第七話 訪問 2

「すいません、僕のかばんまで持ってもらっちゃって」

「これくらい大丈夫だって。 人通りが多い所でまた倒れられたら今度は本当に大騒ぎになっちゃうからね」


 玲さんの自宅へ到着し土間で靴を脱いでいた僕は、学校からこの場所まで僕の鞄を運んでくれた彼女の厚意に対する感謝を述べた。

 それにしても、外観もそうだったけれど、土間から内装も見る限り彼女の家は随分と年季の入った家屋のように思われる。


 僕は電車通学なので乗車中に窓から景色を眺めることも最早日常の風景で、そうした一時いっときの景色の中で最も多く目に映るのは、やはり『家』だった。

 意識し始めたのはそれこそ高校に入学してからだけれども、家は心の拠所よりどころという言葉が示す通り、家とは居住する住人を、家族を、いつでも暖かく出迎え包み込んでくれる、現代人にとって欠かす事の出来ない母のような存在と言えるだろう。


 また、家には人間と同じように個性があり、外見は瓜二うりふたつでも内装までも酷似こくじする家にはそうそうお目にかかることは出来やしないだろう。

 まさ住人・・十色。 住む人によって、家の表情もがらんと変化するのだ。


 そして最近とりわけ目に留まるのは、傾斜が見受けられないフラットタイプの屋根を持つ、いわゆるモダン住宅である。

 僕の居住区周辺もここ数年のうちに住人の立ち代りがいくたびもあって、見知った家の敷地が突然更地になったかと思えば、程なくして例のモダン住宅が建っていた、などという経験も決して珍しくは無い。


 最早それは近未来社会が生み出した、ありとあらゆる街中に点在する現代アートとでも言うべきか、だからこそ僕は時流という波にも動じず深深と腰を下ろす、玲さんの家のようなおもむきのある家屋かおくが好きだった。

 そこはかとなく懐かしみのあるしんみりとした想いをせながら、僕は玄関廊下の床を踏み鳴らした。


「お邪魔します」

「親は今二人とも仕事に行ってて誰も居ないから気は遣わなくてもいいよ。 さ、上がって上がって」

 玲さんの両親は共働きらしい。 そういえば先ほど玄関の施錠を解いていたなと思い出し、彼女の家庭環境を垣間覗き見たような感覚を覚えた。


 それから僕の前を歩いていた玲さんは左手に見えた居間を通り過ぎ、右手に見えていたへやの方へ、すっと曲がった。

 続いて僕がその室を覗いて見ると、そこには洗面化粧台やら洗濯機やらが設置してある。 どうやらこの室は洗面所のようだ。


「ここ、洗面所だから口すすいどきなよ、吐いてから何も飲んで無いし気持ち悪かったでしょ? 新しいタオル出してあげるから顔も洗うといいよ」と言って、玲さんは洗面台付近のタオルハンガーに掛かっていたタオルを取り外して洗濯機の中へ投げ込み、洗面化粧台の引き出しから取り出したさらのタオルを設置してくれた。


 初めて訪れた人様の家の洗面所で顔を洗うのは何故だか背徳感があるけれど、彼女の指摘する通り口元に少し違和感を感じていたところだったから、この際お言葉に甘えて洗面を含めて使用させてもらった。


「もう大丈夫? それじゃ行こっか。 私の部屋二階にあるから」


 うがいと洗面を済ませた僕は、また彼女に先導されながら二階へ続く階段を昇っていく。 案内されたのは二階最奥左の部屋だった。


「とりあえずここで休んでて。 私はちょっと足洗ってくるけどすぐ戻ってくるから。 後で飲み物持ってきてあげる」

「足、すいません……」


 学校内で散々、そしてこの家に来てからも謝罪づくしの僕がいよいよ気に触ったのか、玲さんはムっとした表情を覗かせ、いささか睨みつけるような目付きで僕を見据えてきた。


「だから、その事はもういいって言ってるでしょ? 確かに足は汚れちゃったけどこんなの洗えば済むことなんだから、そう何度も謝られると私が君を責めてるみたいで嫌なの。 次謝ったら怒るからね」


 そう忠告を受けた矢先に『すいません』の五文字が口から出掛かって冷や汗を掻いたけれど、何とか喉の奥底へ飲み込む事が出来て安堵した。

 玲さんは僕の様子をしばし確認した後「それじゃ少し休んでて」と言い残し、部屋から出て行った。 そうして主不在の見知らぬ部屋で沈黙を感じながら、僕は思わせぶりな溜息をついた。


 玲さんはあれだけ優しくしてくれていたけれど内心は結構怒っていたのだろうなと、そうした根も葉もない憶測を打ち立てて心に深い陰を落とした僕は、現在の自分の有様を否定する事なく飲み込み、受け入れた。

 ああ、やはりいま僕の心身はまったく衰弱してしまっていて、あまつさあの時・・・の傷心はこれっぽっちも癒えていなかったのだと。


 もう、忘却していたものかと思っていたのに。

 もう、二度と思い出すまいと心に誓ったはずなのに。

 だけれども、紙切れ一枚分にすら届かない薄弱な心の壁は揶揄やゆの一つにも耐え切れず、硝子細工の如く彼女の目の前で脆くも崩壊してしまった。

 玲さんにはきっと、僕の心の弱いのをまったく見透かされていたのだろう。 でなければ、あそこまで優しくしてくれる理由に説明が付けられない。


 それから何の益体やくたいも無い思考を心の中に巡らせている内に、とん、とん、とん、と階段を昇るにはやや遅めの足音が部屋の中に伝わり始め、間もなく両手にグラスを持った玲さんが姿を現した。


「ごめんちょっと遅くなっちゃった。 今ジュース切らしててお茶かお水しか無かったんだけど、どっちがいい? あ、お茶は麦茶ね」

「じゃあ、水の方をいただきます」


 そう伝えて、僕は玲さんの手から水入りのグラスを受け取った。 彼女は立ったまま残りのグラスに口をつけている。

 僕もつられるように飲んでいて、ふと彼女の足先に目をやると、洗ったばかりの為か靴下を履いておらず、つま先から腿までの、すらりと白い脚線美を余す事無く僕の眼前に晒していた。


「ん、何見てるの」僕の視線に気が付いたのか、グラスの手を止めて玲さんがただしてくる。

「いや、先輩、綺麗な脚してるなと思って」僕は思ったまま素直に答えた。


「……まったく、いきなり何言ってるんだか。 まぁ、それだけ冗談が言えるようになるくらいには元気になったみたいだね、ちょっと安心したよ」


 何故だか呆れられたけれど、玲さんの表情はことほか柔らかい。 直後『冗談ではないです』と喉まで出掛かったものの、中身の無い発言は玲さんを怒らせてしまう要因になりかねない。 だから僕は、勢いで飲み干したグラスの中身と共に先の言葉を胸の奥に流し込んだ。


「それで、実際体調の方はどんな感じ? 見た感じ大分顔色も良くなったみたいだけど」

 部屋中央に設置された丸テーブルをへだてて、玲さんは僕の斜め前に座りながら僕の体調を気遣ってくる。


「そうですね、学校に居た時と比べるとかなり良くなったと思います」

 その応答は嘘でも気休めでもなく、事実だった。


 玲さんの自宅に来てからも時折意識がくらりとする場面が何度かあったけれど、嘔吐した直後よりは比べものにならない程に僕の体力は順調に快復しつつあったのだ。

 玲さんにも僕の体調のよろしい事が伝わったのか、彼女は「うんうん」と何度か首肯しゅこうを交えながら安堵にも似た微笑を浮かべている。


「でも、やっぱりもうちょっとしっかり休んだ方がいいよ。 学校でそうなった時も自分では大丈夫と思ってて立ち上がったら倒れそうになったんでしょ?

 だからさ、あと一時間くらいは横になって休んでいきなよ。 さすがに知らない家で寝るのは気も遣うだろうから睡眠まではいかないかもだけど、それでも目をつむって横になってれば体力の快復具合も全然違うと思うから」


 学校での僕の具合にかんがみてか、玲さんはえらく慎重に僕の体調を気遣っているけれど、そもそも彼女にここまでの気苦労を掛けてしまったのはまったく僕の所為せいであり、例によってその憂慮ゆうりょないがしろにする事は出来なかった。


 別段悩んだ素振りも見せず率直に僕が「わかりました」と伝えると、いやに素直な僕を見て驚いたのか彼女は目をぱちくりさせている。 その姿が妙に可笑おかしく、僕はつい失笑してしまった。

 それから僕は、彼女が用意してくれた敷布団で休息をとる事となった。


「あ、制服くらい脱いどきなよ。 さすがに寝るのにその格好は窮屈でしょ」


 今まさに寝転がろうとしていた時に玲さんがそう促してきたので、僕は彼女の言葉に従って学生服を脱衣した後、敷布団の上にした。


「それじゃ一時間後くらいに様子見に来るから、もし寝てても起こしたらいい?」

「あれ、先輩どこか行くんですか」

「ううん、家には居るけど私が同じ部屋に居るとゆっくり休めないでしょ? 私は別の部屋で時間潰してるよ」


 見知らぬ部屋の肌知れぬ布団でぐっすりと眠る事の出来る人はそうそういる筈も無く、僕の体力を最大限快復させるという観点から、玲さんなりに気を遣ってくれたのだろう。

 それに、彼女にしてみれば今日出会ったばかりの『異性』を自分の部屋に招いているのだから、決して表には出さずとも、それなりに思うところがあったに違いない。


 しかし、今の僕にはその気遣いがとても寂しいものに思えてしまって、きっとまた彼女を呆れさせてしまうであろう事は分かっていながらも、

「もし先輩が嫌でなかったら、時間が来るまでこの部屋に居てくれますか」と、自分でも出所が分からないほどの甘えた言葉を玲さんに投げ掛けてしまった。

 果たして彼女は、ははんと鼻を鳴らして半眼はんがんの気味に僕の顔を眺めてきた。


「もしかして、知らない部屋で一人で居るのが寂しいって訳? 君って結構甘えん坊なんだね。 見た目的にしっかり者タイプだと思ってたよ。 まぁ、君がそうしてくれって言うならそうするけど、寝てる間にイタズラしちゃうかもよ?」


「大丈夫ですよ。 先輩の事、信じてますから」と根拠も無く言い放った僕は、玲さんに向けて微笑を浮かべた後、起こしていた上体を布団に預け、ゆっくりとまぶたを落とした。

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