。息が吸えない。腹から脳に駆け上がる痛みが頭の中を支配する。殴られる度に顔が間抜けに歪んで情けない声が出た。

 くそう、痛い。痛いって。痛いんだよ!


「人狼なんかに肩入れした理由は? 困っている人を見捨てられませんでした、ってか? 違うよな? そういうのをやっていいのは、主人公の俺だけなんだよ」


「ぐっ……何が、聞きたい……」


「正直に答えろ。お前が受けた依頼は俺の暗殺だろう」


「……え?」


「え、じゃねえんだよ」


「ぐうっ!」


「5w1hで答えろ。いつ、どこで、だれに、なぜ、どうして雇われた。他の転生者か、それともその関係者か。こっちの世界で注射器やカメラを作って流通させている奴だったりするのか」


「……」


 どうする。どうしよう。適当に嘘を言ってごまかせるだろうか。こいつが求めていそうな答えをでっちあげられるか。


 ……無理だろうな。ミサキならともかく、私にそんな器用な事はできない。情けない。本当に私は未熟者だ。


「よし、こうしよう。今からお前を拷問する」


「ああ、やっぱりな……」


「体の先から少しずつ切り落とす。爪、指、耳、唇、鼻、目、あとは……乳首とか生殖器。この順番通りに削ぎ落とす。だが全部正直に話せば、許してやる」


「くっそぉ……」


 詰みだ。話せることなんてない。

 無能な師ですまなかった、ミサキ。丸投げで悪いが、頑張って生き延びてくれ。


「やべっ止めろ! 舌を噛み切らせるな!」


「ん!? んんっ……!」


「そのまま指を突っ込んでおけ! ……マジかこいつ。正直に話せば許すって言ってんのに……。死んでも依頼主は売らないつもりかよ。見た目通りに気骨があるじゃねえか。リョナとかこっちもお断りだし……こうなったら次は洗脳スキルでも取得してみるか」


「お前は今日から俺の姉で誇り高き女騎士だーっ! 普段は厳しいけど、ふとした瞬間に見せる優しい顏に甘えさせてもらうぞーっ!」


「いちいちうるっせぇんだよぉテメェもよぉ! 自分の頭の中の声なんて聞きたくねえんだよ! もう用済みだがらいい加減黙れやカスが!」


「んん……ん?」


 口に突っ込まれた人形の指を噛み切ろうともがいているうちに、アベルの背後で倒れている誰かに気づいた。


 スレイだ。遠目からは草で隠れて見えなかったが、裸も同然の酷い格好で、血と泥と……おそらくはアレで無残に汚れている。赤く腫れ上がり、歯型のつけられた乳房が見るに耐えなかった。


 よく見ると汚れた布切れが側に置かれていた。あれはアベルのシャツだ。アベルが屈んでいたのは、自分のシャツでスレイを拭いていたからなのか。

 どうやら意識は無いようだが……。


「モブキャラのくせに、やってくれたよなぁ、本当によぉ……。これでスレイの人生は台無しだ。こんなに凹んだのは、初めての告白で黒板にラブレターが貼り出されて以来だぜ」


「……」


「だが結局、勝ったのは俺だ。凡人がなぁ、いくら工夫や努力したところで、たかが知れてるんだよ。たとえチート能力を使わなくても、俺がお前ら一般ピーポーに負けるはずがねえんだ。聞いてんのか、おい」


「くぅっ!」


「わかるか?神さまは一部の選ばれた人間にしか祝福を与えねぇんだ。才能、血統、富に権力、そして容姿、容姿! 容姿! 容姿ぃ! 何も持ってない人間はなぁ! 誰からも愛されねえし、一生幸せになる権利なんてねぇんだよ!」




「そんなことありません!」


 アベルが硬直した。

 黒い修道服が私の後ろから飛び出して、一直線にアベルに突っ込んでいく。私も息が止まった。


 ああああ! ミサキだ!

 あのバカ! 隠れてろって言ったのに! 何やってんだ! 死ぬ、死ぬ! バカ、バカバカバカ! やめろやめろとまれとまれとまれってばああああ!


「んんんんーっ!」


 無様にもがく私の目の前で、ミサキはアベルに両腕を広げて飛び込んだ。

 アベルは棒立ちのままその場から動かず、ミサキの突進を呆然と見ている。

 何やってんだ避けろ、避けれるだろ! 避けろよお前!

 私の願いも虚しく、ミサキとアベルの体が重なった。


 ああ、あああ、あああああーっ!


「うおおおおおおおおっ!?」


 アベルの口から驚愕の声が飛ぶ。

 ミサキは死ななかった。頭からアベルの胸に衝突し、その勢いのままにアベルを地面に押し倒した。

 ミサキは死ななかったようだ。


 ………っ、はぁぁぁ〜ぁ。

 予想していた惨劇は起こらなかったが、私の手足から力が抜けていく。今ので確実に寿命が縮んだ。


「あっっぶねえええええ! お前! 今俺が領域解除しなかったら死んでたからな!?」


「その節はどうもありがとうございます!」


 ミサキはアベルを押し倒したまま離れない。

 顔や肩を押されながらもアベルの腰に懸命にしがみついて、引き剥がされまいと抵抗している。


「ありがとうございますじゃねえんだよ! 何考えてんだ!? 俺の能力知ってるだろ!」


「聞いてください! 私は両親に売り飛ばされて奴隷になりました!」


「自分語りなんかに興味ねえんだよ! 邪魔だ離せ! 黙ってそこをどけ!」


 ……ん!?


「奴隷になってからも要領が悪くて! 誰からも見向きされませんでした! 教育が怖くて手が震えて、みんなができていることができなくて! 処分品コーナーに置かれて! 檻の中で殺処分を待つだけの日々が続きました! 何も持っていない人間が幸せになる権利がないということは! 誰よりもよく私がわかっています!」


「反論になってねえじゃねえか! 消えろ!」


 これは……まさか、そういう事なのか?


「でも、殺処分まであと一日というところで! クレア様が私を買い取って冒険者にしてくれました! 私に価値があったからじゃありません! そうしなければ私が死ぬから! 殺されるから! クレア様に一欠片の得もないのに、初対面の私を助けるためだけに全財産を使ってくれたんです! 私を救ってくれたのは神さまじゃありません! クレア様です!」


「救われてねえじゃねえか! 奴隷の次はいつ死ぬか分からない冒険者だろぉ! 実際こんなキモい地獄絵図に連れ込まれてんだろうが!」


 手は動く、足も立てる。武器はないけど、体は動く。

 今なら……今なら!


「違います! ワガママを言ってクレア様をこんなことに巻き込んだのは私です! クレア様は私を連れて逃げようとしてくれました!」


「クレア様クレア様ってうるせえんだよ! 負けて捕まった雑魚に、何の幻想を抱いてんだ! まさかこの状況から俺に勝てるとでも思ってんじゃねえだろうな? できるもんならやってみろやコラァ!」




「そうか、じゃあリクエストに応えてやる」


「あ?」


 踵に体重を乗せ、思い切りアベルの顔を踏み抜いた。鼻が折れた感触が足の裏に伝わる。


「ぶっはあああああああ!?」


「クレア様!?」


 間髪入れずに胸の上に乗り、上半身を押さえつけた。

 そして殴る。殴る。殴る。ひたすら顔を殴りつける。

 手でガードされても多少反撃されても関係ない。一方的に体重を乗せて殴れるこっちが圧倒的に有利だ。


「口は! 開かない! 方が! いいぞっ! 舌を! 噛み切る! からなっ!」


「ごっ、ごのっ!」


「ありがとう! そこをどけ! 離れろ! あいつらに命令してくれて! おかげで! 自由に! なれた!」


「はあぁぁ!?」


「手加減を! してくれて! ありがとう! おかげで! こうして! お前を! ボコれるくらいの! 体力はある!」


「うぶっ! ああああ! ぐぞっ! ばはぁっ!」


「巨人も! 静かになったな! 黙らせなければ! お前に! 警告くらい! 出せたのにな! いや無理か! 巨人も! 人形も! お前に命令されなくちゃ! 何も動かないんだったな! まさしく! 人形だ!」


「ぐぞっだれがあああああ!!」


「従順で! 言われた通りに動き! 何でも思い通りになる奴隷がいて! よかったな! 王様!」


 集中させるか! 話させるか! 何もさせてやるものか! 人形を呼び戻せないように! 巨人を動かせないように! 殴りながら思考を誘導してやる!


「どうした! 例のアレ! 使わないのか! 使えないんだろ! 使っても意味ないんだろ! 今分かったぞ! スレイにも! お前の服にも! 地面にも空気にも効かない理由が! それを発動した時点で! お前が! 触れていたものとか! お前の近くにあるものには! 効果がないんだ! そうだろ! ええ!? そうなんだろ!」


「ぶふっ、ゴホッ、ゴボッ、ぷふううっ」


「鼻血が! 喉に! 入ってきたな! もう! 話すどころか! 息も! 吸えないか! 死ね! さぁ! 死ね!」


「クレア様! そろそろ止めないと死んじゃいます!」


「殺すんだよ! ここで! 息の根を止めないと! 今度こそ! 私達が殺されるぞ!」


「聞きたいことがあるんです!」


「殺してから聞け!」


「アベルさんは私を守ってくれました!」


「守ったって、どこがぁ!?」


 思わず手が止まってしまった。ミサキが腰に抱きついてくる。ああもう! こいつどっちの味方なんだ!


「だから私が飛びついた時に、絶対領域を解除してくれたんです!」


「はぁ!?」


「…… …」


「そうですよね、アベルさん?」


「ゴボッ、ふぅーっ、ふぅーっ……ああっ、クソ! だったら、ゴホッ、なんだってんだ……」


「どうしてですか? あのまま解除しなければ、今頃私は……」


「当たり前……だろ、俺ァ主人公だぞボケが……! 素手の、それも、可哀想な奴隷の、女の子を殺せるか……ゲホッ、リョナとか陵辱とか調教とか、人間の、ジャンルじゃねえんだよ……ふぅー……ッ……」


「でも私の体当たりくらいなら、簡単に避けられたのでは?」


「ああ……? くそ、迷っちまったんだよ、悪いかボケ。女の子に抱きつかれるなんて……くそっ、俺はブサイクで気持ち悪いから、避けられて嫌われて嫌がられてばっかりだったからよぉ……。告白した女の子も何人か泣き出したなぁ……。俺に寄ってくるメスは蚊だけってか? 何でだ……俺はただ、みんながやってるような当たり前の人生と、ささやかな幸せが欲しかっただけなのに……」


「アベルさん……」


「絶望して自殺して、天文学的な確率で女神から無敵の能力を貰って転生してよぉ……。理想的なヒロインも見つけて、これからって時だったのに……たった一日で何もかも台無しとか、こんなのアリかよ……」


「でも……」


「もういい、殺せよ。捨てゲーだ捨てゲー。何もかも馬鹿らしいわ。ナイフか何か持ってんだろ。一思いにやれよ。……それでまたリセットだ」


「リセットって」


「どうせ、この人生はもうお終いだ。最高のヒロインだったスレイは中古。どこかの誰かに雇われたヒットマンには対策を練られてあっさり負け。ついでに鼻も歯も折れたし、寿命も半分だ。こんな壊れた人生のどこに生きる価値があるってんだ」


「だからって……」


「それにしても、これだけブースト積んでも幸せになれねえのかよ。生まれてくること自体が間違ってんじゃねえのか? 前世の嫌な記憶は消えやしねえし、転生なんてするもんじゃねえな。やっぱブッダって神だわ。次は生まれ変わらずにそのまま消滅してえ」


 愚痴に泣き言に自分語り。

 こんなものなのか、無敵の英雄も。たった一回や二回負けただけで、こんな簡単に腐って、人生を投げ出すものなのか。


 私はあらためてアベルの顔を見た。頰も瞼も紫色に腫れ上がり、鼻は潰れ、歯も折れ唇も裂けている。

 酷い顔だ。私がやった。私が。


 私は熱が冷めていく感覚を覚えた。

 私の心の底の灰の中で燻り続けていた英雄への憧れと嫉妬の火が、消えていく。


 ゥッ……ウゥッッ、ゥッ、ック……ゥゥ、ゥ……。


 耳を澄ませば微かな嗚咽が聞こえていた。声を抑えて泣いている者がいる。

 アベルではない。もちろん、私でもミサキでもハスキでもない。声の主は一人しかいなかった。


 私は立ち上がり、アベルの上からどいた。ミサキも立って私の側に並ぶ。ハスキは無言で私達を見ている。

 私はアベルを見下ろした。アベルは私を見ていなかった。ふてくされて、どこか遠くを見ていた。


 お前が今見ているのは何だよ。さっき口にした自分の過去か、それとも思い描いていた理想の未来か。あるいは次の人生とやらか。


 違うだろ……。今お前が一番向き合わないといけないのは、そんなんじゃないだろ。憂さ晴らしに暴れ回った次は自分の愚痴ばっかり垂れ流しやがって。本物の英雄なんだろ、お前。神様に選ばれた特別な存在じゃなかったのかよ。


 もっとちゃんとやれよ……。


「お前の泣き言に興味はないし、説教する気も励ます気も謝る気もない。私はお前の敵だからな」


「期待してねえよ。いいからさっさと殺せ」


「ただ、もう一度言ってみろ」


「ああ?」


「お前が中古呼ばわりした恋人の顔を見て、同じ言葉を吐いてみろ」


「恋人……?」


 私が指差した先で、横たわる華奢な背中が震えていた。こちらに背を向けているのは、アベルに顔を見られたくないからだろう。

 呼吸音に混ざって漏れる嗚咽が痛々しかった。


「……あ」


 アベルはしばらく呆然としていたが、やがてゆっくりと動き始めた。

 産まれたての子牛のように、無様に震える手足を動かしてスレイに這い寄っていく。


 言葉が出てこなかったのだろう。アベルはスレイの肩に無言で手をかけた。スレイの汚れた背中が一際大きく震えた。

 そして拒絶するようにアベルの手が払いのけられる。アベルが再びスレイの肩に手を添える。それもまた払われた。


 アベルは今度は諦めなかった。拒絶するスレイの手を掴み、スレイが抵抗を止めるまで握り続けた。


「ごめん、ごめんな、スレイ」「本心じゃないんだ、信じてくれ」「優柔不断で一人じゃ何も決められない俺にとって、お前だけが全てなんだ。本当だ」「気がついてくれてよかった。あのままもう二度と起きないんじゃないかと怖かったんだ」「俺が、俺が悪いんだ。侮辱してごめん」「許してくれ。何でもする。本当に何でもするから」


 恥も外聞もない謝罪と言い訳の言葉が、次から次へと飛び出し並べ立てられていく。

 それはとても見苦しくて、みっともなかった。

 だけど、その行為は第三者が馬鹿にしていいものではない。どれだけ情けなくても、必死に何かをしている人を笑っていい道理があるものか。


 もういい、もう十分だ。こんな事は今すぐ終わりにするべきなんだ。


 ……帰ろう。私が彼らに背を向けると、ミサキとハスキも私に倣った。


 アベルの謝罪は、私達にその声が聞こえなくなるまでずっと続いていた。

 彼らは神に選ばれた無敵の英雄ではなかった。

 彼らは傷つき弱った人間だった。




 私と同じ、ただの人間だった。




 いつの間にか、夜が明けようとしていた。

 淡い瑠璃色の光の中を無言で歩く。

 狂宴の祭りは終わった。空を覆っていた桃色の雲は消えた。荒ぶる巨人もいない。血に濡れた怪鳥達もどこかへ飛び去って行った。抜け殻のようになった動かぬ人形の合間を縫い、三人で並んで歩く。


 散々殴られた腹よりも、殴り続けた手がすごく痛む。あいつ、本当に手加減させてくれていたんだな。

 それに比べて私は全力で殴ってしまった。


 血と泥に汚れた手を目の前にかざしてみると、アベルの折れた歯が何本か刺さっていた。

 一本一本引き抜く度に、手の傷が開き血が滲む。この様子だと、骨にヒビも入っているかもしれない。

 痛いなぁ。とても、痛い。


 ただただ、虚しかった。

 勝利の喜びや爽快感なんてどこにもない。私はいろんなものを壊して傷つけた。

 誰が勝ち、誰が負けて、私は何を手にしたのだろう。

 勝利者なんているのだろうか。

 誰も彼もが、敗者のように思えた。


「あの二人、また仲良くなれるでしょうか……」


 沈黙に耐えかねたミサキが口を開いた。


「さあな、当事者の問題だ。ただ……そうであってほしいとは思う」


「あの二人ならきっと大丈夫ですよね……」


「ハスキはどうだ。仲間の仇を見逃してよかったのか?」


「ああ。お前が仕留めたお前の獲物をどうするかは、お前の自由だ。何も口を出すつもりはない」


「そうか……ところでミサキ。あの時死ぬつもりだっただろ」


「アベルさんの言動なら、きっと女性は殺さないと考えましたが……クレア様の代わりになれるなら、死んでしまってもいいとは……思いました」


「死んで恩を返されても迷惑だ。二度とやるなよ、この馬鹿」


 手……は痛いので、肘で隣のミサキの頭を小突いた。

 するとミサキは無言で頭を抱え、足を止めてしまった。


「うっ、うううう〜〜!」


 ミサキが泣き出してしまった。顔が歪み、涙と鼻水が溢れ始める。

 えっ、嘘。なんで!? そんなに強く殴った、私!?


「わだじ、わだじがっ! どんな、どんなにっ! ごわがっだがっ! ごわがっだ、ごわがっだのにっ! 頑張ったのにっ!」


「あー……そっか。うん、まぁ、君も死ぬかもしれなかったしな……怖かったよな……うん」


 もしかして、今のは叱る所じゃなかったのかな……。

 いやでも、だからってそんなに泣くなよ、子供じゃあるまいし……。


「そっぢじゃありまぜん!」


「えっ?」


「クレア様が死ぬことが、どれだけ怖かっだと思っているんですかああああ!」


 ……そっか。そうだよな。


 私も散々怖い目にあった。

 巨人は暴れるし、気持ち悪い人形は降ってくるし、目玉の化け物には囲まれるし、捕まって拷問されて殺されるかと思った。


 だけど一番怖かったのは、ミサキがアベルに突っ込んで行った時だった。

 私は何も覚悟なんて出来てなかった。

 ミサキが目の前で死ぬ姿を見せつけられそうになって始めて、遅まきながらようやくその恐怖が分かった。


 私はそれを先に、ミサキに押し付けていたんだ。

 親しい人を失う痛みは、知っているはずなのに。


「うっ……ひっく、ううっ、ううう〜……」


 ……そうだ、褒めてやらないと。

 今日は何度ミサキに助けられたか分からない。


「ありがとう、ミサキ。本当に君には助けられたよ」


 手は痛かったけど、ミサキの頭を撫でた。

 しばらく撫でていると、ミサキは大分落ち着きを取り戻してきたようだ。

 涙と鼻水で汚れた顔を袖で拭って、私を見上げてきた。


  「だから、だからクレア様も……」


「私が、どうした?」


「だからクレア様も、死んでいい場所を探すような生き方はやめてください。そんな方法で英雄なんかになられても、私は全然嬉しくないです……!」


 心臓が止まるかと思った。

 見抜かれていた。


「……なんで」


「クレア様を見ていれば、それくらいわかります」


「うそ……」


「それに、そんなことしなくても、クレア様は私にとって世界一の英雄ですよ」


 ……また君は、そんな顔で笑う。




 私はミサキの何を見ていたんだろう。


 馬鹿で子供なのは、私の方だった。

 ミサキが味方をしていたのは、人狼の群れでもハスキでもアベルでもない。


 私だった。

 ミサキはずっと私を助けようとしていた。


 人狼の群れを私に救わせようとした。

 劣等感の強いハスキに、私から誇りを与えさせようとした。

 現れた本物の英雄を私に倒させようとした。

 私が人を殺そうとすれば、必死で止めた。

 私が死のうとすれば、先に犠牲になろうとさえした。


 ミサキは私を英雄にしてくれようとしていたんだ。

 幼稚な英雄願望に囚われ続けていた、こんな私を。


 臆病で従順。

 それはかつてミサキに貼られていた商品説明だ。

 事実その通りだったのだろう。

 ミサキはどうしようもなく臆病で、言われた通りに動くだけの、都合のいい奴隷だったのだろう。


 だが、それは表面だけに貼られたレッテルだ。

 ミサキはあの人形達とは違う。臆病でありながらも、誰かのためなら勇気を振り絞り、自分で考えて動く事が出来る人間だ。

 そして、命を削るように絞り出されたその一雫の勇気も知恵も全て、他の誰でもない……私のために使われていたんだ。


 恥ずかしい。本当に、私は自分が恥ずかしい。

 ミサキの方がよっぽど私を見ていた。私を立てて、私の事を考えてくれていた。

 それに比べて私はいつまで経っても自分の事ばかりで、子供で、半人前で、とても弟子なんて取れる立場じゃない。

 本当に、私は何にもできない、本当にダメな先生だ。


 今度は私が泣きそうだった。




 ウォーォォーーー……オォー……ォー……。


 ハスキの遠吠えが明け方の空に消えていく。

 勝利を知らせる凱旋のラッパにしては、やけに物悲しかった。

 少しの間を置いて遠吠えが返ってきた。

 よかった、人狼達は生き延びてくれていた。


 遠吠えに向かい歩き続けると、やがて20名にも満たない満身創痍の人狼達と合流できた。なぜかゼノファビアンも何匹か一緒にいる。

 だが、人狼の子供は一人もいない。

 あんなに可愛かったのに、一人も生き残らなかったんだ。すまない、私の力不足だ。もっといい方法があったかもしれないのに。すまない。


 シバ、レトリバ、ドーベル、ジャック。人狼達の中に印象深い四人の顔を見つけ、決して少なくない安堵を覚えた。彼らも傷ついていたが、私の無事を喜んでくれた。


 その笑顔に、どうしようもなく罪悪感が疼く。


「結局、私は全員を不幸にしてしまった。すまない」


「え?」


「いつもこうなんだ。派手に敵をやっつけることも、全員を助けることもできやしない。せいぜい小賢しく立ち回ることができるくらいで、今回は人狼も冒険者も多くが死んだ。英雄の人生もメチャクチャにしてしまった。私は疫病神だ。良かれと思ってやった事が裏目に出て、何をしても必ず周りを不幸にするんだ」


「クレア様……」


「お前、勝ったのに全然笑わないと思っていたら、そんなこと考えてたのか!?」


「ふうむ」


「ハスキ姉ちゃん、今のどういう意味?」


「さあな! じいちゃん、この根暗にちょっと何か言ってやれ!」


「いやはや、どうにもクレアさんは欲張りのようですね」


「欲張り? 私が?」


「ええ、クレアさんは本当はあの二人も含め、全員を救いたかったのでしょう?」


「は? いや、そんなことは…」


 ない、とは言い切れなかった。


「最初に謝りましたね。それは誰に対してですか? 自分が助けてあげられなかった相手にでしょう。助けることができた相手に謝る理由はありませんからね」


「それは、そう、なのかな……」


「極端な例ですが、今夜の出来事で十人のうち九人が死に、一人があなた方のおかげで助かったとしましょう。あなたはどう思いますか。九人を見殺しにしてしまったと考えていませんか」


「だったらなんだよ」


「もしそうなら、それは大きな間違いです。九人を助けられなかったのではありません。一人、なんと一人を、一つの命を助けることができたのです。胸を張ってください。これは他の誰にもできない、実に素晴らしい偉業です」


「偉業なんかじゃない。ただの自己満足だ……」


「そして、私たちがその一人です。本来ならば、全員殺されていたはずの生き残りです。もっと自信を持ってください。あなたが私たちと出会ってくれなければ、私たちの群れは確実に滅んでいました」


「オレは捕まって、人間の子を産まされ続けていたかもしれないぞ!」


「私なんて殺処分でした!」


「忌々しい冒険者どもの匂いもまだ生きてるね」


「僕はね! 僕はね! えーっと、すごく怖かったよ!」


「おじさんは殴られなかったけどなぁ」


「う、その、あの時は悪かった……」


「あんた! 余計なこと言うんじゃないよ!」


 ジャックのハゲ頭が叩かれ、いい音が鳴った。他の皆がそれを見て笑った。


 レトリバの言い分は正しいのだろうか。少しだけ目を閉じて、記憶の中の光景を思い出してみよう。


 救いを求めて檻から手を突き出す奴隷達の叫びを。


 毒に冒され死にたくないと泣く仲間を見捨てて、無力に逃げる事しか出来なかった人狼達の呻きを。


 無敵の英雄だと思っていたアベルとスレイの、傷つき震えるあの小さな背中を。


 私が何もしなくても不幸になっていた者もいれば、私が不幸にしてしまった者もいる。彼らの事を無視して胸を張ることなんて、私にはできそうもない。


「無理だ……私は、そう簡単に割り切る事はできない」


「そうですか」


「だからその、なんだ……えっと」


「おや?」


「だから次は……もっと上手くやろうと、思う」


「クレア様!」


「フフフ、クレアさんは本当に欲張りで、とても人間らしいですね」


「だけど暗すぎるぞ! 勝ったんだからもっと笑え!」


「そうですよクレア様! 笑って笑って!」


「ひゃめろ! ほおをひっひゃるな! ひたいって!」


「そうだぞ! 誇り高き人狼は、辛い事があっても笑って生きるんだ!」


「わたひはひんろーひゃない! ほれとはすき! ほまえのひからでひっひゃるな! ひぎれる!」


 突然、フラッシュが光った。ジャックがカメラを持って満面の笑みを浮かべている。


「いやあ、あんまりいい顔をするもんだからね」


「おい! 勝手に撮るな! 写真は嫌いなんだ!」


「そうですよ! もう一枚お願いします!」


「なんで!?」


「じいちゃん! シバも! こっちこっち!」


「いいですね。あ、もう少し詰めてくださいますか」


「狭い! 狭いって! このクソジジイ! お前が混ざると誰も映らなくなるだろ!」


「なんだ、アンタも映りたいんじゃないか」


「違う! 断じて違う! あとドーベル、お前そんなボロボロの姿でいいのか!?」


「なーに、名誉の負傷さね。これくらいすぐ治るよ」


「クレア姉ちゃん、怪我してるの? お腹痛くない?」


「痛いよ! だから鼻先を突っ込むな!」


「他の方々も一緒にどうぞ! 全員で撮りましょう!」


「ああもう! うっとおしいから集まってくるなよ!」


「キシャアアアアアア!」


「いやいやいや、お前らまで来るのかよ!?」


「その服も、すごく似合ってますよ!」


「待て待て! せめて着替えさせてくれ!」




 壊れた人生に生きる価値はない。

 幸せになれるのは神に選ばれた者だけだ。


 そう言っていたアベルの主張は決して的外れじゃない。人生は百点満点どころか、突然何もかも失う時がある。


 それは決して特別な事ではない。アベルのような超常の力を持つ英雄でも、私のような凡人でも、生きている限り必ずいつかは絶望と対峙しなくてはならない時が来る。


 そしてその時が過ぎ去っても、やり直しや修復することなんてできない。忘れ去りでもしない限り、悲惨な記憶はいつまでも心を蝕み続けるだろう。


 だから大切なのは、そこからどうやって壊れた人生と向き合い生きていくか、という事だと思う。


 傷ついた人生を歩まなければならないのは、アベルとスレイだけじゃない。

 ミサキは奴隷になって凄惨な記憶を植え付けられた。ハスキはたりない子として生まれ、本人の意思に関わらず多くの不幸を呼び寄せた。人狼達は多くの仲間と住処を失った。

 私だって、もうかなり昔に子供を産めない体にされている。


 だけど今この瞬間。彼らは笑っている。笑えている。

 どんなに辛い事や悲しい事があっても、時折こうして笑い合える時間があるから誰もが生きていけるのだろう。


 頰の痛みが心地良い。


 いつか私も笑える日が来るだろうか。

 無理やり頰を引っ張られなくても、心の底から自然に笑える日が来るだろうか。


 それなら、英雄になれなくたっていい。

 無敵の強さも輝かしい冒険譚もいらない。

 ただその日が来る事を信じて生きていこう。


 そう、たとえ……。











 たとえ神に選ばれなくても。
















 完。

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