第40話 嫉妬は女を鬼にする
「……お見苦しいところも、あると思いますが」
資料の頁がめくられていく。一応ここにくる前に自分で見直してはいるものの、いつ小言が跳んでくるかとリディはひやひやした。母は最後まで目を通した後、とんとんと資料を机にたたきつけてまとめる。そしてリディに返却してきた。
「まあ、いいでしょう。始末に負えないほどの出来ではありません。ただ、各室に対する人手の割り振りが甘いわ」
「どこがでしょう」
リディは踏み込む。ここで前のめりになっておかなければ、「本当にこれでいいと思うの?」と二の矢が来るに違いないからだ。自分の知的水準が母に勝ると思えるほど、リディの神経は太くない。
「六室には技師が多いわ。こちらから連れて行く必要なし、移動中の経費がかさむだけよ。現地の技師に臨時で給金を出せば、喜んで働くでしょう」
「はい」
「それと輸送経路が……」
その後も母の指摘は続く。リディがそれをこと細かに記入していくと、紙が赤字だらけになった。確かに母に指摘された場所を読み返してみると、自分の計画の甘さが目につく。余計な出費が削られると、計画がだいぶ実現可能なものに見えてきた。
「……今日はあなたも大変だったから、これでおしまいにしましょう。また訂正案を見せてちょうだい」
「分かりました」
リディは大事に書類を胸に抱えた。母の口調が厳しいのは相変わらずだが、いつもより引き際が潔い。何かあったのだろうか、と内心でいぶかった。
「活躍していた、とお父様がほめていらっしゃいましたよ」
それを見てとったのか、母が口を開く。彼女の機嫌がいい理由がはっきりした。
「一番にここへ来てくださったのです。あなたによろしくと申しておられました」
「それは残念。お目にかかりたかった」
「全く……こんな日くらい、ゆっくりなさればよろしいのに」
母が人並みに焼き餅をやいている。外から見れば父が母に遠慮してばかりの関係に見えるが、実は嫌われるのを恐れているのは母の方だ。
これを父の前で見せられればかわいげがあるのに、不思議と本人を目の前にするとひっこんでしまう。弱みをみせないのは娘に対しても同じで、すぐにいつもの表情に戻る。感情をあらわにするのは、はしたない女だと躾けられて育ったせいだろう。
「さて。実際に見てみて、気になる女はいた?」
「やはり『火星』でしょうか。私と同じく特殊アスペクト持ちですし、軍事的な知識・経験が備わっています」
「レーガートゥス家は昔からそうね。ただ、どうしても気性が荒っぽいでしょう」
リディはうなずいた。
「『火星』に合う人間というのは、良くも悪くも感情の起伏が激しいのよ。それでしくじることもあるわ」
「確かに。使っている言葉も、相変わらず男子のようでした。大人になれば直ると思っていたのですが」
テルグの顔を思い浮かべながら、リディは言う。小さい頃は軍学校出のよしみで遊んでいたが、年頃になってからは交渉がなくなった。……その後は、こちらの事情で一方的に特定の人物を追いかけているだけだ。リディは上気した顔を隠すために、心持ち下を向く。
「王になって、民に規範を説くには不向きでしょう。せいぜい、彼女の失敗に巻き込まれないようにすることね」
「分かりました」
「今回、『土星』は何もしなかったようね。ずいぶんお偉くなったこと」
母の声には、軽蔑の色がはっきり現れていた。さて困ったものだ、とリディはため息をつく。怒るのは結構だが、的外れなのはこちらが疲れる。
「彼女も待機していたのですが、状況が不利でした」
「そんなものは言い訳よ」
「いえ、今回に限っては違います」
母の機嫌を損ねたくはないが、リディは反論した。
「ご存じの通り、彼女の特技は『狙撃』です。的の前に余計なのがちょろちょろしていては、真価が発揮できないでしょう」
「逃げ遅れた兵でもいたの?」
「いいえ。『太陽』が主を討とうとして、四室に入りこんでいました」
母が歯を強く食いしばった。怒りに染まった視線が、部屋の壁に当たってはね返る。『土星』の名が出た時より、強い反応だ。予想していた通りの反論に、リディは胸をなで下ろす。
「あの女の娘……なるほど、やることが小賢しいわ」
ひとしきり愚痴が続く。こうやって大げさに発散させてやった方が、結果的に短くすむことをリディは経験的に知っていた。
「結局、『太陽』は何もできなかったんでしょう?」
「ええ。最終的に仕留めたのは、私です」
「なら、恐れる必要は」
「単純に割り切ってしまうのは、危険だと思います」
母が限界まで目を見開いたので、リディは更に消耗させるべく言葉を重ねた。
「今日の戦い方はまるでふがいなかったが、私が敵わなかったケートゥに一矢報いたのは事実」
今日は自分が助けなければ命を落としていたが、室の状態も関係してくるため一概には言えない。彼女が敵の懐に入りこんだ場合の破壊力は、決して無視できるものではなかった。
「実力のなさが露呈しただけでしょう。あなたとは違うのよ」
「……本当にそうでしょうか」
「忘れなさい。あの姉妹に振り回されるのは、私だけでたくさんだわ。しつこくつきまとって媚びを売り、欲しいものを手に入れた」
母の目に暗い炎がともった。
「私は望んでも、武器の使い手になれなかった。早く会ってさえいれば、今こんなに苦しむこともなかったのに。でもリディ、あなたは違う」
母は勘違いしたままだ。たとえ接点が多かろうと、ありのままの母では決して愛されなかったに違いない。
自分が変わるつもりはさらさらなく、相手が「都合のいい形」になってくれることを期待するだけの怠惰。相手にも事情があることなど斟酌せず、自らの理想こそが最も徳高いと信じて疑わない傲慢。それこそが、疎まれる原因だ。
しかしそれを指摘するつもりはなかった。心を熱くさせても、壊してしまってはやりすぎだし、リディも困る。
そんな娘の内心を知らぬ母は手を伸ばし、リディの肩に触れる。慈愛の笑みを浮かべようとして失敗した、奇妙に歪んだ笑顔がすぐそこにあった。
「いいこと、他の誰よりも抜きんでた存在になるのよ。そうすればお父様も、あなたを一番に愛してくださるわ」
それで満足するのは、自分ではない。そう言えたら楽になるだろうか、とリディは迷った。母は手にしたい物は全て獲得してきたかのように見える。だがそれは、はりぼてでしかなかったのだ。
(愛されたいのは、貴方でしょう)
そう言ってやりたくなった時、母の手に力が入った。その痛みが、リディを現実に引き戻す。
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