第38話 初めての敗北
「ワンワン」
「うわっ」
アイラの邪な思いを見抜いたかのように、犬たちが吠える。彼らはアイラを敵視していたわけではないようで、そのうちの一頭が剣をくわえて持ってきた。矢に当たらないために動きを封じられていただけだったと思い当たると、一気に身体の力が抜ける。
口の中を強く噛みすぎて出血していることに、その時はじめて気付いた。舌でそこをなぜると、ざらりとした感触とかすかな塩気がある。
「あ、いたいた。無事、保護完了だね」
「首尾よくいったな」
通信板が再起動した。ラニとリディが、そろって姿を見せている。戦況が落ち着いたからか、怖がりのラニもいつもの顔色に戻っていた。いや、その顔には若干悲しみの表情が浮かんでいる。
「……途中で切れたわよ、通信」
「ごめん、他のところで容量くっちゃって。通信が届きにくい洞窟の中までは無理だったみたい。そのかわり、ちゃんとリディ姉を呼んだよ」
ラニが本当に申し訳なさそうな顔で詫びを入れる。アイラはため息をつきつつ、剣を下ろした。
「……まあ、最終的に生きてるからいいけど。二人とも今どこにいるの?」
「私は十二室だ。最初から動いていない。ラニは友好の十室で、ユクタと一緒にいる」
そうか、とアイラは思った。すっかり失念していたが、火星と違って、木星の特殊アスペクトは、五・九番目の室に届く。十二室なら、四室は標的になりえた。しかしそれならば何故、最初から主を狙わなかったのだろう。
それを聞いてみると、事もなげにリディは答える。
「ああ、テルグがどうしてもやりたいことがあると言うのでな。兵を融通してもらうかわりに、今回は譲った」
「融通してもらったのは兵だけかしらん」
アイラがあてこすりを言うと、リディは無視した。耳が真っ赤になっているところを見ると、少々個人的な頼みも聞いてもらったらしい。面白くないアイラは、腕を組んで岩壁によりかかった。
「そんなことより、聞かないのか」
「なにを」
「心臓を潰したのに、主が死ななかった理由」
「……まあ、それは。後学のために」
アイラの要望を聞いて、リディはラニに声をかけた。きっと、これ以上テルグとの取引について聞かれたくなかったのだろう。
「タコ型には心臓が三つある。そうだったな、ラニ」
「うん、解説なら任せて」
ラニが生き生きと動き出した。ご丁寧に、魔法書を引っ張り出して広げる。濃い紺地に白線で難しい魔方陣が描いてある本は、最初は無地だったがラニが声をかけると文字が浮かび上がってくる。やがてタコの解剖図が出てきた。
「この図が見える? タコ型の心臓は、血液を送り出すためのが二つ、それを末端まで行き渡らせるためのが一つ。だからまとめて始末しないと死なないんだ」
「なるほどねえ」
色々な泥がいるものだ、とアイラは素直に感心した。
「伝えようとしたけど、通信が切れちゃって」
「あら、そりゃ誰のせいでもないわね」
「ううん、僕が水星を使いこなせないせいだよ……僕は未熟だから、学会で真面目に言っても話を聞いてもらえないし……声は小さいし……質問してくる先生は厳しいし……」
ラニは今にも泣き出しそうだ。いらぬ心的外傷を呼び起こしてしまった様子なので、アイラは困った。苦い薬を飲み下すときのような顔をしているアイラをちらっと見て、リディは薄く笑う。
「泣くな泣くな。こっちが困るから」
「うぇん」
ラニはうんとううんの中間のような、微妙な声を出した。ようやくラニの涙と鼻水が止まったところで、リディが手をうつ。
「さて、全員守りが手薄な室に移動して援護だ。ユクタとケートゥ、ラニは城方面に向かってもらう予定だ。アイラ、お前もラーフと組んで動け。テルグもそのうち戻ってくるだろう」
「テルグ……あいつ、何してたの」
「『外の敵』を片付けに行ったが、苦戦はしまい」
「ああ、ハイハイ……あいつらね。タリヴァール」
いつものお客さんに愛想……ではなく暴力をふりまきに行ったのだ。取り立てて騒ぐほどでもなかった、とアイラは肩をすくめる。潮の流れまで知り尽くした近海の戦なら、ドラガヌシュの軍が敗れることはまずない。
「いつも、泥がいなくなる前に外国船が撤退していくからねえ」
「さすがの武勲だな。さて、行くとするか」
リディとラニの姿が消えた。同時に、犬たちもいなくなる。ふわふわとした塊が消え失せると、途端に周囲が寒々としてきた。
アイラは下がった外気に耐えられず、何度もくしゃみを繰り返す。その度に脇腹がみしみしと痛んだ。激痛でないので骨が折れてはいないが、どこかにひびくらいは入ったかもしれない。
アイラはため息をついた。己の身を点検してみる。擦り傷は数え切れないので、途中から勘定するのをやめた。あとは大半が打撲で、派手な出血はない。無惨に斬られた衣が心配だったが、徐々に端から元の姿に戻るのを見て安堵する。主が死なない限り、衣は再生するようだ。
振り返ってみれば、反省するところだらけだ。初陣で皆それぞれに成果をあげたというのに、自分一人が取り残されている気分になる。軽傷で済んだのは、運がよかったからとしか言いようがなかった。
あの時ラーフが笑っていた意味が、ようやく分かった。特殊アスペクトも情報能力もない自分がはい上がるには、相当抜け目なく振る舞わなくてはならない。剣を使えたくらいで調子に乗るのは早すぎた。
子供のように泣いて、誰かになぐさめてもらいたい甘えが湧いてくる。アイラはあわてて、自分の掌で頬を何度か叩いた。痛みが、盛り上がりかけた感情をなだらかにしてくれる。大きく伸び上がって、深呼吸すると気持ちが落ち着いた。
行くべき場所は、ラニがすでに地図上に示してくれていた。忍び寄ってくる暗い感情を振り払うように、アイラは光っている目印をたぐるように動き出す。
☆☆☆
父と母。それにカイラ。ごく近い関係の家族とわずかな使用人だけで夕食をとるのが、最近の貴族の中で流行っている食事方式だということはわかっている。しかし今日は、その空間にいるとひどく肩身が狭かった。
話はそれなりに弾んでいる。誰がアイラの最初の戦果に触れるのかが気がかりで仕方無かった。
「アイラ、どうしたの? ほとんど食べてないじゃない」
母に水を向けられても、アイラの手は静止したままだ。前菜から順に運ばれてくる料理をなんとか片付けていたが、目前にあるこってりした味の肉をどうしても噛み下す気になれない。
胃はまだ余裕があるはずなのに、その空洞になにかが入ってしまったようだった。ため息をついて、アイラはまだ肉が残っている皿を横に押しやる。
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