第56話
「悪霊退散? 髪の毛を引っ張るみょうちきりんな技が、悪霊退散だっていうのか?」
『青年、私の話を何一つ聞いとらんかったな? 昔この寺におった鬼を、こうして髪の毛をはぎ取って退治したんや』
「俺は鬼でも悪霊でもないぞ」
それにふっふっふと鬼神は笑って、ポンポンと俺の頭を撫でた。その感触はなぜか懐かしく、心地よく感じる不思議な感覚だった。
『青年の中に潜んでいた、悩みという鬼を退治したんやで。これでもう安心やな』
「……俺の中に?」
せやせや、と鬼神は頷いた。そう言われてみれば、何やら心なしか身体も軽くなって、すっきりした気分になっているように感じて、俺は鬼神に素直に礼を言った。
礼には及ばん、と言いながら鬼神は俺を門まで送り届けてくれる。なんだかよく分からない悪霊退散だったのだが、まあまあ効果はあるものかと思って一人でほっと胸をなでおろしていると、帰り際に鬼神がとんでもない一言を放った。
『まあ、ようは、気の持ちようってよく言うやろ? 一番大事なのはそれや』
「待て待て待て。悪霊退散したんじゃないってことかよ!?」
それに鬼神はにんまりする。
『悪霊が退散したと思えば退散されるし、悪霊がついてると思っとったら、ついてなくともついてしまうんと同じ理屈や。悩んでると思ったら悩んどるし、悩みやないと思ったら悩みやなくなる。人の心なんて、そんなもんや』
その言葉に、俺は一瞬言葉を飲み込み、そして言われたことを理解しようと思考を巡らせた。そんな俺の様子を見て、鬼神はにこにこしながら頷くと、手を振って門の中へと戻って行ってしまった。
「つまり、悩むか悩まないかは、俺の心次第ってわけね」
俺はひっつままれた髪の毛が未だにひりひりと痛いのを撫でつけながら、帰り道をゆっくりと歩く。水瀬に連絡してみようと思ったその時に、携帯電話のディスプレイが光って、それは奇しくも水瀬からの着信だった。
「……もしもし、水瀬?」
「ちょっと飛鳥、今すぐ来て」
開口一番に響く彼女の声はあまりにもいつも通りで、俺は悩んでいた自分が莫迦だったのだと、一瞬にして悟りの境地へと達した。これほどまで早くに悟れるとは、天竺のお釈迦様もさぞ驚くに違いない。
「どこだよ?」
「いつもの噴水の前よ。
「じゃあそのまま実家に行ってていいよ、俺も出ちゃっているし」
それに水瀬のごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。
「家の場所がわからないから、こうして呼び出しているのに!」
それに俺は携帯電話を落としそうになったのだが、次の瞬間に大笑いしてしまった。一体、何十回来ていると思っているんだ。実家の場所が分からないと主張する水瀬の、破滅的な方向音痴っぷりに、俺は涙を目の端にためながら笑った。
それに水瀬はぷりぷりと怒りながらも「五分で来て!」と電話を一方的に切ってしまった。俺は五分じゃ間に合わないと抗議のメッセージを送りつけて、それとなく早足に妖怪オタクを迎えに行く。
いつもの場所まで歩いて少しかかる。宇宙一の方向音痴で妖怪オタクで、天邪鬼の化身のような水瀬を迎えに、俺は駆け足気味になりながら奈良の町を歩いて行った。
顔を見て謝る勇気はなかったけれども、ごめんなという言葉を言葉で打ち込んで送っておく。送信されたのを確認すると、後は振り返ることもせずにまっすぐ向かった。
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