真夜中の説教
会談を終えて一足先に帰ることとなった直武を、中谷が玄関まで送った。玄関で向き合った老紳士に、正座をした彼は深々と頭を下げる。
「妹分が、ご迷惑をおかけいたしました」
「いやいや、とんでもない。楽しませてもらったからね。素直で明るくて、可愛らしい子だ。少々、空虚なところがあるようだけれど」
何気なく、しかし聞こえない程ではない声量で付け加えられた言葉に、中谷が顔を上げる。微笑から読み取れるものは無いが、直武の目には、他者の心情を容易く見透かせてしまえそうな何かがあった。
「でも、辻川君を含めて、君たちは彼女を大切に思っているんだね。道中で会った、山内君もそうだったよ」
「……あれも無礼をいたしましたでしょう」
「うーん、私は気にならなかったよ。あの子の長所でもあるんだろうし、志乃君についてもそうだ」
ずっと無表情の中谷に、直武はくすりと笑んで見せる。
「君の長所は、そんな彼らを引き締められる真面目さや、誠実さなんだね。素晴らしいけれど、時にはお手柔らかにしてあげるのも大切だよ」
「……はい。助言、痛み入ります」
優しく目元を緩めた後、直武も一礼して
彼の部屋は、生活感がまるで感じられないほどに簡素である。志乃はその中で、
中谷が志乃の前に堂々と鎮座した。傍から見ると、二人は罪人とそれを裁く
「さて、志乃。どうして呼び出されたのか、分かるか」
一切の感情が読み取れない声に、再び志乃の肩が震える。
「……お客様の前で、気を引き締めるのが遅すぎたから、です……」
「そうだ。
冷たい声が空気を凍らせ、
説教が終わる頃には、志乃は凍ってしまったかのように固まっている。さすがの中谷も、その姿に何も感じないわけではないのだが、だからと言って何をしてやるということもない。
が、しかし。
――時にはお手柔らかにしてあげるのも大切だよ。
「……だが、緩んでいるだけで、成長はしている。そこは褒めよう」
直武に言われたことが蘇った時には、そんな言葉が零れていて。彼らしからぬ言葉を聞いた志乃は「えっ」と驚いた声を上げ、驚き一色に染まった顔も上げていた。
「い……よろしいのですか、兄貴」
「ああ。そもそも、お前には十一年間同じことを言い続けてきたから、今さら厳重な注意は必要も無いだろう」
言い終えると、志乃は鼻から大きく息を吸い、「あぁぁぁ」という声と共に吐き出して畳に突っ伏す。流れるように足も崩すが、中谷の方は微動もせず、彫像のように鎮座していた。
「ああ、それと」
「まだ何かありましたか!?」
ゆるゆると身を起こし、姿勢を直す途中だった志乃は、大袈裟なほどびくりと肩を跳ね上がらせる。が、中谷は「違う」と冷静な、けれど苛立ちも少しだけ含んだ即答をぶつけた。自分の態度が原因の反応ではあるが、大仰すぎて呆れてしまう。
「成り損ないを倒してから来たんだったな」
「へ? あぁ、はい。暴れる獣を抑えた程度のことですので、すぐ終わらせて、山内の兄貴に後始末をお願いしましたが」
説明する志乃は引きつった笑みを貼り付けているが、何か不手際があっただろうかと案じているのが丸分かりだった。中谷が小さくため息をつくと、彼女の顔から血の気が引いていく。
「志乃」
「う、は、はい」
新たな説教の気配を察知し、身を縮めて俯く志乃だったが、中谷はその頭にぽんと手を乗せた。
「……、……あ、あれ?」
何が起こっているのか分かっていないらしい声が、彼女の混乱を克明に伝える。あまりにも慌てている様子が、貴重な中谷の笑みを引き出したのだが、志乃がそれを見ることは無かった。
「ご苦労。よくやったな」
けれど、声は僅かに柔らかくなったままである。やがて志乃も、褒められ、かつ撫でられていると察したようで、次第に肩を震わせ始めた。
「……えへへ、にぇへへ、えーっへっへっへへ」
「間抜けな笑い声を出すな」
「うぐっ、すみません……、……えへへへ」
だらしない笑い声に中谷は顔をしかめたが、撫でる手は止めない。撫でられれば撫でられるほど、志乃は頬を緩ませ、間抜けな笑い声を上げていた。
褒められたことに浮かれ、また説教を受けたものの、志乃は満面の笑みで部屋を後にした。中谷から褒め言葉を貰い、しかも頭を撫でて貰えるというのは貴重で、故にこそ嬉しくてたまらない。
退室した際、「浮かれ切った顔を直してから任務に戻れ」と言われていたのだが、緩みに緩んだ顔が戻る気配は全くなかった。
「お? 志乃じゃないか」
弾むような足取りで、玄関に戻って来たところに声がかかる。声の主は、短すぎるほどの短髪の女性。
「これは、
「ちょーっと酒を飲みたくなったから、飲んでた」
ニカッ、と笑って見せる男勝りな女性、
「また津田の旦那に怒られますよぉ、姐さん」
志乃は初枝の弟である津田
「いつものことだよ。仕事が入れば、あいつが強制的に酔いを醒ましてくれるから」
「それでまた、津田の旦那の愚痴が増えるんですねぇ」
「そうそう。あはははは!」
大きめな笑い声が、静謐な廊下を伝って屋敷に響き渡っていく。直後、誰かがこちらへ走ってくる足音が、荒れ狂った
「――このクソ姉貴、また酒飲みやがったな」
足音が初枝の背後で止まったかと思うと、荒い呼吸と共に、地を這うような低い声が落ちる。身内に向けるものではない声で初枝を罵倒したのは、つい先ほど話題に上げられた津田幹次だった。
「おー、幹次。お疲れぇ」
「何がお疲れだボケが! てめぇの酔い醒まししなきゃならん俺の身にもなりやがれ!」
元々目つきが悪い目をさらに鋭くして、津田は姉の胸倉を掴んで揺さぶる。初枝は声を上げて笑い、そうされるのを楽しんですらいた。
このやり取り、見回り番名物とまで言われるほど、団員達には馴染みのある応酬である。志乃にとっても見慣れた光景である上に、姉弟の仲の良さが分かる光景でもあるため、止めることなく笑顔でそれを眺めていた。
「いやぁ、お疲れ様です、津田の旦那ぁ」
「あぁ? ってお前か、志乃。いま俺に労いの言葉を掛けるな、腹が立つ」
眼鏡の奥からぎろりと睨まれても、志乃は初枝同様、へらへらと笑ったまま。津田も機嫌が悪い時、というか平時でも年下から怖がられているのだが、志乃は一度も怖がる素振りを見せたことがない。
「……ん? いや待て。何でお前ここにいるんだ。今の時間帯は巡回中だろ?」
「あぁ、はい。お客さんをこちらへ案内したので、一旦、巡回の任務は中断していたのです。その後、少しばかり会談に参加して、中谷の兄貴ともお話を」
「何だ、また馬鹿やらかして雷くらったのか」
「いいえー。それどころかぁ、褒めていただいたんですよぉ、えっへへへへへぇ」
「うっわ、腹立つな、その顔」
思い出したせいでさらに緩んだ志乃の笑みに、津田は中谷より顔をしかめ、嫌なものを見たと言わんばかりの目を向けた。対して初枝はけらけらと笑っている。
「なぁに、志乃、褒められたの? 良かったじゃん」
「えへへへ、はい、良かったですよぉ」
「
「はぁい。じゃ、志乃、頑張ってねー」
弟に引きずられて行きながら手を振る初枝に、志乃も手を振り返す。同じ浮かれ具合の人物に会ったせいで、結局、いつもの調子を取り戻すまでに半刻を要するのだった。
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