真夜中の説教

 会談が終わるなり、直武は宿場町へと戻ることになった。老紳士を玄関まで送った中谷は、上がりかまちに正座をして深々と頭を下げる。


「妹分が、ご迷惑をおかけいたしました」

「いやいや、とんでもない。楽しませてもらったからね。素直で明るくて、可愛らしい子だ。少々、空虚なところがあるようだけれど」


 何気なく、しかし聞こえない程ではない声量で付け加えられた言葉に、中谷は顔を上げた。微笑から読み取れるものは無いが、直武の目には、他者の心情を容易く見透かせてしまえそうな気配が溶け込んでいる。


「辻川君を含めて、君たちは彼女を大切に思っているんだね。道中で会った、山内君もそうだったよ」

「……あれも無礼をいたしましたでしょう」

「気にならなかったよ。あの子の長所でもあるんだろうし、志乃君についてもそうだ」


 ずっと無表情の中谷に、直武はくすりと笑んで見せる。目の端に寄ったしわが、表情に慈しみの色を添えていた。


「君の長所は、そんな彼らを引き締められる真面目さや、誠実さなんだね。素晴らしいけれど、時にはお手柔らかにしてあげるのも大切だよ」

「……はい。助言、痛み入ります」


 優しく目元を緩めた後、直武も一礼してきびすを返す。綺麗な後ろ姿を見送ってから、中谷は志乃が待つ自室へと向かった。

 中谷の部屋は生活感が薄い。そこに、中谷よりも部屋に生活の気配を漂わせない少女が待機している。人間よりも感覚を鋭敏にできる少女は、中谷の足音など早くに聞き取って、大人しく縮こまっているだろう。

 果たして、中谷の想像通り、引き戸を開ければ項垂れた志乃の姿が現れた。部屋の主が戻って来ても、目の前に座っても顔を上げず、けれど肩はびくりと震えている。


「さて、志乃。どうして呼び出されたのか、分かるか」


 一切の感情が読み取れない声に、再び志乃の肩が震える。傍から見ると、罪人とそれを裁く閻魔の一場面を切り取ったようだ。


「……お客様の前で、気を引き締めるのが遅すぎたから、です……」

「そうだ。麗部うらべ殿は寛容な方だから、気にしていないと仰っていたが、その言葉に甘えてはならない。お前はただでさえ気を引き締めるのを不得手としているのだから尚更だ。それから――」


 冷たい声が空気を凍らせ、うつむいた志乃の頭には無情な視線が刺さっていく。どれだけ怒っているのかが分かりづらい声音や調子と、体の芯まで凍らせてくるようなこの空気こそ、暢気な少女が恐れるようになったものだった。恐れなんてものが志乃にあるのかどうか、中谷は今でも疑わしく思っているが。

 疑心も傍らに説教を終える頃には、志乃は凍り固まっていた。犬の尻尾めいた黒髪も、心なしか落ち込んだように見える。さすがの中谷も、小さく丸まる年下の姿に何も感じないわけではないが、だからと言って何をしてやるということもない。

 けれど。


 ――時にはお手柔らかにしてあげるのも大切だよ。


「……だが、緩んでいるだけで、成長はしている。そこは褒めよう」


 直武に言われたことが蘇った時には、そんな言葉が零れていて。らしくないと本人でも思う言葉に、志乃は「えっ」と驚いた声を上げ、驚き一色に染まった顔も上げていた。


「い、じゃない。よろしいのですか、兄貴」

「……ああ。そもそも、お前には十一年間同じことを言い続けてきたから、今さら厳重な注意は必要も無いだろう」


 出てしまったからと言い終えると、志乃は鼻から大きく息を吸い、「あぁぁぁ」という声と共に吐き出して畳に突っ伏す。流れるように足も崩すが、中谷の方は微動もせず、彫像のように鎮座していた。


「それと」

「まだ何かありましたか!?」


 ゆるゆると身を起こし、姿勢を直す途中だった志乃は、大袈裟なほどびくりと肩を跳ね上がらせる。が、中谷は「違う」と冷静に、苛立ちも少しだけ含ませた即答をぶつけた。自分の態度が原因の反応ではあるが、大仰すぎて呆れてしまう。


「成り損ないを倒してから来たんだったな」

「へ? あぁ、はい。暴れる獣を抑えた程度のことですので、すぐ終わらせて、山内の兄貴に後始末をお願いしましたが」


 説明する志乃は引きつった笑みを貼り付けているが、何か不手際があっただろうかと案じているのが丸分かりだった。中谷が小さくため息をつくと、彼女の顔から血の気が引いていく。


「志乃」

「う、は、はい」


 新たな説教の気配を察し、身を縮めて俯く志乃の頭に、中谷は顰め面で手を置いた。結い上げられた黒髪がぼさぼさになってしまうのも構わず、不器用に撫で回す。


「……、……、んえ?」


 何が起きているのか分かっていない間抜けな声が、志乃の混乱ぶりを伝えてくる。あまりにも慌てた様子は、中谷の貴重な笑みを引き出したのだが、志乃がそれを見ることは無かった。


「ご苦労。よくやったな」


 けれど、声は僅かに柔らかくなったまま。やがて志乃も、褒められ、かつ撫でられていると察したようで、次第に肩を震わせ始めた。


「……えへへ、にぇへへ、えーっへっへっへへ」

「間抜けな笑い声を出すな」

「うぐっ、すみません……、……えへへへ」


 だらしない笑い声に中谷は顔をしかめたが、撫でる手は止めない。撫でられれば撫でられるほど、志乃は頬を緩ませ、間抜けな笑い声を上げていた。




 褒められたことに浮かれて再び叱られたものの、志乃は満面の笑みで部屋を後にした。中谷から褒め言葉を貰い、しかも頭を撫でられるなんて大盤振る舞い、嬉しがらずにはいられない。嬉しいなんてそうそう沸き起こるものではないから、なおさら。

 退室した際、「浮かれ切った顔を直してから任務に戻れ」と言われていたのだが、緩みに緩んだ顔が戻る気配は全くなかった。戻らないものは仕方がないと、完全に開き直った志乃を止める者は、どこにもいないと思われたが。


「お? 志乃じゃないか」


 弾むような足取りで玄関に着いたところへ、声がかかった。声の主は、揺れない上に流れない短さの黒髪を整えた女性。


「これは、初枝はつえ姐さん。こんばんは。どうなさったんですかぁ?」

「ちょーっと酒を飲みたくなったから、飲んでた」


 浮かれた志乃にさっぱりとした笑顔を返す女性、津田つだ初枝は、第一屯所に併設された医療施設〈白灯堂はくとうどう〉に姉弟で勤める医者。見回り番の中では、志乃以外にいる唯一の女性でもある。酒と賭博を好むせいで、医者だと信じてもらえないという致命的な欠点持ちだが、断じて藪医者ではない。むしろ名医だ。


「また津田の旦那に怒られますよぉ、姐さん」


 弟である津田幹次みきつぐの名前を出されても、酔っぱらいの女医は笑みを崩さない。初枝は怒られることなど気にしないからだが、志乃の言い方が緩すぎて忠告になっていないのも一因だろう。


「いつものことだよ。仕事が入れば、あいつが強制的に酔いを醒ましてくれるから」

「それでまた、津田の旦那の愚痴が増えるんですねぇ」

「そうそう。あはははは!」


 大きく豪快な笑い声が、静謐な廊下を伝って屋敷に響き渡っていく。直後、誰かがこちらへ走ってくる足音が、荒れ狂った波濤はとうのように聞こえてくる。


「――このクソ姉貴、また酒飲みやがったな」


 足音は初枝の背後で止まったかと思うと、荒い呼吸と共に、地を這うような低い声が落ちる。身内に向けるものではない声で初枝を罵倒したのは、つい先ほど話題に上げられた津田幹次だった。


「おー、幹次。お疲れぇ」

「何がお疲れだボケが! てめぇの酔い醒まししなきゃならん俺の身にもなりやがれ!」


 元々目つきが悪い目をさらに鋭くした幹次は、姉の胸倉を掴んで容赦なく揺さぶる。初枝は声を上げて笑い、そうされるのを楽しんですらいた。

 このやり取り、見回り番名物とまで言われるほど、団員達には馴染みのある応酬である。志乃にとっても見慣れた光景である上に、姉弟の仲の良さが分かる光景でもあるため、止めることなく笑顔でそれを眺めていた。


「いやぁ、お疲れ様です、津田の旦那ぁ」

「あぁ? ってお前か、志乃。いま俺に労いの言葉を掛けるな、腹が立つ」


 眼鏡の奥からぎろりと睨まれても、志乃は初枝同様、へらへらと笑ったまま。津田も機嫌が悪い時、というか平時でも年下から怖がられているのだが、志乃は一度も怖がる素振りを見せたことがない。


「……ん? いや待て。何でお前ここにいるんだ。今の時間帯は巡回中だろ?」

「そうですがぁ、お客さんをこちらへ案内したので、巡回の任務は中断していたのです。その後、少しばかり会談に参加して、中谷の兄貴ともお話を」

「何だ、また馬鹿やらかして雷くらったのか」

「いいえー。それどころかぁ、褒めていただいたんですよぉ、えっへへへへへぇ」

「うっわ、腹立つな、その顔」


 思い出したせいでさらに緩んだ志乃の笑みに、津田は中谷より顔を顰め、嫌なものを見たと言わんばかりの目を向けた。対して、初枝はけらけらと笑っている。


「なぁに、志乃、褒められたの? 良かったじゃないの」

「えへへへぇ、はぁい。良かったですよぉ」

阿保面アホヅラで会話すんな浮かれ女ども。志乃はとっとと顔戻して巡回行きやがれ。姉貴は酔い醒ましてやっから来い、っていうか行くぞ」

「はいよぉ。じゃ、志乃、お勤め頑張るんだよぉ」


 弟に引きずられながら手を振る初枝に、志乃も手を振り返す。同じ浮かれ具合の人物に会ったせいで、結局、いつもの調子を取り戻すまでには半刻を要するのだった。

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