第6話 ありのままに覚えているようで、思い出は意外と美化されている

 二連木槐には大好きな女の子がいた。媚山にこという名前の、三歳年上の女の子だ。

 彼女との出会いは、槐が小学二年生の頃まで遡る。会社を経営している父親の意向により公立ではなく私立の小学校に入学した槐はバス通学をしており、その日もいつものようにスクールバスの停留所で降車していた。ただ、子供の足で十五分程度はかかる自宅までの道のりで一匹の野良猫と出会し、好奇心に満ち溢れている低学年の槐はその猫を追いかけ――当然のように迷子になる。


『どうしたの?どこか怪我でもしたの?』


 見たことのない景色に怯えて、人通りの少ない道端で泣いていると、偶々通りがかった年上の女の子が声をかけてきてくれたので、槐は藁にも縋る思いで彼女にしがみついていた。鼻水を垂らし、滝のように涙を流している槐を何とか宥めながら、槐から情報を引き出した女の子は、彼の手を引いて近くの交番まで連れて行き、人語を忘れたように泣いている槐に代わって、お巡りさんに事情を説明してくれた。人が良さそうな中年男性のお巡りさんは”二連木”という珍しい苗字と、その他の情報で大凡の見当をつけ、警察署を通して、槐の家に連絡を入れてくれたのだった。

 警察署から連絡が来たことに驚いた母親が大慌てで交番まで駆けつけてくれたので、安心した槐は余計に大泣きしたものだ。その日の夜に、母親から話を聞いた父親にはこっぴどく叱られもしたが。因みに槐は自宅からそう遠くないところで迷子になっていたらしい。


『……おねえちゃん?』


 親切な女の子に御礼を言おうとしたのだが、その女の子はいつの間にかその場から姿を消していた。お巡りさん曰く、槐が母親の腕の中で泣き喚いているうちに家に帰ったのだそうだ。

 後日、お世話になった交番を訪ねた際に、槐は女の子のことを尋ねてみた。ちゃんと御礼を言いたいのだと訴えると、人の良い中年のお巡りさんは、彼女についてそれとなく教えてくれた。

 ”にこちゃん”とお巡りさんに呼ばれていた女の子は、交番からそれほど遠くないところに建っている古びたアパートの一室に母親と二人で暮らしているらしいこと。近くの公園でよく姿を見かけるということを聞いた槐は母親と運転手の森口さんに頼んで、公園まで連れて行って貰う。すると偶然にも”にこちゃん”は其処にいて、遊具や砂場で楽しそうに遊んでいる同年代の子供たちをどこか寂しそうに眺めている。その横顔が、『仲間に入れて』と言えないでいるようにも見えた。母親と繋いでいた手を放し、ベンチに座っている”にこちゃん”目がけて駆け寄ると槐は大きく息を吸った。


『にこちゃん、この前はありがとうっ!一緒に遊ぼうっ!!』


 引っ込み思案で友達作りが上手とは言えない槐は勢いに任せて口走っていた。後ろで成り行きを見守っていた母親があんぐりと口を開けてしまうほど、それは意外な出来事だったのだ。”にこちゃん”――小学五年生の媚山にこは呆気にとられた後、ぷっと吹き出して、『良いよ』と答えてくれた。

 それが、槐とにこの付き合いの始まりだった。




 学校が終わるとスクールバスに乗り、停留所で降車すると自宅まで駆け足で向かう。帰宅するなり大急ぎで荷物を置いて、制服から私服に着替えると、二人分のおやつを手にした槐はあの公園へとこれまた駆け足で向かっていく。かけっこが苦手だった槐はこの行動を繰り返していくうちに、速度はあまりないものの長く走ることが少しだけ得意になっていった。そのことは両親に大変喜ばれたものだ。

 公園の入り口で待っていてくれるにこと合流して、二人でおやつを食べると、他の子供たちと共に遊具で遊んだり、東屋で宿題を見て貰ったりするのだ。夕方になると運転手の森口さんが迎えに来てくれて、にことは公園で別れる。そんな日常だった。

 学年が上がり、槐が小学生から中学生になっても、にことの付き合いは続いた。高校生になると直ぐににこが新聞配達のアルバイトを始めたので、一緒に過ごす時間が減ってしまったことが寂しかったが、そうしなければならない理由を知っていたので彼女に文句を言うことはなかった。

 にこの母親は自己中心的な、奔放な人物だった。娘のにこよりも自分を優先し、離婚した元夫から振り込まれる月々のにこの養育費を勝手に使い込んでしまうほどで、生活はにこが支えているようなものだった。

 ――誰にも頼らないで生きていけるような人間になる。

 その夢を叶えていく為の第一歩として、四年生大学に進学したいのだと言っていたにこは、家計をやりくりしながら、アルバイトをしながら入学金や学費に当てるお金を貯めていた。目標の為に頑張る彼女に憧れて、彼女の力になりたくて、槐の学校の成績はそうそう悪くはないのだが、にこに家庭教師をして欲しいと頼んだ。両親にも、勉強を見てくれるにこに御礼としてお小遣いをあげて欲しいと頼んだ。初めは訝っていたにこだが、物凄く真面目に槐の勉強を見てくれた。その御蔭で成績はより良くなり、両親は喜び、お小遣いという名目のお給料を快く出してくれた。


『ありがと、槐。今月、ちょっと苦しくて……助かったよ』


 お小遣いを渡す時の、にこのほっとしたようにはにかむ顔が槐は好きだった。彼女の役に立てたのだという満足感が得られるからだ。同情から始まったその思いはいつしか恋情に変わっていき、槐はにこを恋の相手として見るようになっていった。けれども彼女は槐を”弟”のようにしか見ていないのだと直ぐに分かって、寂しくて、悔しかった。

 槐は、にこの特別な存在になりたかったのだ。




 ――転機は、槐が中学三年生の時に訪れる。

 共に受験生となった二人は早々に志望校を決めていた。槐にやる気を出させようとしたのか、にこが『志望校に合格したらお祝いしてあげる』と言ってきたので、槐は思い切って『高校生になったら恋人になって欲しい』と懇願したのだ。彼女は『良いよ』と答えてくれた。槐の言葉を本気にはしていないのだろうと嫌でも分かって、悔しかった。

 夏休みに入る前に、自分の受験勉強に専念したいとにこが申し出たので、槐はそれを了承した。彼女の夢の邪魔はしたくなかったのだ。にこは携帯電話を持っておらず、彼女の自宅にも固定電話がないので、連絡は直ぐに途絶えた。無性に会いたくてどうしようもなくて、何となく二人で遊んでいた公園に立ち寄った時に東屋で勉強しているにこに遭遇した時は胸が弾んだが、彼女の表情が厳しく、近寄り難い雰囲気で声はかけられず終いだった。にこがあんなに頑張っているのだから、自分も頑張らなくては。受験に合格さえすれば”恋人”になれるのだから、と言い聞かせて、槐は我慢した。

 そして迎えた合格発表の日。槐は無事に、志望校に合格した。早くこのことを彼女に伝えたくて、合格通知を片手ににこが住んでいるアパートに向かうと――にこは其処にいなかった。彼女の母親も。空室となった部屋だけが、其処にあった。呆然と立ち尽くしている槐を見かけて声をかけてきた大家の話によると、つい三日ほど前に母と娘はこのアパートを出て行ってしまったらしい。一所懸命に貯めていたお金を母親が取り上げて男に貢いでしまったせいで、にこは大学に進学することを諦めて、就職することを選んで此処から出て行ったのだと。実の娘に酷い仕打ちをした母親は反省することもなく、男を追いかけて何処かへと行ってしまったのだと。

 にこは槐に何も言わずに、姿を消してしまった。約束が守られなかったことよりも、にこの境遇に理不尽さが悲しかった。自分のことで手一杯で、にこに救いの手を差し伸べてやれなかったことが腹立たしかった。




 ――それから五年もの月日が流れた、あの日。

 大学生となっていた槐は人数合わせで連れて行かれた合コンを途中で抜け出して、タクシーを拾って自宅に帰ろうと通りまで出てきた。すると往来で豪快に転んだ女性がいたので、ちょっとした親切心で助け起こしたのだ。酒の臭いをぷんぷんと漂わせている酔っ払いの顔を覗きこんで、槐は瞠目した。


『にこちゃん?』

『……はい、そーですよ。いつでもにっこり、にこにこにこちゃんです。……それがどーしたよ、ばかやろー…… 』


 馴染みのある口の利き方で確信した。この酔っ払いの女性は五年もの間、槐の頭の片隅に居続けた媚山にこだ、と。彼女に再び出会えた喜びで、槐は胸が震えた。まさかその後、とんでもない目に遭うとは思ってもみなかったが。更には自分の存在を綺麗に忘れられている始末で、槐は悲しくて泣きたくなった。槐はふとした時に、寂しげな表情をしたにこを思い出していたというのに。

 翌日の朝。兎に角、やってしまったことがやってしまったことなので責任を取らなくては。と、覚悟を決めていた槐に、にこが突然土下座をしてきた時は呆気にとられてしまった。


(セックスをした責任を取れと言われない方が傷つくんだ……)


 自分はこんなにもにこを想っているのに、にこは槐のことを全くと言って良いほど想っていない。その差が悔しくて、腹が立ち、槐は彼女に条件を出していた。大人しくにこを解放したくなかったという思惑もあったが、別の思惑もあったのだ。

 タクシーの中で酔っ払っているにこがぼそぼそと呟いたり、初めてのセックスの後に全裸で大の字になっているにこの寝言などで槐はにこが置かれている状況を大凡把握していた。

 結婚を意識していた男に二股をかけられていた挙句に捨てられ、自暴自棄になって職場でその男を殴りつけ、辞表を叩きつけてしまったこと。その後にまたしても母親が引き起こした面倒事に巻き込まれて、もう一度自暴自棄になって大金を失ってしまったこと。再就職が上手くいかない日々が続いて苛立っていること。天に二物も三物も与えられていそうな男――槐が目の前にいて物凄く腹が立ったので痛い目に遭わせてやろうと思ったことなど、本当は起きているのではないかと疑ってしまうほど確りとした寝言だった。

 踏んだり蹴ったりとはこういったことを言うのだろうかと、槐はにこに同情した。


(あの時は何も出来なかったけれど、今ならにこちゃんを助けてあげられる。……違う、役に立ちたい、頼って欲しい。僕はにこちゃんを捨てたりなんてしない……)


 そんな槐の決意はあっという間にあっけなくぶち壊される。


『今、手持ちの金がないんで交通費ください。あと、ゴム無しでセックスしたんで、産婦人科に行ってアフターピル処方して貰うんで、その分の代金もください』

『……はい』


 合コンで必要になるからと、財布の中に一万円札を何枚か入れておいて良かったと、その時、槐は思ってしまった。

 偶然の再会と強姦事件――槐は強姦されたと思ってはいないが――脅迫によって始まった、槐とにこの新しい関係。槐はにこと距離を縮めようとするが、にこは線を引いて遠ざかろうとする。真似事でも良いので、加害者と被害者ではなく、恋人として付き合いたいと願っている槐がつい記憶の中の”にこちゃん”の面影を探して、”にこさん”が不愉快そうに睨む。今はぎくしゃくとした関係でも、いつかは歩み寄っていけると良いと願って、一つ一つ丁寧に潰されていっているが、槐はめげない。

 傷ついた獣のようなにこを慣れさせるには時間が必要だ。恋人の契約している一年の間に少しでも自分を好きになって貰えるようにと、槐は今日も頭を悩ませる。

 目標に向かって頑張っていた格好良い”にこちゃん”も、捻くれている割には生真面目さが出てしまっている”にこさん”も槐はいとおしい――女の趣味が悪いのだろうかと、多少、思ったりもするが。

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