雨とコーヒーと、酒と本

夜凪ナギ

第一章

 静かに雨の降る日だった。

 カップから立ち上る湯気はゆらゆらと動き、小さなその空間をコーヒーの匂いで満たしていた。

 窓に打ち付ける雨音が、彼の発する声が、風でめくられるページの音が、全てに温もりを感じた。

 それは決して、掛けられたブランケットのせいではない。そばに置かれたコーヒーのせいでもない。

 その空間、雰囲気が私を温めてくれたのだ。


 

 大学生になった私は、地元を離れて一人暮らしを始めた。地元が田舎だった分、都会に出てきた時の言葉では表せない高揚感とか興奮がしばらく私の中にいた。早朝でも深夜でも人がたくさんいるし、夜は信じられないほど明るくにぎやかだった。私は駅から徒歩10分ほどの距離にあるアパートに住んでいた。何せ奨学金まで借りて大学に通っている身だから、当然良いところには住めない。誰かが支柱を蹴飛ばせば崩れそうなアパートだった。壁の塗装は剥がれ落ち、一歩歩けば床がきしむ。2階建て、全8部屋のどの住民が歩いてもその振動が伝わってきた。

 親の仕送りもなく、奨学金だけでは生きていけないからアルバイトを始めた。アパートから自転車で20分ほどこいだところにある飲食店だった。うどん、という看板が立っているものの、メニューには寿司や唐揚げ、牛丼など何でもある居酒屋のようなところだった。ただ、不景気でも学生を雇ってくれるところはほかに見当たらなかったし、他にあてもなかったからそこに決めた。平日は講義を受けた後3時間ほど、週末は8時間みっちり働いた。店長は日によって態度が変わる人で、上機嫌な日もあれば客に毒づくほど不機嫌な日もある。パートのおばさんから聞いた話によると、奥さんとの関係がよくないらしく今は奥さん子供と別居しているそうだとか。都会も田舎も、人間というものは変わらないんだなと思った。そんな風にして、アルバイト代と毎月の奨学金でなんとか暮らしていける程度だった。なにせ都会はものが高く、田舎で2つ買えたものがここでは一つだったり、近所の人にタダでもらえたものが、ここでは金を払って買わなければならない。しかし、金さえあれば何でも手に入る。都会はそんな場所だった。

 私は親の勧めで経済学部に入った。特にやりたいこともなく、これまで親が敷いたレールの上で生きてきたものだったから、今回もそうしただけだ。しかし経済学というのは何分わからない。カール・マルクスだとかアダム・スミスだとか外国の偉い人の名前を挙げて、やたら難しい言葉を並べているだけで何を伝えたいのか全く分からない。ただ歳を食っただけのような老人が教科書を読み上げているだけだった。これなら一人で読書でもしているほうが幾分ましだと思った。そう考えるのは私だけではなかったようで、講義に参加している生徒は二分した。前列で必死にノートをとる真面目な生徒と、後ろの方で雑誌やら漫画やらを読んだり、ひそひそと雑談を交わす生徒。時には机の陰に隠れてカップラーメンを食べる生徒もいた。当然この老人に気づく気配はない。私はそのどちらにも属さず、中央列の隅に座り、授業を聞くわけでもなくサボるわけでもなかった。でも、どちらにもなりきれない自分が嫌になることはなかった。

 3日に1度は母から連絡があった。何せ母は5年前に離婚してから相当暇を持て余しているようだった。それほど遊ぶ人間でもなかったし、友達が多いようにも見えなかった。父と母は昔仲が良く、子供の前でもいちゃつくような人たちだった。しかしある日、父がどうやら他の女と遊んでいたらしく、私が学校から帰ると家には父の腕時計と財布、いくらかのお金、封筒と便箋が何枚か、そして泣く母だけがあった。しかし次の日の朝になれば母はいつも通りで、「これからは二人で暮らすのよ」とだけ言って、小さなアパートに引っ越した後はこれまでと変わらない日常だった。

 母からの電話の内容は決まっていて、最近の出来事や健康状態、友達や授業のこと、あとはお金のことくらいだった。特に用事はないが、ただ時間を埋めるために話しているといった感じだった。私も決まって大丈夫とだけ伝えた。

 これらの事柄が日々の決まりきった出来事となったのは、引っ越して3か月ほどたった頃だった。講義を受け、バイトをし、飯を食って寝る。ただそれだけやっていれば誰も文句は言わなかった。しかし、そんな私の日常で積みあがったジェンガを破壊するように、とある男性が現れた。

 彼は村上タツキといった。私がとっている金融論の講義で同じクラスらしく、帰り道その男は突然話しかけてきた。

「木村さん、だよね?」

 私はうんとだけ答えた。

「俺、同じ講義とってる村上タツヤ。よろしく」といって彼は右手を差し出した。

「よろしく」ほぼ反射で私も手を出してしまった。

「女子で金融論とるって珍しいね。ほら、あの講義ほぼ男しかいないじゃん?」

 私は、そうだねと言って頷いた。

「実は俺、前から木村さんのこと気になってて、この後少しでいいからどこか行かない?」

 特に用事はないが、考える素振りを見せた。すると彼は両手をすり合わせて懇願するように、

「お願い、コーヒー1杯だけでもいいから」というものだから、特に予定がないからいいよと言った。

 彼は子供のようにうれしそうな顔をして喜んだ。

「じゃあさ、俺いい店知ってるんだ。こっちだよ」といって、私の手を引っ張って歩き出した。

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