第12話。バケモノを倒すのは、いつだって

 前後左右から赤い刃が同時に迫る。

 でも後ろのやつ以外は偽物だ。オレは速度を緩めることなく真っ直ぐ飛び込んだ。

 真っ直ぐ突き出された刃がオレの右目いっぱいに映る。構わず突っ込む。

 オレの右目に刃が入って根本まで埋まった。

 だが痛みはない、幻だ。オレはそのまま前進し、刀もその持ち主もすり抜けた。


 いつの間にか、あの女が増えた。前から横から突然現れてオレに斬りかかってくる。

 どうやっているのかは知らないが、全部偽物だ。オレの目はごまかせても、お前の動きは鼻と耳が教えてくれる。

 今、後ろで息を吸って止めた。何かやるんだな。

 目の前の木を蹴って思い切り右に飛んだ。今蹴ったばかりの木がオレの後ろでへし折れる音がした。


「ああもう! ゴチャゴチャと逃げ回って狙いにくい! 敵を殺さない必殺技も覚えておくべきだったわ!」


 敵は苛立っていた。

 クレアとミサキの言っていた通りだ。他の人狼よりずっと小さいオレは敵の攻撃を避けやすいし目立たない。ミサキから借りてきた泥と草まみれのこの服が、更にオレの姿を森に溶け込ませる。

 月の光だけが頼りの夜の森で、オレが本気で逃げればあの女は追いつけないだろう。


 でもそれじゃだめだ。オレはあいつに勝ちたい。

 だからあの女が追いつけるように、わざと姿を見せながら逃げてやる。


 足の下に土とは違う感触。細かい砂利石だ。

 手のひらいっぱいに拾った。反対の手で大きめの石も拾った。先に大きめの石を手加減して投げつけた。軽く振られた刀で簡単に弾かれた。

 すぐに砂利石を全力で投げつけた。女は同じように弾こうとして判断ミスを悟った。両腕を上げて顔に飛んで来た石飛礫だけをかろうじて防いだ。

 ぱあんと大きな音がした。何十個もの小石が女の肌に食い込んだ。女が悲鳴を上げた。痛いだろう、オレの力で投げつければ木にも穴が空くんだぞ。

 ズタズタになった服の下から血の匂いが溢れ始めた。女が顔の前に腕を上げている隙にオレは突っ込んだ。


 ダメだ、止まれ! 奴の目がオレを見ている! 腕の隙間からオレを見ている! 罠だ!

 両手両足で踏ん張って、地面を抉りながら左へ飛んだ! 風がオレの側を通り過ぎる! 後ろで木がへし折れる音! オレは勢いを殺しきれない! 滑って転んだ! でもあの女の匂いがすぐ背後にある! とりあえず飛べ!


「ぐうううっ!」


 脇腹に衝撃と痛みが走った。オレの体は空中をぐるぐると飛んで木に頭からぶつかって落下した。

 ほんのちょっとの痛みに情けない声が出てしまった。だが恥じるのは後だ! 敵が来るぞ! 立て! 立て! 今こそ人狼の誇りが試される時だ!


 奴はすぐ目の前にいる! 握った土を投げつけた! 女は今度は刀で弾こうとしない! 大きく横に飛んで避けた! 引っかかったな、今度は石じゃないぞ!

 その隙に敵と反対側に飛んだ! 木の後ろに回って敵の視界から隠れる! その一瞬の間にジャンプして木に飛び乗った! 幹を蹴って更に上へ! 別の木へ!


 木の上から奴を見下ろす。

 奴はオレを見失っていた。だが闇雲に動きはしない。奴はオレが見ていることを知っている。逃げていないことを知っている。オレもあいつも戦士だからだ。


 奴は刀を地面に突き刺した。その場を中心に赤い波紋が草木を撫でながら丸く広がった。血の匂いが満ち、雨のような音がする。

 奴と同じ顔、同じ体、同じ服、同じ武器、同じ傷の偽物が次々と奴の体から抜け出してきた。偽物たちはちょっと歩いて互いに距離を取った。またそれか。


 それでオレの攻撃を避けられると思っているのか。

 全部見ていたぞ。真ん中の刀は地面に刺さってから一度も抜かれていない。それを握るお前が本物に決まっている。


 だが念のため先にこれだ。

 オレは音を立てないように枝から枝へ移動し、手のひら大の実をもいだ。狙いを絞り、一番端っこにいる奴の足元へ投げつけた。

 オレが見たいのは偽物達の反応だ。


 実が地面にぶつかった。中身が飛び散る音がした。

 よし! 確信を得たオレは木上から真ん中の敵を目掛けて飛び込む。

 今、真ん中のお前だけが音に反応したな!


「なにっ!?」


 だがオレの爪は敵の体をすり抜けた! なぜだ!?

 飛び降りた勢いのままに地面に激突してしまった! 大した痛みはない! だがこの体勢はだめだ! 顔を上げろ! 体を起こせ! 偽物達の顔が全部こっちを向いている! 笑っている! 目はダメだ、鼻と耳を使え! 右だ!


「うおおっ!」


 オレはあえて敵に駆け出した! ほぼ同時に全身を何かに殴りつけられた! だが耐えられる! 手数が多い分、一発の威力は低いからだ! 1歩目と2歩目はただ耐えた!

 でも3歩目で気づいた! こいつ、オレと同じ速さで下がりながら攻撃している!

 奴の手の動きが見えない! 避けられない! 奴の腰に下げていた刀の入れ物がない! オレを殴っているのはそれだな! ならこうだ!


 オレは後ろに飛んだ! 奴の間合いから離れたが、敵はまたすぐ距離を詰めてくる!

 だがオレの狙いはこっちだ! 地面に刺さったままの赤い刀! オレを釣るためのエサだろう!

 なら、ありがたく貰ってやる!


「簡単に渡すと思った?」


 刀はオレのすぐ隣にあるのに掴めない! 手を伸ばす度に腕が滅多打ちにされて弾かれるからだ!


 じゃあそこに意識を集中させているんだな!

 オレは足の甲で地面をすくって砂利石を蹴り上げた! 敵はそれを切り払うために一瞬攻撃の手を止める!

 その隙にオレは前進して奴の両肩を掴み、腹を思い切り膝で蹴り上げた!


「くっ……!」


 確かな手ごたえがあった! 奴の体は折れ曲り、苦痛の声が漏れた!

 だが致命傷じゃない! 奴は左手を腹に割り込ませてオレの膝を防いでいた!

 よし! このまま奴にしがみついて噛み付けば刀は使えまい! 一息に首を「かかったわね」


 オレの眉間めがけて赤い刃が横薙ぎに迫ってきた! なぜだ!? 奴の両肩は抑えているのに!


「うわわっ!?」


 反射的に奴の肩から手を離し、曲げた膝を伸ばすように奴を蹴り飛ばした! 地面と平行に奴が吹き飛ぶ!

 奴はいつのまにか手にしていた刀を地面に突き刺した! 派手な音を鳴らして地面をガリガリと削ぎながら勢いを殺していく!


「……くそう!」


 迫っていた刃がオレの顔に突き刺さったが無視した。

 それはオレを通り抜けて消えた。偽物だ。騙された。

 追撃はできなかった。敵が地面から刀を引き抜き、悠然と立った。オレと奴は睨み合った。


 騙されたし体も痛むけど、そんなことは気にもならない。オレはこんなに強い奴と互角に戦えるんだ!


「悪かったわ」


「何を謝るんだ」


「正直言って、私は完全にあなたを舐めてた。他の人狼と同じように、力任せに噛み付いてくる化物だとばかり思い込んでいたわ」


「それではお前に勝てない。オレは他の人狼よりも力が弱いからだ。お前こそ急に大人しくなったが、もう技名を叫んだりしないのか」


「だってアピールしたい相手がいないもの。それと、私があなたを殺せないから手加減せざるを得ないことも計算して戦っているわね」


「そうだ。お前たちがオレを捕まえたいのなら、オレの首を刎ねることはできないだろう」


「咄嗟の機転にも優れているわ。これは経験かしら。今まで命がけの戦いをしたことは?」


「ない。お前が最強の敵だ」


「なら天性のカンかしら。走る、隠れる、掴む、投げる、登る、騙す、跳ねる、調べる、見る、聞く、嗅ぐ…この短い間に色々見せてくれたじゃない。人と狼の両方の特性を活かした戦い方ができるなんて、尊敬するわ」


「息を整えるための時間稼ぎなら無駄だぞ。人狼の回復力は人間よりずっとずっとすごいんだ。痛みも傷もお前よりずっと早く治るオレの方が有利だ」


「そのようね。手応えはあるのに、打撃じゃあんまり有効打にならないみたい。切った相手を麻痺させるはずのこの刀も、なぜか人狼にはイマイチ効果がないみたいだし」


「いったい何がしたい」


「あなたに敬意を払いたいのよ。私、自分が凄いと思った相手には敵でも素直に敬意を伝えることにしているの」


「敬意だって?」


「図体がでかいだけの脳筋だったら、とっくの昔に仕留めているわ。私から逃げ回るだけの臆病者だったら、無防備な背中をいくらでも叩きのめしてた。他の人狼より小さくて力が弱くても、それを補って余りある能力があなたにはあるわ。きっと、他の人狼に負けないように努力し続けてきたのね」


「だから何だ」


「だから認めてあげる。あなたは本当に強い。この群れの中で間違いなく最強の人狼よ。誇りなさい」


「敵のくせに変なことを言うヤツだ」


「だから私も持っているもの全てで戦うわ。今から私は剣士として戦うことをやめる」


 奴の刀が震え始めた。刀から吐き出された不気味な赤い霧が奴の体をうっすらと覆う。すごい血の匂いだ。それも単独の生き物の匂いじゃない。色んな生き物の信じられないほど多くの血が混ざり合った匂いだ。


「本当はこんな危険な力、使いたくなかったの。武器に頼りきりにならず、私は私の実力で戦いたかった。だから色んな技を覚えたのだけど……アベルの側に立ちたいのなら、こんな所で足踏みしていられないの」


 奴は近くの木を刀で軽く斬りつけた。木の幹に赤い傷が走った。最初は真っ直ぐだった傷がぐねぐねと波打った。そして傷が開いた。


「この刀はね、生きているの。そして大食いで、いくらでも血を飲み込むの。でも、飲むだけじゃないわ」


 傷じゃない! 開いたのは目だ! 真っ赤な大目玉が木の腹に現れた! 目玉はオレを見ている! なんだこれ!? 気持ち悪い!


「逆に血を分け与えた相手を自分の眷属に変えて操ってしまうの。こんな風にね」


 目玉から血管が走った! メキメキと音を立てて木の中を縦横無尽に侵食していく! 木が頭を前後に振り始めた! 土を突き破って根っこが持ち上がった! 目玉の下が大きく裂けた! 木の中は真っ赤だ! しかも立派な牙がびっしりと並んでいる! なんてことだ! 口まで生えてきた!


 あの木はもう死んだんだ!

 そして違う何かに変わろうとしている!


「じゃあ第2ラウンド、始めましょうか。今からこの森の支配者は私よ」


 豪雨のような音を出して真っ赤な葉っぱが次々と降り注いだ! どれもこれも先端をオレへ向けて真っ直ぐ飛んでくる!

 赤い雨に飲まれて他の木の枝が細切れになった! ただの葉っぱじゃない!


 オレは横っ飛びに逃げた! だが葉っぱも空中で向きを変えてオレを狙ってくる! よく見ると葉っぱの尻からあり得ない量の血が噴き出していた! あれで飛ぶ方向を変えているんだな!

 固まって飛んでいた葉っぱが、一斉に違う方向に散らばり始めた! まずい、逃げ場がない!


 背中と足に鋭い痛み! 葉っぱが3枚ほど刺さったか! 次の葉っぱが飛んでくる前に、足に刺さった葉っぱを走りながら引きちぎった! くそう! こいつにも目玉と牙がある! オレの血を吸っている! 残りも引きちぎって地面に叩きつけてやった!


「くそっ、こんなの!」


 今の一瞬で奴の匂いを見失った。周りに溢れている強すぎる血の匂いのせいだ。しまった、ちょっと離れただけなのに。ブブブブブ。羽音が近づいてくる。ブブブブブ。たくさんだ。ブブブブブ。今度は何だ?


「げげげっ!?」


 蜂だ! 蜂だ! 一つ目の蜂だ! 体は丸くて細長く、針がとても長い! 透明な腹の中には赤い液体が波打っているまるでオレが奴に刺した注射器のようだ!


 蜂どもはオレに向かってこなかった! やたらめったらに周りの木を刺し始めた! あああ! チクショウ! 森に赤い目玉が増えていく! 奴の手下が増えていく! うわあああああ!


 クソ! クソ! ビビってなんかいるものか! オレは誇り高き人狼だ! ここはオレたちの森だ! こんな怪物に負けるものかあ!


 オレは目玉どもを無視して駆け出した! 蜂は振り切れたが、首の無い鳥が振り切れない! オレの頭の上をずっと飛んでいる! 目印のつもりか!


 突然オレの目の前に奴が飛び出してきた! 本物か偽物か!? どっちでも構うものか! オレは奴の横を駆け抜けながら腹を思い切り右手でブチ抜いた!


 ハラワタを貫く感触! 奴の背中から血まみれのオレの手が飛び出してきた! だが奴の顔は笑っている! また偽物だ!

 ならオレが今ブチ抜いたこの感触は何だ!?


 偽物の向こう側に蠢く黒い影! 毛も皮も手も足も頭もない! てらつく汁を塗りたくった丸太のような胴体が膨らんだり縮んだりを繰り返している!

 ヒルだ! 歪な目が並んだ巨大なヒルに偽物を被せていたんだ!


「このぉー!」


 手が抜けない! ヒルから溢れた血がもう固まっている! 背後から足音! 振り向くと二匹の獣がオレに迫ってきていた!

 ツノの代わりに大きな人間の手が頭から生えたシカと、ハチの巣のように背中にビッシリと穴が空いたイノシシだ!

 しまった! そっちに気を取られた隙に、ヒルから血を吐きかけられた! 目潰しだけじゃない! 早くも血が固まってオレを動けなくしようとしてくる!


「こんのおおおおおお!」


 左手もヒルに突っ込んで、真っ二つに引きちぎってやった! 太くて長い指を広げて突撃してきたシカの頭は蹴り砕いた! イノシシは近寄ってこない! 背中から血のあぶくを噴き出し、たくさんのハチが出たり入ったりしている!


「くそう、くそう! こんなの!」


「そうね、もう戦いじゃないわね」


 イノシシの後ろに奴が姿を現した! オレはシカの足を掴み、大きく振り回して奴に投げつけた! シカは奴に当たる前に空中で真っ二つにされた! 体を前後に切り分けられたシカが地面に落ちた!

 そしてシカの砕けた頭と断面からの出血が止まった! ビッシリと生えた目玉が傷口を塞いでいる! 分かれた体が前足と後ろ足でそれぞれ立ち上がった!

 こいつら、殺しても死なないぞ!?


「あなたの気持ちは分かるわ。自分がどんなに努力して頑張っても、足元にも及ばない相手がいることを思い知らされた時の絶望感を私も知ってる。だから私を卑怯だと罵りたいのなら、甘んじて受け入れるわ」


「誇り高き人狼は、敵を讃えることはあっても貶すことはしない! 嘆くのは自分の弱さだ! 敵の強さじゃない!」


「そう。あなたのその精神、私も見習いたかったわ」


 周りの木々から、目玉の生き物どもがぞろぞろと這い出し始めた。森の中はもう目玉だらけだ。


「くっそおおおおおおおお!」


 オレは奴から逃げた。道を塞ぐ目玉猿や、噛み付いてくる目玉蛇を殴り殺し、囲みを抜けようと走った。


 勝てると思った。それは間違いだった。逃げても殺しても奴の手下はいくらでも湧いてきた。オレは噛んで殴って踏んで投げて引き裂いて走った。だがオレの血もどんどん流れる。一歩ごとに違う牙が噛み付いてくる。

 でかい奴より、リスやネズミや鳥とか小さい奴のほうがすばしっこくて、いくらでもオレに追いついてくる。噛みつかれる度に握り潰したけど、あまりにも数が多すぎる。


 血が足りない。足がどんどん遅くなるのがわかる。息が切れてきた。体が重い。走るのは好きだけど、こんなに戦いながら走るのは初めてだ。ちょっと疲れてきたかもしれない。

 もうちょっとだったのに。やっぱり言われた通りにやっとけばよかったかな。


 クレアとミサキはうまくやってくれたかな。群れのみんなを助けてくれたかな。じいちゃんがいるんだ。普通の人間なんか相手にもならないぞ。ここまで離れたんだ。オレを捕まえて戻るころには誰もいないぞ。ざまぁみろ。




 複数の人間の悲鳴が遠くで聞こえた。ほぼ同時に目玉どもの足がいきなり止まった。頭の上で飛んでいる鳥だけがオレについてくる。


 何だろ? わからないけどチャンスだ。もしかしたら今からでも勝てるかもしれない。


 オレは少し開けた砂地を見つけると、ミサキの服のポケットを漁った。折れたマッチと着火用のテープが出てきた。血まみれになっちゃったけど使えるかな。大丈夫かな。


 よかった。一本だけ使えた。あとはえっと、葉っぱや枝を加えて燃やして火種を増やして、周りの木に燃え移らせて……と。生木って中々燃えないくせに、煙だけはたくさん出るんだな。


 奴らの匂いが近づいてきた。目玉どもの気配はない。群れの仲間を殺したあの二人と、その他に十人くらいの人間の匂いだ。

 火の勢いはすごく頼りない。これでは山火事にはならないな。煙が満ちてきたくらいだ。

 もうオレにできることはない。砂地の手前で腰を落として奴らを待とう。


「やれやれだ。その刀を使うのはいいが、後始末と二次被害も少しは考慮してもらいたいものだな」


「ごめんなさい。思っていた以上に苦戦しそうだったから……」


「全ての個体が持ち主の命令を素直に聞くわけじゃない。これが片付いたらハグレも探し出して全部始末するぞ」


「うん……わかってる。あと、冒険者達には……」


「大丈夫だ、死人は出ていない。後で俺からうまく言っておく」


「ありがと……」


「やれやれだ。普段からそれくらい素直ならもっと可愛げがあるんだが」


「えっ、今なんて」


 その他大勢の冒険者どもを従えて、あの二人組が来た。なぜか冒険者どもの服装はボロボロで、ほぼ全員が怪我を負っている。

 奴らは余裕丸出しでゆっくり近づいてきた。オレは痛みを堪えながら疲れた立ち上がらせた。牙を剥き出しにして奴らを睨みつけた。


「ルーマニアでは吸血鬼の天敵は白い狼という伝承があるが、こっちではそうでもなかったみたいだな。あの出血量だと、下手すれば殺してしまいかねないぞ」


「ほとんど返り血のはずよ。致命傷は避けて手足だけを狙うように指示を出したから、見た目ほど傷は深くない……はず」


「周りの木が燃え始めているな。かなりの煙が出ていて視界が確保しにくい」


「この子、結構頭が回るのよ。きっと眷属を森ごと焼こうとしたんじゃないかしら。まあ、間に合わなかったみたいだけど」


「グダグダ喋ってないでかかってこい! オレはまだ戦えるぞ! 何なら男の方から仕留めてやるぞ!」


「下がってて、アベル。もう逃さないから」


 スレイが前に出てきた。

 クレアの言ってた通りだ。アベルはオレと戦わない。手加減ができないから、オレを殺したくないんだ。


「そうか。それは……よかった!」


 オレは腰を屈めたまま足元の砂をすくって投げつけた。その結果を見る前に体を捻って反対側を向き、足元を強く蹴って跳んだ。

 オレの足が地面を離れてすぐに、背中に何かが密着する。耳元で冷たい声がささやいた。

 言ったでしょ、もう逃さないって。


 巨大な岩が落ちてきたのかと思った。全身の骨がバラバラに砕けそうな衝撃が、背中から足の裏まで突きつけた。空中から地面に叩き落とされて、その勢いのままに全身がうつ伏せに土に沈んだ。


 顔が泥に埋まって何も見えない何も嗅げない。真っ暗だ。とんでもない痛みに意識が飛びそうになった。

 こいつ、本当に強いなぁ。あの不気味な刀を使われなくてもオレは負けていたかもしれない。地面がただの土だったら、気絶していただろうなぁ。


 だけど。


「え!? ちょっと! 何よこれっ!? 泥!?」


 だけど、これでオレの勝ちだ!

 オレはまだ動けるぞ! 戦えるぞ! 父ちゃんと母ちゃんからもらったこの体は、ちゃんと人狼のものなんだ!

 どんなに痛めつけられても、絶対に立ち上がるぞ! 何度でも、何度でも!


「やだ! なんでこんなに沈むの!? 足が抜けない!」


「底なし沼だ! スレイ! すぐこっちに手を伸ばせ!」


「嘘でしょ!? だって沼なんてどこにもなかったわよ!? ただの砂地だったじゃない!」


「違う! 違うんだスレイ! 底なし沼は沼じゃない! 流砂だ! 普通の砂地にしか見えないから、誰もが引っかかるんだ!」


「じゃ、じゃあこの煙はそれを隠すために!?」


「そうだ! ただの煙幕じゃないぞ! 反撃の狼煙だ!」


 オレは体を仰向けにひねると、敵の手首を掴んで身を起こした。オレに引っ張られた敵は倒れこみ、両手を地につけた。奴が刀を持っている右手首を両手で掴んで力を込めた。

 悲鳴とともに奴の右手が折れて刀が落ちた。


 オレはそれを掴んで奴の手が届かない位置に置いた。男の方が何やら叫んでいる。左手はあえて折らない。オレは奴の肩を掴んで体重をかけ、自分の足を泥から引き抜いた。代わりに奴は胸まで沈んだ。絶望的な顔でオレを見上げている。


「オレも言ったぞ。それはよかったって。お前なら必ずオレに追いついてくると思った」


 底なし沼からの抜け出し方はクレアから聞いた。足を引き抜いて体を横にして、沼の表面を這ったり転がったりしてゆっくり進むんだ。

 3人で実際にやってみたから泥まみれになったけどな。

 オレは敵の頭を押さえ、少しだけ泥に押し込んだ。


「捕まえた仲間たちを逃すと約束しろ。約束するなら殺さない。しないなら沈めて殺す」


「わかった。約束する」


「アベル……」


 ざわめく冒険者たちを無視して、男はすぐに答えた。

 女は今にも泣き出しそうな顔で男の名を呼んだ。


「ずいぶん早い決断だな。そんなにこの女が大事か」


「そうだ。俺にとってかけがえのない仲間だ」


「ア、アベル……ごめんなさい。私、私……」


「気にするな。今回の失敗は次に活かそう」


「ならこの女が沈む前に助けてやれ。妙な動きをしたら、その瞬間にこの女を沈めてやる」


「もちろんだ。この後に及んで戦うつもりはない」


 女にロープが投げ込まれた。だが、女の手にそれを握って体重を支える力は残っていない。

 右手はへし折ったし、オレの蹴りを受けて痛めた左手にも、うまく力が入らないようだ。

 悪戦苦闘する女を見かねた男が、腰にロープを巻きつけてこっちに這って向かってきた。他の冒険者が後ろでロープを握っている。


 こんな危険な所に入ってくるなんて、お前らでもやっぱり仲間は大切なんだな。

 オレの仲間は殺したくせに。


 オレはあえて近くにいた。男はオレを警戒しつつも、女を励ましながら手を伸ばした。女も左手を男に伸ばした。男がその手を掴んだ。

 今だ! オレは刀を拾った!


「とどけぇえええええええ!!」


 奴らが繋いだ手に刀を思い切り突き立てた! 赤い刃が女の手から入って男の手から出てきた!


「うっ? ああああああああああ!?」


 届いた! 届いたぞ! クレア! ミサキ!

 オレたちの牙だ!


「仲間の手ごしなら、あの変な光も使えないだろう! 刀と泥を光で消せるか!? どこまでも落ちていくぞ! 刀を抜こうと動いてみろ! もがけばもがくほど底なし沼に飲み込まれるぞ!」


 奴らの絶叫が森に響いた。刀が脈打つ。奴らの血を吸い取っているのがわかる。二人の顔は苦痛に歪んでいる。顔が青ざめ、肌から血の気がどんどん引いていく。

 このまま刺し続ければ、こいつらは死ぬだろう。これでオレの勝ちだ。


 こいつらは憎むべき敵だ。仲間の仇だ。オレをさらって孕ませて飼い殺そうとする人間だ。今まで多くの人間に人狼が殺されてきた。オレの両親も人間に殺された。

 こいつらを殺していい理由は、たくさんある。


 たくさん、あるけど……。




 やめた。


 オレは剣を引き抜いた。代わりにロープを掴むと、真っ青な顔になった女の胸の下にぐるぐると巻きつけた。結び方は知らないけど、ほどけないはずだ。


「あ……え……?」


「誇り高き人狼は約束を守るんだ。殺しはしない」


「くそ……こんなの想定外だ……卑怯な手を……」


「アベル……」


「お前、すごく打たれ弱いな。今までその能力に頼ってばっかりで、怪我したことも負けたこともなかったんだろう。痛みを耐えて自由な方の手で反撃すればよかったのに」


「ふざけんなよ……人間にそんな体力があるか、野蛮な化物のくせに……」


「オレだって、半分は人間だぞ」


 オレは底なし沼から這い出した。体をぶるぶると震わせて泥を振り落とし、奴らを見下ろした。

 二人とも衰弱しきっている。もうこれ以上戦う力は残っていないだろう。


「群れを成し、気性は凶暴かつ残虐で執念深く狡猾。一度見つけた獲物は決して逃がさず集団で嬲り殺す。お前が言う野蛮って、このことか?」


「……だったら何だ」


「そういう戦い方をしたのはどっちだったか考えてみろ。お前達がぞろぞろとやって来なければオレは負けていたし、この女がいなければお前を傷つけることもできなかった。誇り高き戦士として戦えなかったからお前たちは負けたんだ」


「……待て、なぜお前がその文章を知っている……?それはこの依頼を受けた冒険者しか知らないはずだ。まさか……いや、やはり……」


 しまった。余計なことを言いすぎた。あの2人の協力があったことは内緒にしないといけないのに。


「あの二人も最初からグルだったんだな! 卑怯な手を使いやがって……! 正々堂々と戦っていればこんな事になるはずがなかったんだ……!」


「ア、アベル……?」


「覚えていろよ! お前らがどこに逃げても絶対に探し出してやる! そして必ず今日のことを後悔させてやるからな……!」


 男はやつれきった顔で敵意を剥き出しにした。

 だが、オレはもう相手をするつもりはない。


「そういうの、負け犬の遠吠えって言うんだぞ」


 オレの一言に、奴は黙り込んだ。

 他の冒険者たちもオレへ手出しする気配はない。繋がれたロープを引っ張って、二人を助けるだろう。

 さあ、群れへ帰ろう。もうここに用はない。

 オレは奴らに背を向け、走り出した。




「俺さあ、実はこいつら気に入らなかったんだよな」


 オレの去り際に冒険者が呟いた一言が、妙に気になった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る