第5話

 まっすぐとした鞠子の視線にもその目を揺るがすことなく、日向は雪羽に向かい手を差し伸べてくる。

 やたらと真剣な眼差しを向けられて、照れくさいこそばゆさを覚えた雪羽はやんわりとはにかんだ。そして差し出された手のひらに手を重ね、それをぎゅっと強く握って引き寄せた。


「なあ、日向。俺を守ろうなんて、思わなくてもいいよ。お前とは対等でいたいから」


「雪羽」


「それにすぐ頭に血が上っちゃう日向が、そんなに器用だとは思えない」


 もの言いたげに口を開きかけた日向を遮るように、あっけらかんと笑いながら雪羽は肩をすくめる。その言葉に日向は虚をつかれた顔をして固まった。するとその反応に雪羽を抱きしめていた鞠子が吹き出すようにして笑う。


「男前も形無しね」


 こらえきれないとばかりに大笑いする鞠子に、日向はムッと口を曲げて不服そうな顔をする。幼い子供が拗ねたみたいなその表情に、二人に挟まれる雪羽も思わず笑みをこぼした。

 普段は隙もないくらいなのに、こうして雪羽のことになると簡単に崩れてしまう。それがひどく愛おしくて、雪羽は目いっぱい腕を引き寄せると、鞠子と日向を抱きしめた。


「な、なによ。馬鹿馬鹿しい。仲良しごっことか、気持ち悪いのよ」


 緊迫した雰囲気を一変させて和やかな空気をまとう三人に、美智は不愉快そうに眉をひそめる。そして呆れたように肩をすくめて、三人を鼻先で笑った。けれどその態度を雪羽はじっと見つめる。


「なんなのよ。あんたなんか」


「君島先輩、それ以上は言わないほうがいい。俺を侮辱するつもりかもしれないけど、それはあなたが好きな日向も侮辱する言葉だって気づいてますか」


「いいんじゃねぇの、言いたきゃ言えよ。俺は別に気になんかしねぇよ、あんたの言葉なんて。でもな雪羽をこれ以上貶めるんなら、俺の視界から消えてくれねぇかな。目障りだよ」


 切り裂くように辛辣な日向の言葉に、美智の目に涙が盛り上がる。唇を噛みしめて涙をこらえるその顔は、あまりにも可哀想だ。けれどその顔を見下ろす日向の目は冷ややかで、自分のしたことが呪い返しのように跳ね返る。


「悪いけど、あんたがたとえ清廉潔白な人間だとしても、俺は雪羽以外は選ばねぇよ。俺だってなんのリスクも考えないで付き合ってるわけじゃない。黙ってたって、こうやってあんたみたいなのが現れて引っかき回される。周りの勝手な目にさらされる。それでも俺は雪羽のためならなんだってする。そのために他人を傷つけることになっても、俺自身が傷つくことになっても構わない。だから安っぽい恋愛感情に振り回されてやる義理はねぇんだよ」


 まくし立てるように吐き出された日向の言葉は容赦なく美智の胸に突き刺さる。浮かんでいた涙がボロボロとこぼれ落ちていく。込み上がってきた感情を抑えるように顔を覆い俯いた美智に、傍にいた女子生徒たちがオロオロとした。


「好きだからってなんでも許されるわけじゃない。少しは胸に留めておけよ。それと、あんたはもっと身近に目を向けたら? そういうあんたでもいいって言う男がいるだろう」


「え?」


 不思議そうに顔を上げた美智に肩をすくめた日向は、ちらりと視線を後ろへ向けた。その先を追う美智は驚いたように目を瞬かせる。

 人垣の中にいるのは昨日も美智の傍にいた背の高い男。いまもなにか言いたげな顔をして美智を見ているが、あの時もそうやってなにも言わずに口を閉ざしていた。しかしそろそろ行動に起こしてもいいだろう。


 雪羽は鞠子の腕からすり抜けると、まっすぐにその男の元へ足を進めた。けれどそれに気づいた男は慌ててその場を立ち去ろうとする。しかし教室の外に集まった人は多く、思うように抜けきれない。


「逃げたら、一生気づいてもらえないですよ。俺にあの時なんて言おうとしたんですか」


 逃げ出すよりも先に駆け寄った雪羽が男の腕を掴む。肩を跳ね上げて振り返った男は、やや目がきついが色の白い細面。生真面目そうな雰囲気だが、意外と整った顔立ちをしている。

 日向が持つような男らしさはあまり持ち合わせていないけれど、それを除いてもかなり女性受けしそうな顔だ。


 背が高いのでまじまじと見ていなかったが、改めて見るとどうしてこれが目に入らないのかと不思議に思うほどだった。しかしあまりにもまっすぐに雪羽が視線を向けるので、男は落ち着きなく視線をさ迷わせる。


「美智は、少し横暴なところはあるけど。あれでいて本当に一途なんだ。だからってなにをしてもいいわけではないけど、あまり傷つけないでやって欲しい」


「やめてよ! 篤弘はそんなんじゃない。ただの、ただの幼馴染みなんだから、やめてよ」


 おずおずと言葉を紡ぐ男――篤弘は、美智の言葉に困ったように眉を下げた。その表情を見ると、近くにいすぎて気持ちが伝わらなくなった典型なのだということがわかる。


「あいつがやる気出すのも出さないのも、本人次第じゃねぇの。嫌ならきっぱり振ってやれよ」


「……そんなんじゃ、ないのに」


「あー、はいはい! もういいでしょ、この見世物は終わりよ終わり!」


 日向の言葉に小さくしぼんでいく美智の声。けれどそれに被せるように鞠子の声が響く。両手を大きく打って、自分に視線を集めると両手を払うように振る。その仕草に静まり返っていた空間がざわめき出した。


「人の恋路を面白半分で見ていて、なんかいいことある? なんの得にもならないでしょう? まったく、さっさと散ってよね」


「おい、なんの騒ぎだ。チャイム鳴ったぞ」


 鞠子が呆れたようにため息をつくのと同時か、ふいに野太い男の声が聞こえた。集まっていた生徒たちはしばらく顔を見合わせていたが、人垣をかき分けて現れた教師の姿にさあっと蜘蛛の子を散らす。


 波が引いたあとに残ったのはそのクラスの生徒と、雪羽たち。先ほどまでの人垣と、三年の教室に二年である雪羽や日向がいるこの状況は、明らかにただ事ではない。


 眉をひそめた教師の顔に日向は肩をすくめ、雪羽と鞠子は誤魔化すようにへらりと笑った。

 しかし相手は運悪く三年の学年主任。そう簡単に誤魔化されてくれる相手ではなく、そのまま三人まとめて生活指導室へ連行されることになった。


 道すがら朝から騒動を起こしたことをくどくど説教され、深いため息を吐き出されるとなんとも言いがたい気持ちになる。

 なにも知らない素振りで教室にやって来たが、事態は把握しているはずだ。あれだけ人が集まっていれば、誰かが教師を呼びに行ってもおかしくはない。

 雪羽たちは三人で顔を見合わせ苦笑いを浮かべた。


「噂は、こちらまで届いている。それについては深くは問いたださないが、神谷鞠子、弟の模範になるべきお前が大暴れしてどうする」


「なに言ってるんですか熊谷先生。弟を侮辱されて黙ってる姉がどこにいるんですか? 大人しく聞き流すほうがどうかしてます」


 生活指導室に着くなり並んで立たされ、一人一人説教を聞かされる。けれどその中で一番鞠子が飄々としていた。悪びれるどころか開き直って言い返す始末。その態度には学年主任――熊谷も苦虫を噛み潰したような顔をする。


「大体、深く問いたださないってなんですか? そこは教師が生徒を守るところじゃない? うちの雪羽については嘘でしたけど、本当にそうだったらどうするんですか? それが辛くて居場所がなくなる子だっているんですよ。そういうのを見て見ぬ振りするのって」


「鞠子、そんなに怒んなよ。血圧上がるぜ」


「熊谷先生びっくりしてるし」


 どんどんと前のめりに声が大きくなる鞠子は、両側に立っていた雪羽と日向に慌てて押し止められる。それを振り払う勢いで鞠子は手を上げたが、さらに二人同時に抑えられた。そして諭すような視線を向けられて、唇を引き結んで小さく唸り声を上げる。


「神谷の言いたいことはわかる。だがな、こういう問題は下手に口出ししてもこじれることがある。お前たちは大丈夫だろうと思ったから問いたださないだけだ。必要ならばこちらだって黙って見ているなんてしない」


「鞠子は突っ走りすぎなんだよ。どんだけ雪羽に苦労かけんだよ」


「うるさいわね! あんただって必死だったくせに!」


「当たり前だろう!」


「ちょっと! なんで今度は二人が喧嘩するんだよ!」


 熊谷が至極真面目な顔をして語ったにもかかわらず、二人の言い争いが始まる。それが自分自身のことであるために、雪羽は身の置き所がない気分にさせられた。目の前では長いため息をまた吐き出され、雪羽を取り合いするような言葉が飛び交う。


「やっぱりあんたに雪羽はあげない!」


「うるせぇ! 雪羽は俺のもんだ!」


「黙りな小童!」


「ババァかよ」


「あー! もう! 姉ちゃんも日向も落ち着けよ!」


 にらみ合ってお互いの襟首を掴んだ二人のあいだに、雪羽は勢いよく割って入った。

 けれど一瞬ぴたりと止まった二人だったが、すぐにまた顔を突き合わせてにらみ合う。そして今度は二人いっぺんに雪羽を抱きしめる。その勢いに思わず雪羽の悲鳴が上がった。


「神谷弟、気苦労が絶えないな」


「先生! そこで達観しないで!」


 ぎゅうぎゅうと鞠子に頭を抱きしめられ、引き寄せるように日向に腰を抱きしめられる。背が高い姉も体格のいい恋人も振り払えず、雪羽は大きなため息を吐き出した。

 この子供みたいな独占欲。決して嫌ではないけれど、ひどく振り回されている気になる。


「あたしの雪羽に気安く触るな!」


「あぁ? 俺のだって言ってんだろ」


「全然聞こえませーん!」


「老化で耳遠くなったんじゃねぇの?」


「はあ?」


 ああでもないこうでもないと、そのあと延々と三十分くらいは二人の言い争いは続いた。けれど我慢の限界を迎えた雪羽の「嫌いになるからな」の一言で、日向も鞠子も電池を抜いたおもちゃのように言葉を止める。ふて腐れる雪羽のご機嫌取りは丸二日ほど費やされた。

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