置き去り令嬢と腐れ縁の騎士、最初で最後の共同作業

冴吹稔

第1話 良縁足らんと思いきや

「どうしたのです、ジェラルド――こんな日にわざわざ訪ねていらっしゃるとは」

 ビスヴィー侯爵シュトレン家の令嬢エルマは、婚約者の唐突な訪問をいぶかしみながら四阿あずまやの前で立ちつくした。


 ホイル伯爵家の三男であるジェラルドは、家督相続の権利こそないが、家格は押しも押されもせぬ大貴族。どうしたことか嫡出が女子ばかりのシュトレン家にとっては、願ってもない婿がねと言える。だが婚礼を十日後に控えたこの日に、供周りの者も連れず予告もなしに単身で屋敷に訪れるとはいったいなにごとか。


「申し訳ありません、レディ・ビスヴィー……今日はどうあってもお話しておかねばならないことがあるのです」

「エルマと呼んでくださってよろしいのですよ、オナラブル誉れ高き・ジェラルド・ホイル(※)。私たちは婚約を結んではや三年、十日後には夫婦となる間柄ではありませんか」


「いえ」

 ジェラルドはその言葉に反応して、伏せていた顔を上げ、きっぱりと首を横に振った。

「私は、あなた様と結婚することはできません、レディ・ビスヴィー。なぜなら――」


 なんという予想外の言葉だろう! エルマはその下ろしたての焼き串のような鋭い響きに、内心震えあがった。目の前が真っ暗になりそうだ。

 互いの父が話し合って決めた、双方の家のための婚姻とはいえ。自分はこの、目の前の実直温厚にして武勇に秀でた高潔な騎士を、憎からず、いやいっそ好ましいと思っていたというのに。


「な、なぜなら?」

「なぜなら私には、ロザリンド・ホートン嬢という、五年前から愛し合い、将来を誓った女性がいるのです……!」

「まあ……! なんたること……」

 ホートンといえば、聞き覚えがある。貴族相手にリネンや石鹸、香水といった日用向きの品を商う大商人で、伯爵家もその取引相手となっている由。

 ならば、ジェラルドがホートンの子女と知り合う機会があっても何ら不思議ではない。不思議ではないが――


「ジェラルド! どうしてそんな大事なことを今頃になって――いいえ、こんなギリギリの時期になるまで黙ってらしたのですか!!」


「申し訳ない……申し訳ありません、レディ・ビスヴィー」


 ジェラルド・ホイルは平身低頭、敷石に擦り付けんばかりに深々と額づいて謝罪した。


「家督を継げない私のためにと、父上が考え抜いて手を尽くし、取りまとめてくださったこの縁談……到底断ることはできない、と諦めていたのです。しかし、私にはどうしても、ロザリンドを見捨て忘れることができませんでした」


 エルマは大きくため息をつくと、地に這いつくばる婚約者に手を差し伸べた――ああひどい、これはどうしようもない事例ですわ。何をどう動いても、私が悪者になってしまうではありませんか。


「分かりました。残念ですが、私は身を引くしかなさそうですね……」


 侯爵家の女子相続人の婿となる、ということはとりもなおさず、実質的には侯爵家を継ぐということだ。それでなおも平民の、商人の娘を選ぶというのであれば。


「侯爵家の権力をかさにこの婚姻を押し通しても、それでは三人が三人とも不幸になってしまうだけでしょう。ここで私が身を引けば……私一人が不幸になるだけで済みますわね」

「おお、なんと寛大なお言葉。レディ・ビスヴィー、あなた様はまさに聖女のようなお方です……」


 感激と自責の涙が、ジェラルドの両の眼からあふれ流れ出した。


「ええ、まあここで恩を施しておけば、将来私に返ってくるものもあるでしょうし」

 思わず一方の本音が漏れ出た。


「は、はあ……?」


 微妙におかしな雲行きを感じ、にわかに沸き起こる不安の雲が、ジェラルドの両の眼をかすかに淀ませた。

「そ、それではわたくしはこれにて。こちらを辞して早速ロザリンドの実家へ赴き、正式な結婚申し込みを致さねばなりません!!」


 土下座から膝立ちの体勢へ彼が移行するのと、エルマがその手をはっしとつかんで引き留めるのとはほぼ同時であった。


「――残念ながら、今あなたをこの屋敷から出すことはできませんわ」


「な、なんと。レディ……それはいったい」


 ジェラルドは青くなった。エルマの目を盗んで素早く辺りに視線を走らせると、屋敷の敷地のそこここに侯爵家の私兵たちが目を光らせている。

 いずれも高度な武芸を身につけたものばかり、ジェラルドがいかに武勇を誇ろうと力づくで突破することなど、容易くできそうにはない。

 ロザリンドとの婚姻をさし許しながら屋敷にとどめようという、この仕打ちはいかにも不穏であった。

 その疑念と不安にエルマが答えて言うには――


「帰すわけにはまいりません。婚礼の当日まではあと十日と迫りましたが、招待客は五百組にも及ぶのです……つまり私たちはこれから、その五百組の招待客に一通一通、言葉を尽くして非礼を詫び今後の変わらぬ友誼を乞う、婚礼中止の断り状をしたためて、招待客のお歴々が在地を出発するまでにお届けせねばならぬのです!!」


「あ、ああっ!!」


 エルマが言外に込めた意図を理解したのか、ジェラルドの顔が真っ青になった。


「デスモンド! デスモンド! 大急ぎで書簡用の上質羊皮紙を最低七百枚、それに速記用インクと吸い取り砂を用意してちょうだい!!」


 屋敷の奥へ向かってエルマが家令の名を呼ぶと、なにやらガラスの割れるけたたましい音が響いた。


「何です今の音は! デスモンド、報告なさい!!」


 ――申し訳ございませんお嬢様、ちょうどワインのグラスを拭いておりましたところ……!!


 どうやらエルマの突然の無茶すぎる命令に、ガラス器を取り落としてしまったと思われた。ややあって、家令本人が姿を現し、消沈しきった声を上げた。


「お嬢様、さすがにその、今すぐに羊皮紙七百枚というのは……いったい何にお入り用なので」


「よくお聞きなさい……私とジェラルドの婚礼は中止です。たった今そう決まりました。よって断り状を急いで五百通出さねばなりません。二百枚の余剰はもちろん、書き損じを想定してのことですわ」


「それは果たして、二百枚で足りますでしょうか……」

 

 家令は大きなため息をついた。

 ビスヴィー侯爵シュトレン家ともあろう一家が、書き損じて表面を削った羊皮紙などを公式書簡に使えるわけがないのである。

 そこへ、意を決したようにジェラルドが手を上げた。


「あの、レディー・ビスヴィー……ホートン家傘下の商会に手を回せば、何とか必要数の羊皮紙を確保できるやも――!」


 聞いた途端、エルマの顔がさあっと明るく輝いた。


「まあ、素晴らしいお考えですわ、ジェラルド。さすがは父上が我が婿にと望まれたお方……! すぐに早馬を手配しましょう。あと、ロザリンド嬢もぜひこちらへお呼びになって」


「おほめに預かり――や、ロザリンドを!? いったい何のために」


「もちろん! 筆記の手伝いをしていただくのと、貴方を数日この屋敷にとどめてなにかふしだらな行いや過ちがあったなどと、誤解を招かぬようにです。当の恋敵・・がそばにいれば、そこにあらぬ憶測が入る余地は一切ございませんでしょう?」


「ああ……」


 ジェラルドの顔に絶望の色が濃く浮かんだ。


「ねえ、ジェラルド? 貴方、書簡用羊皮紙一枚を、然るべき修辞を凝らした文面で書き損じずに埋めるのに、どれくらいかかります? 私は少なくとも、三十分はかかってしまいますけれど」


 その場合、一日に書けるのは飲まず食わず不眠不休で当たっても四十八枚。当然疲れれば速度は落ちるし、単純計算で十日は間違いなくかかってしまう。届ける時間も考えればなおのこと、どうあってもジェラルドの助けが必要なのだった――



※ 「オナラブル」は伯爵の次男以降、若しくは子爵以下の貴族子弟に対する尊称。適切な訳語はないが「ジェラルド・ホイル閣下」とするのが近いか。

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