第3話

 その夜、中野はなかなか寝付けずにいた。


 ──ちょっと厄介なことになるかもよ


 赤松から軽く放たれた言葉が、どうにもまとわりついて離れない。

「ま、とにかく気を付けろ」と無責任に言われはしたものの……染み付いた不安は払拭ふっしょくできなかった。岡林は夫と暮らしているが、夫婦共々無事に夜を過ごせているだろうか。

 と、背後から声がかかる。


「気にしても仕方ないわよ」


 襦袢じゅばん姿でソファに寝っ転がった山名が、そこにいた。


「……正直、貴方も懸念材料なんですが」

「安心なさい。アタシ、このナリだけどちゃんと男だから」

「は、はぁ……」


 中野は断ったものの、「大丈夫、守ったげるわ!」と意気揚々と言われ、一人暮らしのマンションにあれよあれよと乗り込まれてしまった。


「別に、取って食ったりしないわよぉ。あんたみたいな血色のいい男の子、ちょっとだけ美味しそうではあるけど」

「何も安心できませんが」

「良いからとっとと寝ちゃいなさい。それとも、添い寝した方が良いかしら?」

「遠慮します」


 溜息をつきつつ、中野は寝台に潜り込む。

 疲れからか、自然と瞼が重くなっていく。


「結界なら貼ってあげてるから、大丈夫よ」


 眠りに落ちる間際、そんな声が聞こえたような気がした。




 まどろみの中で、中野は思い出していた。


「ティンダロスの猟犬」事件の捜査本部は結成されたものの、まともな人員は割かれておらず、同僚たちはこう囁き合っていた。


中野風馬なかのふうまは、まるで人身御供ひとみごくうぜよ」


 斗沼とぬまでは、時折人智を超えた事件が発生する。

 ……そして、そういった事件では捜査に向かった警官が「二階級特進」をすることも珍しくなかった。


 中野は巡査時代も、巡査部長となってからも業績があまりぱっとせず、「真面目なだけが取り柄」と言われてきた。去年30歳の誕生日を迎えたが、付き合っていた恋人は彼を「つまらない男」と称して別れを告げた。

 両親から「あの坂本龍馬のように風に乗れ」と願いを込めて付けられた名が、自分にとって不釣り合いなようにも思えていた。……そんな矢先に突きつけられたのが、「いなくてもいい存在」と言わんばかりの扱いだったのだ。


 老いた両親に対して思うところはないでもないが、「どうにでもなれ」というのが中野の本音だった。

 この事件で殉職するならするで、別に構いはしない。


 どんどん、どんどん。

 ドアを叩く音が耳に響く。

 どんどん、どんどん。

 これは、いつの記憶だろうか。

 立てこもり犯の部屋に突入した時か、それとも……


「巡査部長!! 巡査部長!! 無事ですか!? 返事をしてください!!!」


 まだ中野が、今の岡林と同じ巡査長だった頃、世話になった上司が、今の中野のように「人身御供」になったことがある。


「中野ッ! 入るなや!! 「これ」とは戦うだけ無駄じゃきのう……!!!」

「そんな、巡査部長……!」


 どれほど叩いても、上司がドアを開けることはなかった。

 翌日、上司はその部屋で首を吊って死んでいた。

 自殺したのか、させられたのか、中野には分からない。

 上層部が「赤松探偵事務所」に依頼し、事件が「解決した」と聞いたのは、それから数日後のことだった。




 夢が終わり、意識がゆっくりと浮上する。

 犬の遠吠えが、どこかで聞こえた気がした。


「アタシ、あんたの真面目なとこ嫌いじゃないわよ」


 その声で、はっと目を覚ます。

 目覚まし時計のアラームが、起床時間を告げていた。


「おはよう。よく眠れたかしら?」


 キッチンで、山名がこちらを見て笑っている。


「冷蔵庫、すっからかんじゃない。まともなもの食べてるの?」

「棚に、シリアルがあると思いますが……」

「ええー、安物は嫌よ。喫茶店に行ってこようかしら……」


 山名の態度には苦笑しつつ、身支度をしてゴミ出しの準備をする。

 いつものようにドアを開き、鍵をかけようとして……


「それ」に気がついた。


「これ、は……」


 鉄錆てつさびの臭いが鼻につく。

 真っ赤な手形が、ドアの表面を覆い尽くしていた。


「昨日、結構うるさかったのよ」


 山名が事も無げに言う。


「よく眠れた?」


 夢の中で聞いた音がこれならば。

 もし、ドアが開いていたなら、どうなってしまっていたのだろう。


「どうにでもなれ」……そう、思っていたはずなのに。

 足ががくがくと震える。冷や汗が全身から噴き出していく。


「今日も頑張りましょ」


 山名の明るい声が聞こえる。

 中野は、頷くことしかできなかった。

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