第103話 珠々さんの告白-1

 僕は思わず前のめりになって、コンピューターの画面をなぞった。僕は母のことはほとんど何も知らなかった。ものごころついたころには家には母はいなかったし、父もまったく母のことを話さなかったので、生きているか死んでいるかさえわからなかったんだ。


 それと同時に、胸の中で何かかたい箱のようなものにこつん、と自分の意識があたったのが分かった。それは僕の中のブラックボックスだった。僕は知っていた。この箱には名前が付いている。明日香、という名前だ。

 これを開ければ子どものころの感情が噴き出してくるだろうというのが自分でもわかった。僕は心の中でその箱が開かないようにずっとたぶん、ジーナを上に乗っけていた。


 僕は母がこの第二医療研究所、というところにいたことも知らなかった。いったい、僕の母はどういう仕事をしていたんだろうか……。それと、怜はこれがジーナにつながる手がかりかも知れないと言っていた。とすると……、これは猫に関する何かなのだろうか?

 そのとき、僕の視線はシルバー、ブルー、レッド、という文字を追っていた。もしこれが猫の色なら……。ジーナはシルバーだ。灰色のサバトラだからね。僕はぼんやりと、父に会わなければならない、と考えた。


 けれどそれから数日後に事態は動いた。それは予想外の展開だった。僕がいつものように夜の待避所でコンピューターをいじっていると、夜も遅くなってからエレベーターが動いた。僕はもちろん、連絡用のリングをしていないから誰が下りてくるのかは分からない。


 だけど当然、それは池田さんか上川さんたちかどちらかだと思っていた。


 エレベーターが止まって、待機所の扉が開くと。すぐに上川さんと、作業着姿の珠々さんが飛び込んできた。上川さんは言った。


「このお嬢さんがどうしてもお前さんとこに知らせたいことがあるってきかねえから連れてきたぞ。え、俺はもうあがるぜ。あとはおまえが責任もって地上まで送れよ」


 上川さんはそういうと、不審げに僕と珠々さんを一瞥してすぐに出ていってしまった。

 珠々さんは、エレベーターの中ですでに地熱にやられていたんだろう、髪を上げていたけれどそれでも汗が噴き出しており、顔が真っ赤だった。僕はあわてて加速器の電力をぜんぶ送風機に回して待機所を冷却した。


「どうしたんですか、冠城さん」


「すみません……、どうしても伝えなければならないことがあって。オテロウが毎日、山風さんのデータをリングからとって来るように、と」


 僕は目を見張った。たった数日で僕の計画は見抜かれていた。


「……それは冠城さんへの指令ですか?」


 珠々さんは額の汗をぬぐいながら頷いた。僕が待避所で涼しいのはシャツ一枚で過ごしているからだ。作業着だとここでも暑くて当然だろう。僕は珠々さんに申し訳なく思った。

 珠々さんは言った。


「いま、わたしのリングは家にあります。明日の午後、リングの情報を取りに来ます」


「冠城さん……」


「山風さんが怜さんのことが本当に好きだってことは知っています。でも、待ってもいいですか? わたし、意外と強情なんです」


 そのときの珠々さんは吸い込まれそうな潤んだ瞳で僕を見上げていた。僕はそれなのに、どこかで自分の耳にひびく怜の声を聞いているのだ。

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