異世界保険労務士ハルバ
佐賀崎しげる
第一章
第1話 転移
俺、
なってしまった。
運動神経も頭脳も程ほど、目立った欠点も無ければ目立った利点もない、どこにでも居るような三十路のおじさんだ。三十六をおじさんと言うかどうかは賛否が別れると思うが、自分がもう若くないと思ってしまったらその時がおじさんの入り口なのである。
身長は日本人にしては高い方だし、まあ多分顔も悪いってものでもない、はず。友人や同僚からの評価ではあるが。
しかし俺はどうやら気の弱さと間の悪さを天性のものとして会得していたらしく、今までの人生まったく華がなかったとまでは言わないが、特段ぱっとしたものもなかった。いやまあ別に、一人の方が気楽だしそれはそれでいいのだけれど。
「だからァ、うちの会社は労働基準法を採用してないもんで、残業代ってのは支払ってないんですわ。そこら辺どうにかなりませんかセンセイ」
「はあ……。その対応は極めて難しいかと……」
そんな俺は今、意味の分からないことを抜かすオッサンを相手に絶賛苦戦中である。
一体こいつは何を言ってやがるのか。
状況が許すのであれば思いっきりぶん殴ってやりたい気分だ。やらないし出来ないけど。
俺は社会保険労務士である。とは言っても独立しているわけでもなく、数ある中の事務所に所属しており、いわゆる会社員に分類されるやつだ。
今は顧問契約を結んでいる取引先の社長相手に面談中、のはずなのだが、何故だかのっけから話がかみ合わない。
せっかく苦労して国家資格を取得したというのに、給料は予想の二段階くらい下を潜っているこの職業。めちゃくちゃ少ないって程じゃないが、もうちょっと気軽でプチリッチな生活を想像していたのにとんだ想定外である。
そして、その仕事内容というのがこういうならず者一歩手前の悪オヤジどもとなれば、コッソリため息の一つくらい吐いてもバチは当たらないだろう。
「そこをどうにかすんのがセンセイの仕事でしょ? こっちは真面目に事業やっとるんですよ」
「いえ、ですので労働基準法というのは、企業で採用するしないというものではなくてですね……」
歳は五十を過ぎたところだろう。言葉を選んで表現するならば、大変ふくよかな身体をお持ちのおじ様がソファに踏ん反り返って座っている。その口から放たれる言葉は到底俺には理解出来ないものだった。
ダメだこのオッサン、話がまったく通じないぞ。よくこんな感覚で社長が務まるものだと、いっそ感嘆すら覚える。
真面目に事業をやっていると言うのなら、従業員にちゃんと給料を払ってほしい。日本で起業するなら日本の法律を守れこの野郎。
と、息巻いて主張出来ればどれだけ楽だったか。生憎俺にはそんな度胸も胆力も備わっちゃいなかった。
「こっちはセンセイのとこに高い顧問料を払っとるわけですよ。何とかしてもらわんと困るんですけどねぇ」
「私どもにも出来ることと出来かねることが御座いますので……」
俺の職業は何でも屋じゃないんですけど。
「とにかく、『払わない』という選択肢は非常に厳しいものになります。そもそもの時間外労働を減らすか、固定残業制などを別途設けることをお勧めします」
「だからァ! うちはそれを適用してないんですわ! 固定給以上を払うなんてことになれば、うちの会社潰れちまいますよ!」
こいつは従業員を奴隷か何かと勘違いしてんのか。そんな小学生以下の屁理屈が通るわけないでしょ。
働いた分の給料を従業員に支払えない会社などさっさと畳んでしまえ、とも思うが、まあ俺はあくまで法律に則ったアドバイスをする立場であって、責任を負う立場じゃないし、負える立場でもない。
このオッサンが従業員に刺されようと、オッサンの会社に労働基準監督署からガサが入ろうと、俺には関係ないことである。ただ一応、契約上俺はこの会社の顧問であるからして、日本の法律に則って『こうした方がいいですよ』という助言をさせてもらっているだけだ。
「えーっと……ひとまず、従業員の方に出るとこ出られてしまうと非常に厄介になりますので……」
「フン! そんな恩知らずなやつはこっちから解雇してやりますよ!」
この会社、もう長くない気がする。
やだなあ、変な飛び火だけは勘弁して欲しいところだ。
「あ゛ぁー疲れた……何なんだあのオッサンは……」
どうにかこうにか取引先の社長を宥めすかすことが出来たのは、もうどっぷりと日が暮れた後であった。
ついつい漏れ出す愚痴も程ほどに、俺は自宅のマンション近くのコンビニに立ち寄りながら、今日の晩飯と発泡酒を手早くカゴに詰めていく。今日は食欲もあまりないし、焼きそばにでもしておくか。
ここ数年、自炊はほとんどしなくなった。最近のコンビニはすげえぞ。そこそこ美味いし何でも手に入るからな。
「あー…………美味い……」
安物の発泡酒に、貧乏舌が唸りを上げる。
俺は別段貧乏な生まれでもないが、身体は大層庶民的に出来上がっていたようで。こんな出来合いの弁当と酒にもしっかりと舌鼓を打ってくれる。
「今日は特に見たい番組もないしなあ……」
さくっとメシを食らい、さっとシャワーを浴びれば後は自由時間。
ではあるが、これと言って没頭出来る趣味を持っていない俺にとって、半ば自動的に情報が入ってくるテレビという存在は意外とありがたい。
それでも見るのは情報番組が中心だけど。部屋の中にも本自体は沢山あるが、漫画とか小説とかほとんど読まないんだよな。あるのは今の仕事に必要な専門書ばっかりである。
流石に夜のフリータイムで今以上に勉強するのも気が乗らなさ過ぎる。そうなればやはり、テレビという選択肢に辿り着いてしまうのだ。
しかしながら、その手段も今日はいまいち振るわないご様子。
「…………寝るか」
そそくさと寝床に沈みながら、明日の業務予定をさっと復習。何件か面談の予定が入っているが、今日ほどのクレイジーさは無いものだと思いたい。
今の生活に満足しているかと問われれば、間違いなく否である。しかし、だからと言ってそれを積極的に打開するほどの行動力も最早持ち合わせていない。
気の合う友人は何人か居るものの、嫁さんも恋人も居ない一人きりの生活に、ちょっとした彩を期待してしまうくらいにはまあ疲れていた。人付き合いは人付き合いで面倒くさいことも多いから、一方であまり乗り気でもないんだが。
何かこう、心躍るイベントとか起きないかなあ。いや、それ自体が荒唐無稽な望みだということは理解しちゃいるんだけども。
いかんな、どうにも今日は疲れが酷い。こういう日はさっさと眠ってしまうに限る。
目覚めたら楽な仕事で楽に稼げるいい職業に恵まれたりしないかな。
ないか、そんな都合のいい話。
じゃあな、おやすみ世界。また明日。
「………………は?」
翌日。
玄関を開けて外に出たら、目の前が洞窟だった。
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