第23話 忘れた頃に向こうからやって来るものですが、呼んでないんで、災いは(参)
ふと気が付けば、視神経に異常はないはずなのに、目の前に闇が広がっている。こんなにも真っ暗な視界では、ほんの少しの
――ああ、これではいけない。仕事に支障が出る。あまり高くはない自分の評価が下がってしまう。
態とらしく首を振り回して、思考が停滞しがちな脳を刺激して、気持ちをどうにか仕事へと向けて、にこは勤め先の玄関をくぐった。
実の母親のである博子と再会をしてしまってから、数日が経過した。博子の相手をすると、就職活動に明け暮れる日々を過ごしていた時よりもずっと心が疲れる。その度合いは、睡眠を十分にとることが出来なくなっているほどのものだ。
博子に与えられた精神的苦痛は家の中に出現する茶色や黒色の害虫の如くしぶとくにこの心に居座り、宿主から栄養を奪って成長していく寄生虫のように彼女から集中力を奪っていく。漸く慣れてきた清掃会社の事務仕事に顕著に影響が出て、些細なミスをしてしまっては朝比奈のお局様にお小言を頂戴してしまう。先日の合同コンパでの狩りが上手くいかなかったのだろうか、少々、八つ当たりめいたものも含まれているような。
(昼休憩に入ったらコンビニに行って、眠気とか吹き飛ばしてくれる栄養剤でも買ってくるかな……。そうでもしないとミスしてはお局様の小皺を増やす手伝いをして、余計に八つ当たりされそうだし……)
化粧室の鏡の前を陣取って、目尻と口元の小皺を格闘している朝比奈女史の姿を想像してみると、何だか笑えなかった。会社の中でやっているかどうかは分からないが、自宅ではやっていそうな予感がした。目だけを動かして、当の朝比奈女史の様子を窺ってみると、彼女は書類を纏めたファイルを収納する大きな棚の前で整理整頓で励んでいた。にこの意地の悪い妄想に勘付いているような気配がしなかったので、彼女に見つからないようにと注意義しながら、にこは胸を撫で下ろす。朝比奈女史は妙な勘が鋭いのだ。
昼休憩を迎え、栄養ドリンクを飲んで気合を入れてからは定時を迎えるまで黙々とデータの打ち込みなどの仕事をこなすことが出来た。午前中のミスの連発をどうにか挽回することが出来たのか、残業をしなくて済んだことに喜びながら、会社を後にした。自宅に到着するまでの間にコンビニに立ち寄り、今晩の食事と晩酌のビールを一本購入するのを忘れずに。
「っはぁ~~~、疲れたぁ~~~、酒が美味くねぇ~~~、銭湯に行きたいけど、そんな気力が残ってねえ~~~っ、飯食ったらさっさと風呂入って寝るぞぉ~~~っ」
着古して色褪せて、ぺらぺらになっている部屋着姿で夕飯ついでに晩酌もしていたにこは、飲み干して空になったビールの缶を弄いながら、無言でそれを見つめる。その行為に意味はない。無意識のうちにそうしているようだ。暫くの間そうしていると彼女は徐に片付けを始め、万年床の煎餅布団の上に転がり、天井を仰いだ。
今夜は静寂に包まれている。隣室の大学生は何処かへと出かけているのか、はたまは女を連れ込んでいないのか。激しいだけの性交よって齎される騒音被害などがないので、今のうちに床に就いてしまえば何とか眠ることが出来るかもしれない。天井から降り注ぐLEDライトの白く強い光を遮るように左腕を目元にやってぼんやりとしているうちに、数日ぶりの純粋な眠気がやってきた。
――ああ、電気を消さないと。つけっ放しで寝るなんて電気代の無駄だ。と、とろけていく意識の中で考えた時、卓袱台の上に置いていた携帯電話がシンプルな電子音でメロディーを奏で始めた。音量はかなり小さく設定してあるのだが、神経質気味になっているにこの眠気はそれだけで消え去って行ってしまう。
「誰だよ、こんな時間に……」
このメロディーは登録していない番号からかかってきた電話を知らせるものなので、にこは放置する。けれども、着信音が途切れるのには少々の時間を有した。念の為にと携帯電話を手に取り、画面を覗いてみる。其処に表示されているのは非通知設定をされていない、見覚えのない携帯番号。間違い電話か、或いはキャッチセールスか。そのどちらなのかは分からないが放っておいても問題はないだろうと判断したにこは着信音をマナーモードに設定し直すと携帯電話を再び卓袱台の上に置く。そして緩慢な動きで立ち上がり、バスタオルと替えの下着を用意して浴室へと向かう。風呂が沸くのを待てる気がしなかったので、今夜はシャワーで済ますことにしたにこは、体育座りをしないと入れない、狭い浴槽に身を沈めて、ぬるめのシャワーを普段よりもゆっくりと浴びる。
他人からすると烏の行水としか思えないくらいの入浴を終えて畳の部屋に戻ってくると、携帯電話が着信を知らせる光をチカチカと発しているのを見つけた。履歴を確認してみると、先ほどと同じ電話番号から何度か着信があったようだが、留守番メッセージは残されていない。
「何だこいつ、しつこいな……」
苛立ちを顕わにしてぼやくと、いきなり携帯電話がブルブルと振動しだしたので、にこはどきっとする。表示されている番号は、何度も電話をかけ続けている、あの番号だ。放っておけば良い、と考えたのだが――にこは電話に出ることにした。間違い電話にしろ、キャッチセールスにしろ、「いい加減にしろ、しつこい」と文句を言ってやりたくなったのだ。久しぶりに純粋に訪れた眠気を奪われた恨みがそうさせたのかもしれない。
「もしもし、何方様ですか?」
<……にこか?
電話の主の声は、疎遠になっている実の父親のもの。予想もしていなかった相手からの突然の電話に動揺して、にこはそれ以上言葉を紡ぐことを忘れた。
(何で、どうしてこの親父から電話がかかってくるんだ……?)
どうして、父親がにこの携帯電話の番号を知っているのか。麻痺している頭で必死に考え、答えに辿り着く。このアパートを借りると決めた時、信用出来るはずもない母親の代わりに保証人になってくれないかと父親に頼み込んだ。他に頼れる親戚もいなかったので。その際についでに就職祝いとして携帯電話の契約もして貰ったので、一応は父親に番号を教えておいたのだ。それから一度も番号も契約会社も変えずにきていたため、父親と連絡が繋がってしまったのだと漸く理解することが出来た。
――ああ、面倒だな。
にこは電話の向こうの相手に聞こえないように、心の中で舌打ちをする。
「お久しぶりです、何か御用――」
「あの女が、博子がいきなり俺の所に来て、金を貸せと言ってきた」
にこの素っ気ない挨拶を無遠慮に遮って、父親――水沼
「にこに金を貸してくれと頼んだら追い返されたと言って、離婚して他人になった俺の家にいきなり現れて、金の無心に来たんだよ。俺はもうあの女とは縁を切ったんだ。再婚して、子供も二人生まれた。子供たちはこれから高校、大学と金がかかる一方だから他人にくれてやる金なんてないと言って追い返してやったがな。……なあ、にこ。博子はお前の母親だろう?どうして金を貸してやらなかったんだ?未だあのボロアパートに住んでるっていうなら、金もいくらか貯まってるだろうに。娘なら、母親を助けてやれよ」
それが親子というものだろうと、水沼は諭すように語る。
(……何を言ってるんだろ、このおっさんは)
自分は一度目の離婚でにこの親権をあっさりと放棄して、不倫相手とさっさと再婚し、体裁の為に養育費だけは律儀に支払っていたが、にことの面会など殆どしなかったことは棚に上げている。
父親の身勝手な言い分に呆れて相槌を打とうともしないにこのことは特に気にしていないのか、水沼は続ける。
「全く、母親が母親ならその娘も娘で勝手過ぎる。他人の迷惑なんてちっとも考えない。自分の不始末はちゃんと自分で責任を持って片付けろ。俺は博子と離婚してから、お前が成人するまで毎月養育費を払い続けただろう。それなのにお前は金が足りないと言って、時々家にやって来ては金を奪っていったと、
水沼は同意を求めるような問いを投げてきたが、にこは敢えて返事をしない。
(あんたの両親の面倒を見てるのは、あんたの兄夫婦だろうが。何を偉そうに……)
口を開けば、ありとあらゆる罵詈雑言を大声で吐き出してしまいそうになるので、唇をきつく噛みしめて、衝動に耐える。今時分は夜、そんなことをすれば近所迷惑になる。
一方、投げた問いに対する回答は求めていなかったのか、沈黙を続けるにこの反応は無視して、水沼は更に続ける。
「兎に角、博子がいきなり現れて、金を貸せだとか、にこに見捨てられただとか喚いたせいで家族の前で恥をかかされたんだ!騒ぎを聞きつけた近所の連中にも見られたから、変な噂を流されたかもしれない!そんなことになったら、お前たちのせいだからな!俺はもう、博子とは他人なんだ。お前も成人したことだし、俺の保護下にはない。母と娘、二人で力を合わせてどうにかして生きていってくれ。俺はもうお前たちとは関係ないんだ。いいか、分かったな!?」
水沼の用件とはつまり、博子の愚行のせいで家族や近所の人々の前で恥をかかされたことへの怒りをにこにぶつけることだったらしい。それに至るまでの長い前置きをして、漸く目的を果たした水沼はいきなり電話を切った。耳に当てている携帯電話のスピーカーから、ツー、ツーという音だけが空しく響いてくる。周囲の音が少ないものだから、余計に耳に入りやすくなっている。
「……自分勝手なのは、そっちもだろうが、糞親父……っ」
自分勝手な男と女が出会って結婚をして、子供が生まれてもお互いに自分勝手に行動をして、それを見直したりしようとはせず、やがては離婚をして、男は自分勝手に親権を放棄して、女は養育費の為に娘を引き取って、それから幾星霜。忘れた頃に別れた相手に金を無心しに行く自分勝手な女がいて、その女のせいで恥をかかされたと娘に怒りをぶつける自分勝手な男がいて。
その二人の間に生まれたにこが自分勝手だったとしても、それはもう仕方のないことでないかと、にこは思ってしまう。だが、博子と水沼は決してそうは思わないのだろう。何故ならば、彼らは自分勝手だから。
「……寝よう」
博子に与えられた精神的苦痛の上に、新たに水沼に与えられた精神的苦痛が覆い被さって、重さが二乗にも三乗にも膨れ上がっていく。心の中に勢力を広げてくる黒い染みに負けてしまいそうになるが、ぐっと堪えて、喉までせりあがってきたものを飲み込んだ。昔から、ずっとこうやってきた。
携帯電話の電源を切って、卓袱台の上に放って、天井の明かりを消すと、にこは薄い布団に潜り込んだ。目を閉じて、深呼吸をして、副交感神経を刺激して眠気を誘発させようと試みてみるが、上手くいかない。あの電話をとるまでは心地良かった静寂が、今はもう、ちっとも嬉しくない。些細な物音があったとしても耳に入って来ず、余計なことばかり考えてしまって、目が冴えてきてしまう始末だ。
(もう駄目だ……酒の力を借りよう)
むしゃくしゃしたり、落ち込むことがあると直ぐに酒精に頼る癖はどうにかした方が良いと理解はしている。けれども、そうでもしないとやってられないのも事実で。にこは起き上がるなり、暗闇の中で手を動かして、近くに落ちていた薄手のパーカーを探り当てるとそれを部屋着の上に羽織り、トートバッグの中から財布を取り出すと、自宅の部屋から出て行く。近くのコンビニまで足早に赴いて、迷うことなく缶ビールの6本パックを購入して帰宅する。そして缶ビールを一気に飲み干していき、泥酔した彼女は卓袱台に突っ伏して、気絶するように眠りだした。部屋の電気を点けたままにして。
翌日の朝。太陽の光と鳥の鳴き声につられて自然と目を覚ましたにこは、二、三秒ほど黙考した。どうして自分は布団の上ではなくて、畳の上で寝ているのだろうと。それから徐々に意識が覚醒していって、彼女は事態の悪さに気が付いた。
「っ、今何時!?」
運の悪いことに目覚まし時計をセットしていなかったので、いつも起床している時間に起きることはできなかったが、幸いなことにぎりぎりの時間に目覚めることが出来たので、会社に遅刻することだけは免れたのだが――その日の仕事の質は散々で、お局様の怒りを買ってしまったのだった。
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