薄幸の堕天使

怒雲

プロローグ

 終りと始まりの詩(うた)

空虚な心を満たす虚空な想いと共に。










 窓から射し込む、僅かな朝の光りをその小さな体で浴びて、その少女は気だるげに大きな目をあけた。


「……」



 もぞもぞと、少し固めの布団からゾンビの様に這い出てる少女。

 長く艶やかな黒髪は美しいのだが……手足は枯れ木の様に細く、みすぼらしい容姿はあまり『美人』という感じでは無い。


 起き上がり、小柄で貧相な身体をした少女。──今年で十と五になる少女。姓を樋山、名をアクルという。


れっきとした日本人である。所謂キラキラネーム……またはDQNネームというやつと見て問題はないし間違いない。


 少しぼんやりしていると、リビングデッドの様なその目は死んだ魚の様な目に切り替わり、よろよろと立ち上がった。



 青っぽいパジャマ姿のまま、何処にでもある様な民家の畳部屋の出口に向けて歩いたその足は、部屋の隅にあるボロい机を見て止まる。正確には、その上に飾ってある写真。



 写真に写っているのは、海岸を背に仏頂面をしている自分と似た女性……母と微笑みを浮かべている数年前の自分の姿。


「……」



 それを見て、アクルは少しだけの笑みをその顔に浮かべた。そして、そっと写真立てを伏せた。


 小さく頷いて、顔からは笑顔が消えていく。そしてアクルは、ふらふらとした足取りでノロノロ部屋を出て行き、階段を降りて一階のキッチンに向かった。


ボロい紺色のエプロンをパジャマの上から身に纏い、欠伸を噛み殺しながら冷蔵庫を開けて卵とベーコンを取り出して、簡単なベーコンエッグを作り始めた。香ばしい食欲をそそる匂いが辺りにたちこめていく。




 畳上のテーブルの上に朝食を並べて、アクルは小さく頷きラップをかけた。

 それから自分の部屋にヨタヨタと戻り、所々ほつれてしまっている黒い制服に着替えてから、腰まで届く長い艶やかな黒髪を一本のみつあみに編んで玄関に向かう。



 ふと、母に挨拶して行こうと思って……やっぱり止めた。母は、自分の顔なんて見たくないだろうなと思ってだ。



「……逝って来ます。」



 一言、その唇から言の葉を溢す。これでいいだろうと、アクルは思う。多分、会ったら辛くなるだろうし。この決意をブレさせてはいけない。


 空を見上げると、終わりを見ない青い空には白い雲がぷかぷかと、気持ち良さそうに泳いでいる。


それがなんだか眩しくて、少し目を細める。

 それはとてもとても、晴れた日だった。何だか、嬉しい気持ちが込み上げて来る。



 衣服同様、汚れた靴を履き直して……アクルは何処にでもある様な住宅街を歩き出す。今日は平日だが、目的地は学校では無い。

 アクルは、どんどん人通りの少ない方に向かっていた。道行く人々の中には、怪訝そうにアクルを見る者も当然いたのだが、わざわざ話し掛ける者はいない。



 独りとぼとぼと歩くアクルは、様々な事を思い出しながら、色々な事を考えていた。それはもうあれこれと。





 例えば、自分の事。何故に自分は生まれて来てしまったのだろうか? 何を間違えて? 何を血迷って?


 夏が過ぎ去る事を告げる秋の寂しい風が……華奢過ぎる肩を通り過ぎ、艶やかなみつあみを揺らす。その心と共に。



 どう考えてみたって、自分は産まれてくるべきではなかったのだ。だから、これからする事はきっと正しい。

 もしも、唯一間違っている事があるとするならば。それはこの決断が遅すぎた、という事くらいだろう。



 ふと気が付けば、もう昼が過ぎようとしていた。周囲は、すっかり木々に囲まれている。人工物は、足元のアスファルトの上り坂とガードレールくらいだろう。後は、たまに通る車くらいか。



 ああ……そう言えば、足が痛いなとアクルは思った。まぁ、朝っぱらから夕方まで休む事なく歩き続けたのだ。当たり前である。



 ふと振り返ってみて、ずいぶん遠くに来たなぁ、と呑気に考える。自分はこんなに歩けたんだと、なんだかちょっと誇らしくて……アクルは笑った。笑っている事を思い出して、また笑った。





やがてアクルは、頂上の辺りにいた。海が見える、崖の上。後ろにはまだアスファルトの道が続いている。



 思い出の場所。小学校を卒業した際に、記念にと母が車で連れて来てくれた場所。アクルにとって、数少ない楽しい記憶。



 アクルの覚えている限りでは、一度も車に乗っていないはずなのにゴールド免許の母の運転は、それはもう素晴らしいものだったという。

 どのくらい素晴らしかったのかというと、サイドブレーキをしたまましばらく車を走らせていた程である。




 少し、辺りを見渡すと。キラキラとしたあの日が散らばっている気がした。それらを吸い込む様に、アクルは深呼吸をする。



 少し冷たい空気を吸い込んで、吸い込んで、吸い込んで……。




「……ンッ、ケホッ、ケホッ、ケヘッ。」



 苦しくなって、少しむせた。


 誰も見てなくて良かったなぁ。なんて事を考えながら、アクルは周囲をまた見渡す。そこには思い出があった。確かに思い出があった。いつまでたっても思い出があった。それが何だか嬉しくて、アクルはまた笑う。



 ああ、良いことだとアクルは思う。この決断をして良かったと。今日の自分は、よく笑うじゃあないか。



 いつもと違って、こんなにも。夢ではなくここにいて、こんなにも真っ直ぐに笑えるのだ。自分はまだ、笑えたのだ。



 それが本当に、本当に……。









「……あ?」



 その大きな目から、ポタポタと雫が溢れた。


「あ、あれ……?」



 どうしてだろう。なんだろうかこの感情は。嬉しいはずなのに。悦んでいるはずなのに、なんでだ?

 ポロポロ涙が止まらないよ。停まらないよ。可笑しいな。



 ふと、夕焼けの海と空をアクルは見た。橙と蒼が交わった、美しい景色に感動している。あの日と同じ色。




 ……世界は綺麗だと、アクルは思った。




 そして。泣き顔のままで笑って、アクルは崖っぷちに立つ。そして両手を広げて体から力を抜いて目を閉じる。



「お母さん……今まで、ありがとう。ごめんなさい。さようなら。」



 机の引き出しにいれておいた、遺書にかいてある言葉を述べて……小さな体が舞い上がる。その表情は、この美しい空模様さながらに晴れ晴れと、活き活きと生き生きと。








嗚呼、落ちる墜ちる堕ちる。世界が回る廻るまわる。


 風の音だけがその耳に聴こえる。終わるんだなぁ、とアクルは暢気に考えていた。



 これでいい。これで、良かったんだ……。



「……風、気持ち良い。」












――でもよ、ちょっと勿体無いだろそりは。――



「……え?」



 突然聞こえた声に、アクルの思考が止まる。

 そりはってなんだろう。それはって言いたかったのかな? なんて、どうでも良いことを考える自分がいた。



――捨てちゃうんならさ、有効活用した方がいいよな? うん、間違いないぜぃ。つーわけでちょいと我に付き合って貰うぞあんた。――




 邪悪な雰囲気のハスキーボイス。女性の声。



 周囲を見渡すと、色とりどりの景色はセピア色に。そしてアクルは、空中で止まっていた。



「……え? え??」



 目の前にあるどす黒い、霧状の球体。どうやら、自分に話し掛けて来ているのは『これ』らしい。



――うん、いいな! よーし決まりだ決定だっ! そんなわけで……あなたと合体したい――



 フュー……ジョン! なんていう妙にテンション高いハスキーボイスと共に、どす黒い霧状の球体はアクルにまとわりつく。



 それを最後に、アクルの意識は途切れ――――。

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