引く手あまた

 茉白と静に連れられて、晴成は安静を言い渡されていた部屋へ帰還する。空になった布団はとうに畳まれており、座して待機していた芳親が、三人を出迎えた。


「……おか、えり」

「待たせた、すまぬな。……さて」


 手短に挨拶を済ませると、最後に入った晴成は、廊下に人影が無いことを確認してから戸を閉じる。若人四人が揃った室内には、背筋が伸びるような空気が満ちていた。


「静、どうだった。志乃の精神状態は」

「安定していた、けれど。……曇っていたし、穴が空いていたわ」


 車座に、苦い声が落ちる。志乃が見抜いていた通り、静は直武の依頼を受け、精神状態を視るべく茉白に同行していた。静自身、卜占ぼくせんの結果が気になったこともあって、申し出たという背景もあったが。


「志乃の心の風景は蔵と雪原だけど、どちらの風景も酷く荒れていた。正確に言うなら荒れた後、かしら。もう既に、色んなことを考えた後で、出た答えを受け入れている。でも、どちらにも穴が空いていて、そこから全て抜け落ちてしまっていきそうなの」

「……それ、は……妖怪側、の、本能……に、関係、ある?」


 じ、と相手を見つめる牡丹色の目に問われ、静は真剣な顔のまま頷いた。


「実は、穴の先も見えたのだけれど。その先で、志乃の心の風景が一つ増えていたわ。川を挟んで向こう岸に、志乃が立っている、そんな風景。真っ暗な空に音もなく雷が走っていて、不吉な感じだった」


 不安げに眉根を寄せて、静は一瞬、蒼穹の目を伏せる。立っていた志乃の姿を思い返していた。青白に光る目をして、どこも見ていなかった鬼の姿を。流れてくるものも、通り過ぎていくものも、落ちて消えていくものも、何一つ見ていない空虚な姿を。


「あの志乃には角が生えていて、目も青白く光っていたから、きっと妖怪としての姿だと思ったのだけれど……合っているかしら」

「うん。……晴成、も、見た、よね」

「ああ。だが、妖怪の姿で風景にいるということは、人間側の心象ではなく、妖怪側の心象が新たに現れたということか」

「そうだと思うわ。今までの志乃は、自分の中に人間と妖怪の区別を持っていないか、持っているけどあまりに希薄かで。今回の件で、それをはっきり自覚せざるを得なくなったのかもしれない」


 志乃の中で、変化が起こっているという事実。けれどそれが、彼女にとってどういう影響をもたらすのかは、この場の誰にも分からない。


「あの、一つよろしいですか」


 黙って話を聞いているだけだった茉白が、ぐるりと全体を見回して声を出した。


「志乃は、利毒から精神に対して攻撃を受けています。その際には毒も使用されていて、痕跡も残っている。私が診断した限りでは、もう毒は残っていないはずだけれど、遅効的な作用がまだ働く可能性があります。相手はこちらに、自らの研究を提供しているとはいえ、人間ではありませんから。警戒しておくに越したことは無いかと。それから……」


 言いかけて一度止まったのち、「精神的な話では、ないんですけれど」と、歯切れ悪く続ける。白の眉がわずかに寄せられ、難しそうな表情を作り出していた。


「既に報告も済ませてありますが、志乃の体には、ほんの少し、おかしな所があるというか。ただ、具体的にどこが、とは言えなくて。静様のおっしゃった『穴』のようなものかもしれないですし、別の何かかもしれない」

「何か、感じ取るものはあったのだな」

「ええ。言葉にできないのがもどかしいけれど、志乃自身にも何かある。それが今後、彼女に悪影響をもたらすかもしれません」


 南天のごとき赤眼が、強い光を宿している。きっぱりとした口調にも迷いはなく、茉白は凛然と背筋を伸ばしていた。


「……なら。僕が、ちゃんと、見ていなきゃ」


 連鎖のように、芳親もまた背筋を伸ばした。牡丹色の双眸も、強い光を宿していたが、もろさを感じる陰も入り混じっている。


「それは勿論だが、思いつめるな、芳親」


 目敏く見抜いた晴成が告げて、しかし自嘲めいた笑みを浮かべる。


「己の行いが原因だとは重々承知だが、其方もまた危うく見える」

「ん……でも……僕も、人の心を、ちゃんと、理解できない時、ある、から。……気を付けるに、越したこと、ない。それに」


 

 後続の言葉は紡がれることなく、代わりに「何でも、ない」の一言が蓋をした。経験に裏打ちされた茉白の勘と異なり、自分でもまだ不明瞭な情報だったが故に。


「……とにかく……今の、志乃は、危ない。……妖怪側に、傾く、かも、しれない。……そうならない、よう、僕が……、……僕たちで、繋ぎ止める」

「ああ。己たちは、志乃の友だからな」


 にっ、と歯を見せて笑う晴成に、他の三人も笑みを浮かべる。芳親に関しては、誇らしげな色も混ざっていた。

 友という存在に恵まれたとはいえ、友に何かをもたらすことは、ほとんど初めて。自分にできることなら、どんどんやっていきたい。志乃と似たような空虚を抱いていた芳親にも、前向きで明るい意欲が沸き起こっていた。

 緊迫で張り詰めていた空気が緩んだところで、ふと、男二人が何かに気付いたような顔をする。「誰か来るようだな」と晴成がつぶやくや否や、間もなく襖の先に気配がやって来た。

 先行して入って来た「失礼いたします」の声は、紀定の物。「入られよ」と晴成が応じれば、涼やかな好青年が姿を現した。


「皆様、お揃いでいらっしゃいましたか。それぞれ召集が掛けられておりますので、お呼びに参りました。芳親殿と茉白殿は兼久殿が、晴成殿と静殿は靖成殿がお呼びです」

「ふむ。では、この場はお開きということだな。芳親、茉白、我々はこれで失礼いたす。行こう、静」


 あっさりと別れを告げるなり、晴成は静を伴って、一足先に退室した。靖成が使用している部屋は、兼久が使用している部屋とは別方向にあるため、後から退室した芳親たちとは離れていく。


「……やっぱり、悔しいわね。所詮、私は見えるだけで、誰かの心を救い上げることなんてできない」

「そういうものだ、仕方あるまい」


 角を曲がった先。静があらわにした思いに、晴成の返答は素っ気ない。


「他者の心を毎回、完全に救える者などおらぬ。そもそも、心とは他者が救おうとして救えるものではない。せいぜい、打開の切っ掛けを与えるくらいだ」


 歩きながら、けれど時折、妹の顔を見ることを忘れず、晴成は続ける。


「気に病むな、静。お前の力もまた、切っ掛けを与えるものだ。気付かなければ、分からなければ、救えぬまま消えていくものも数多ある。お前はそれを防いでいるのだ。その時点で、既に救いの一段階を果たしていると言えよう」

「……ふふ。兄さまは、人を照らすのがお上手ね」


 静もまた兄を見上げて、微笑んだ。彼女にはずっと、青空が見えている。晴成の中に広がる、雲一つない晴天が。

 星永家の人間は、心を平静に、正直に保つよう育てられる。天巫女姫たる静に、負担が掛からないように。静はこれまでにも、兄姉けいしいだく様々な空に励まされてきた。だからこそ、兄姉に災禍が降りかかることのないよう、祈り続けてきた。

 卜占や神託を受けることにより、静は兄姉たちに関することも予知できる。いたちによる異変の報告も上がっていた弥生の頃には、晴成に影響をもたらすものとして、志乃の存在も予知していた。

 吉凶どちらをもたらすか分からない存在だったことや、宏実の報告を聞いての印象が先行していたこともあり、静はずっと志乃を恐れていた。友好を結ぶことができて、笑い合うこともできたけれど、一抹いちまつの恐怖を拭い切れずにいる。

 しかし今、静の内側を占拠していのは、志乃に心の底から笑ってほしいという願い。志乃の心を空っぽにしていく穴が、塞がってほしいという願い。


「兄さま。私が何もできない代わりに、志乃のこと、助けてあげてちょうだいね。私のお友だちでもあるのだから」


 これから先、妖雛の志乃を恐れる気持ちが消えないまま、膨れ上がっていくとしても。友だちを助けたいという気持ちが消えることは、決してない。

 天色あまいろを宿した目を上げれば、晴成の微笑が見える。その心側うらがわを見ずとも、静の気持ちが伝わっていることは、容易に察せられた。


「無論、心得ているとも」


 快晴の笑みと声で、晴成は当然と言わんばかりに、静から願いを受け継いでくれる。何度も見上げてきた藍色に、静は改めて祈った。


 ――どうか、この空が友を導いてくれますように。


 ***


 橙路とうじ府の南隣、碧原へきげん府。水葉洲みずはのしまの東側に位置するそこは、東で最も大きな都を有している。かつて起こった北への侵略〈征北せいほく〉をはじめ、彩鱗国いろこのくにの歴史に深く関わってきた場所だ。

 府の中央に位置する武咲たけさき郡、江営こうえい。かつては政権も置かれていた、洛都らくとに並ぶ水の都――と、同じ位置に広がる幽世。明けない夜を華燭かしょくで照らし謳歌する、魑魅魍魎ちみもうりょうの宴会場を、高楼から見下ろす漆黒の鬼が一人。


「利毒が来たぞ、風流人気取り」


 常に不機嫌な声で呼ばれ、全身を黒で包んだ鬼は振り返る。黄金こがねの双眸が新たに映したのは、上品な調度が揃う室内と二つの影。一つは、雲水姿に端厳たんげんとした顔つきの鬼。もう一つは、いびつな形の角を生やした、男か女か分からない容姿の鬼。


「やあ、利毒。お仕事お疲れさまぁ」

「ンフフ、身に染みるお言葉、ありがとうございます。出先で酷いことを言われてしまいまして、悲しくて仕方がなかったのですよぉ」

「それは辛かったねぇ」

「えぇもう本当に辛くて悲しくて……よよよ」

「くだらん茶番をするな、化け物どもが」


 空虚な笑顔と不気味な笑顔の応酬を、苛立ちのこもった鋭利な声が両断する。けれど、切られた鬼たちは変わらず笑いながら、部屋の中央に設けられた席に着いていた。


「ァはは、失礼いたしました。お求めの情報はこちらになります。アナタにとって有益なものかは分かりませんが」

「有益だよー。確認のために必要だからねぇ」


 長机にすべらされた紙を受け取り、目を通しながら笑う雷雅。ただ無邪気なだけの笑みは、それでも武器と呼べるほどに美しく、利毒はまぶしげに見つめていた。


「志乃殿と長く過ごされているアナタであれば、あの方の体に不自然を見つけるのも容易でしょうねぇ。しかし、そこから真実へ難なく辿り着けてしまう頭脳には、畏敬の念を抱かざるを得ません」

「君より情報をたくさん持っててー、長生きでー、本腰を入れてるからー、そう見えるだけだよぉ。やりたいこともあるしー……あ、おまけも付けてくれたんだねぇ、ありがとー」

「どういたしまして」


 笑みを絶やさずにいる鬼たちは、当然のように微笑み合った。綺麗なだけで情を伴わない微笑は、精巧な仮面を思わせる。


「さて、ワタクシはこれで失礼いたします。ワタクシも得たいものを得られましたので、ンフフフ早く研究に生かしたくてたまらないのです」


 恍惚の混じる表情を咲かせて、利毒はゆっくりと立ち上がった。夢見るような梅紫うめむらさきの瞳と、黄昏たそがれの始まりと同じ色をした瞳が、音なき一瞬のやり取りを済ませる。


「改めまして、雷雅殿。此度こたびはよろしくお願い致しますねぇ」


 返事を聞くことなく、紫の鬼はするりと歩いて退室した。下界の喧騒も遠く、静まり返った部屋の中に、雷雅のくぐもった笑い声が落ちる。


「楽しみだなぁ。心が躍るって、こういう感じなのかなぁ」

「趣味の悪い。千年経っても醜いな、お前は」

「そう言う風晶は、相変わらず真面目で綺麗好きだねぇ」


 壁に背を預け、きっちりと正座をしたままの風晶に、雷雅はゆっくりと寄っていく。


「俺への怒りだとかぁ、憎悪だとか。頑張って忘れないようにしてるのもー、全然変わらなくてすごいよねぇ。捨てたら楽になれるのにさぁ」

「近寄るな」

「えー。俺と風晶の仲じゃない。傷ついちゃったぁ、慰めてー?」

「黙れ」


 端正な顔立ちを不快に歪めて、風晶は風の刃を飛ばす。すぐ間近まで寄っていた雷雅は、怪我こそしなかったものの、寄るのをやめて座り直した。


「あははぁ。それでも俺はねぇ、風晶のこと大好きだよぉ。大好きだからぁ、こっちに引きずり込んだんだものぉ」


 睨まれることすら楽しそうに、黒と金の鬼は笑う。あでやかな美しさを保ったまま、それどころか更に、怖気さえ覚える美麗を増していく。


「そんな風晶に加えてー、志乃までこっちに来たらーって思うとさぁ……あはは、そんなの、とっても楽しいに決まってるよねぇ! 困るなぁ、完全に引きずり落としちゃいけないしぃ、それは今じゃないからぁ、頑張って我慢しなくっちゃあぁ」


 陶酔に満ちた声が、狂った調子で言葉を奏でる。相手の意思などお構いなしに入り込んで、脳を揺さぶり心も揺さぶる。


「あぁ、本当……風晶のことも、志乃のことも、大好きで困っちゃうなぁ。ねぇ……だいすきだよ、あいしてるよ。二人とも、とってもねぇ」


 誘惑を詰め込み、さらに包んだ言葉の箱。鬼の欲を吐き出しただけの塊は、誰にも受け取られることなく落ちて、嫌な余韻を残し消えていった。


「お前の言うこと成すことに、愛などない。お前がその言葉を真に使える時など、未来永劫、訪れはしない」

「そうかなぁ。……あぁ、でも。風晶は、そんな俺を憐れんでるんだよねぇ。あははぁ、変わらないなぁ。そんなんだから、ぜーんぶ俺に奪われちゃったのに」


 しかつらで、静かながらも吐き捨てるように言う風晶のことも、雷雅は笑った。いとおしそうに、あざけるように。ところが、けらけら笑っていたのは束の間、「はあ」とため息を吐く。


「すーぐたかぶっちゃうの、何とかしなきゃなぁ。散歩でもしてこようかなぁ」

「お前にしては妙案だな。とっとと失せろ」

「あははぁ、それじゃー、ちょっと歩いて来るー」


 先ほどまでの狂態が嘘のように、雷雅はさっさと立ち上がると、開放したままの窓からひらりと外へ出た。着地先は地面ではなく、別の建物の屋根。そのまま屋根伝いに歩き出し、散策を開始する。

 ありとあらゆる娯楽で埋め尽くされた、妖怪の街を挟んで。雷雅が滞在している高楼と向かい合うように、街を見下ろす楼閣がそびえ立っている。巨大な月など意にも介さず、利毒が造り上げた不夜城が輝いている。

 だが。喧騒も不夜城も、天上の月も、雷雅の眼中に入らない。その気になれば国さえ傾けられる鬼の双眸は、遠く現世の橙路府へ向いている。


「早くこっちにおいで、志乃」


 闇の底へと招く静かな声、鬼が昂りを鎮めるための呟きは、喧騒の裏に隠れて消えていった。

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