冬 - 憧憬

 左どなり。誰もいない。


 目の前。夜と白。雪面。アスファルトに、積もった雪。


 積もった雪のなかを歩く、自分の足音。


 夜。街灯の灯りに押されながら、歩く。スカートじゃなくてよかった。


 空。また、雪が降ってきそうな暗さ。今はまだ、降ってない。


 これまで普通に生きて、これからも普通に生きる。それを、ときどき許せなくなる自分がいた。

 そうなるといつも、外に飛び出して歩く。ただ、歩いた。何も求めず、しかし何かを探しながら。


「ふう」


 ふと見た左側。自販機。


 コーヒーを買う。あたたかい。外套が、ほとんど夜と雪の冷気を遮断していた。冷たいのは、手だけ。


 ほんとうに、手だけなのか。もっと冷たいものが、身体の奥深くで固まっていないか。融けず、見えず、分からずに。


「わたしは、だれ」


 最近よく聴くようになった曲を口ずさみながら、歩く。私はどこへ行くのだろう。何が待っているのだろう。


「わたしは、なぜ」


 歩くのか。


 わかっている。理由は、押し込めているけど、ある。目的も。


 普通の家に生まれた。

 成績も普通。

 中学のときは、意味のない希望や、自分が素晴らしい人間かもしれないと錯覚したこともあったけど、すぐに消えた。


 恋人はいる。

 いるだけ。

 情熱的な何かがあったわけでもなく、ただ単に、気付いたら一番近くにいた人間だった。それだけ。左利きであること以外は、特に印象の残らない人。並んで歩くと、だいたい恋人は左どなり。左利きだからだろうか。


 働きはじめて、自分が普通の人間と違う感性を持っていることに気付いた。

 単調な繰り返しに、変則的な模様を付ける。規則のないものに、規則性を持たせる。そうやって、そこにないものを作り出す。

 それだけの才能で、デザイナーをやっている。ただ、それだけ。


 恋人の仕事は、知らない。仕事熱心らしい。帰宅時間は私よりもずっと遅い。そして、朝も遅い。


「あ、チョコ出しっぱなしだ」


 思い出した。リビングの机の上。


 恋人の実家が暖房器具の故障による火事で燃えていたので、マンションでは一切ストーブを使わずエアコンだけ。そのかわり、そのエアコンは効きが良く空気清浄機能付きのもの。いつ帰っても、すぐ、暖かい部屋にできる。そして、恋人はおそらく寝ている。


 何も告げずに外套だけ持って外に飛び出した。その直前まで、私はチョコを食べていた。たぶんエアコンが、それを融かす。


 恋人とのなれそめは、火事だった。


 私も恋人も十七のときだっただろうか。


 そう、こんな雪の日。

 

 その火事に最初に気付いたのは、私だった。家が焼ける情景は、いまも思い出すことができる。


 火事で焼け出されて、家族は警察や消防に連れていかれて。どうしようもなくて途方に暮れていたその人を、私の両親が一晩泊めてあげた。まだ恋人になる前だったその人は、とても礼儀正しかった。頼りなげだったけど。

 何かやってた方が気がまぎれると、止めようとする両親を制して、その日の炊事洗濯全てをこなした。


 そして、夜。寝る前にその人を見に行ったら、与えられた部屋の隅で、膝を抱えて一人で泣いていた。

 私が見ていることに気付くと、慌ててお布団に入って寝ているふり。

 泣いてていいですよって言ったら、また部屋の隅に行って膝を抱え、静かに泣く。


 それを、私は一晩中、見てた。


 それから、頼りなげなその人を、学校でことあるごとに観察するようになった。


 そして、ある日。いつものように学校でその人を見ていたら、その人がお弁当を地面に落とした。どこからか飛んできたボールが、その人に当たったからだった。でも、彼は、おこらずに、お弁当を拾っていた。


 私は、近づいて行って。私のお弁当を半分あげた。ただでさえ少ないお弁当が、さらに半分になって、悲しかった。次の日、その人は私に近付いてきて。昨日のお礼だと言って、手作りのお弁当を私にくれた。


 おいしかった。


 お弁当の他にデザートも要求したが、おせんべいしか出てこなかったのも、よく覚えている。その人は、甘いものを食べない。


 その日から、その人はいつも私のお弁当を作ってくれるようになった。毎日のお弁当が二倍になって、うれしかった。その人は左利きだからなのか、常に私の左隣にいる。卒業した後から同棲していた。今でもお弁当は作ってもらっている。


「融けちゃうな」


 恋人は、甘いものを食べない。


 そこそこ良いチョコだった。


 立ち止まる。


 家に戻ろうか。今ならまだ、チョコが融ける前に、冷蔵庫へかえすことができる。


 そこではじめて、自分の気持ちに気付いた。


「わたし、戻るつもり、ないんだ」


 自分の中にある、何かが、動いた。それまで見えなかったもの。わからなかったもの。


「冷たい。とっても、つめたい、気持ち」


 自分の中にあって、気付かなかったもの。冷えている感情。


「いなくなりたい」


 なくなってしまいたい。ただただ、自分という存在を、なくしてしまいたい。


「からだじゃない」


 こころのなかにあった。閉じ込めておいた感情。自分が消えることへの憧憬。


 しゃがみこんだ。


 いま、部屋に戻れば、なにもなかったことにできる。チョコを冷蔵庫に戻し、恋人が寝ている暖かいベッドにもぐりこんで、明日を待つ。仕事はいつも通りだから、行っても行かなくてもいい。デザイン自体は数日前にできあがっているし、あとは材質を確かめてもらうだけ。恋人が起きるまで寝ていられる。


 そこに、なんの魅力も感じなかった。


 恋人は私がいなくても生きていけるし、もともと、そんなにお互いを必要とするような間柄でもない。お弁当を作ってもらう程度。急に私がいなくなっても、きっと恋人は私を探すことなどせず、仕事に行く。そして、あとでちょっとだけ泣く。そういう性格だった。借りを作ったら返す。それだけ。


 そういう普通に戻るよりも、この雪面を、自分という存在がなくなってしまうまで、歩きたい。その欲求が、私を支配した。


 自分にとって、自分は、必要ない。


 立ち上がった。


 もっと、冷たいところへ行こう。


 私という存在が消えても、誰も気づかないような、ひっそりしたところに行こう。


「どこがいいかな」


 それでいて、最期の景色がきれいなところ。


「ううん」


 また、しゃがみこんだ。そんな場所、しらない。


「河原沿いの土手とか、どうかな」


 土手。


「いまは曇ってるみたいだけど、月が出れば綺麗だし。たしか、あそこは屋根付きのベンチがあるから、雪が降ってきても大丈夫だよ」


 いいかもしれない。


「あ、あれ」


 自分じゃない。


 話しかけられた。誰に。


 目の前。誰もいない。


 後ろ。誰もいない。


「あはは」


 笑い声。左どなり。


「なんで」


 恋人がいた。大きな紙袋を、両手に持っている。


「なんでって。起きたら食べかけのチョコだけ残して、あなた、いないんだもの。よかった。スカートじゃなかったんだ。一応、もこもこ上着持ってきたんだけど、着る?」


「着る」


 まったく気にしてなかった下半身の冷えが、指摘されたことで増した。恋人の右の紙袋の中身は、もこもこ上着。


「どうしてここが?」


 もこもこ上着をはきながら、恋人に問いかける。


「足跡をたどってきた。雪も降ってなかったし。あ、チョコは冷蔵庫に戻しておいたよ。大丈夫。融ける前でした。セーフ」


 恋人。


 そういう人じゃなかったはず。


 私がいなくなっても、気にせず仕事に行く人。そして、しばらくしても私が戻ってこなくて、途方に暮れるような人。


「あ、仕事のこと?」


「うん」


 そう。わたしよりも日々の暮らし優先のはず。


「ラップトップ持ってきたから、大丈夫」


「らっぷとっぷ?」


「事務だから。仕事場に行かなくても仕事できるんだ」


「そうなんだ」


 初めて知った。


「もう仕事場にも連絡しておいてあるよ。ときどき画面開きながらだけど、どこまでも、お供できますよ」


 なぜそこまで。いや、それより前に。


「なんの、仕事をしてるの?」


 歩きながら、訊いた。左どなり、半歩前。


「あれ、仕事について喋ってなかったっけ?」


「うん」


 歩く姿が、ちょっと頼りなげ。


「暖房器具の会社で事務をしてます」


 自分の足が止まるのが、分かった。


「暖房器具?」


「あ、エアコンは止めてきたよ」


「いや、そうじゃなくて」


 恋人の家。暖房器具の火事で燃えて。


「家の火事が、暖房器具の不具合のせいでさ。あんなことがもう起こらないように、と思って」


「そうだったんだ」


 恋人。頼りなげな背中。


「でもね、火事のおかげであなたに出会えたようなものだから。そんなにわるいことばかりでもないと思ってます」


「強いんだ」


「ん?」


「いや、なんでもない」


 恋人は、ちゃんと真摯に生きている。そして自分は、自分自身をなくしてしまいたいと思っている。不思議だった。


「大丈夫」


 恋人が言った。


「どれだけあの火事に、あなたが惑わされても。大丈夫」


 恋人。立ち止まる。左どなり。


「いなくなりたいと思っても、簡単にいなくなれないようにしてあるんだ」


「どういうこと?」


「いつも、あなたより帰りが遅いでしょ?」


「うん」


「あれね、仕事帰りに、街の人と仲良くしてるんだ。居酒屋に行ったり、頼みを聞いたりして。冬場は火の用心の巡回とかも」


 知らなかった。


「だから、こういう雪の日にあなたがいなくなっても、街の人が保護してくれるようになってます」


 それも、知らなかった。その前に。


「私がいなくなるって」


「一緒にいればわかるし、デザインしてるものを見れば、もっとわかります」


 何を。


「あなたは、僕の家の火事を見て、見えないところに傷を負ってる。心に」


 傷。


「だから、なるべく隣にいようと思ってます。あの日の」


「あの日の?」


「あの、火事の日の夜みたいに」


 火事の日の夜。膝を抱えて泣いているこの人を、ずっと見てた夜。


「あのとき、あなたはずっと、僕の右側にいてくれた。だから、なるべくあなたの左どなりにいます」


 左どなりにいたのは、左利きだからじゃなかった。

 

「さ、行こう。この時間なら、火の用心で巡回してた人たちが河原に集まって酒盛りが始まってるはずだから」


「いなくなれないじゃない」


「うん。あなたに、いなくなって、ほしくない」


 雪。そして、月。


「おべんとう」


「え?」


「お弁当。あるの?」


「ありますよ。河原に行ったらみんなで食べましょう」


 恋人。頼りなげな姿。左の紙袋を持ち上げて笑っている。左の紙袋の中身は、お弁当。


 なみだが、出てきた。

 

 雪。目の前を舞っている。降り始めていた。夜と白。


 左どなり。恋人がいる。

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