第4話 契約内容には勿論従いますけれども

 あれこれと考えた結果、自給は千五百円なり。交通費は支給され、経費の支出も認められている。更には自分の都合――主に就職活動――を優先して良し。非常に割が良いと言っても過言ではない”恋人契約”を交わして、早一月。にこは疲れている。それには理由があった。

 犯罪歴がないことが自慢だった人生を諦めたように、事務系の正社員及び契約社員を諦めた途端に、にこは工場のロングパートタイマーの職を得ることが出来た。月曜から金曜まで毎日八時間勤務、社会保険に加入、交通費支給、土曜・日曜・祝日は休みの職場の自給は、簡単だという仕事内容もあってか最低賃金よりは高い程度だ。それでも贅沢に暮らそうなどと思わなければ良いのだし、今は”恋人契約”による収入もあるから、突然解雇されない限りは問題ない。”お小遣い”と称して渡される予定の月給は貯金に回して、次の就職先探しのための資格の勉強に励んでいこうと計画をしていたにこは、その時までは元気だった。

 問題は、ここからだ。何に使うのかよく分からない工業製品の部品を作るのと同様に、新規の人間関係を構築している最中のにこは、慣れない細かな作業で磨り減らしている神経をより一層磨り減らす状況下にあるので憂鬱だ。


(……最悪だよ、今日は親バカ松田に一日中纏わりつかれた……)


 勤務先にいるパートタイマーの殆どは女性で、更には主婦がかなりの割合を占めている。年齢は二十代から六十代と様々で、面接官をしていた社員の男性によると『和気藹々としている職場』とのことだったが――その実態は、格付けしあう女性たちの園だった。以前勤めていた会社でも女同士の戦いはあったので、まあ、あるだろうなと想像はしていたのだがまさかここまでとは、にこは想像だにしていなかった。

 にこが配属されたのは、彼女を入れて六人で構成されている作業班だ。メンバーの打ち分けは、こうだ。どうやら自分をリーダーだと思っていらっしゃる六十代前半のマダム小坂。事情があってマダムの舎弟をしている五十代後半の高橋さんと、五十代前半の佐藤さん。高校受験を控えている一人息子を溺愛している四十代と思われる親バカ松田。そして最後に、小学生の子供二人を育てているシングルマザー中谷。以上が、にこの先輩にあたる方々だ。この中でもある程度の格付けが出来上がっており、新参者のにこも早速格付けをされた。その結果、にこは何故だかマダム小坂と親バカ松田に目を付けられてしまったのだった。

 今日は出勤の時点で親バカ松田に捕まってしまい、仕事中も休憩中も延々と溺愛している一人息子の自慢話を聞かされ続けていたにこは終業を迎えるまでにグロッキー状態に陥っていた。だが、誰も救いの手を差し伸べてはくれない。精々シングルマザー中谷が哀れみの視線をくれるくらいだ。

 マダム小坂に標的にされるのも面倒だが、彼女の場合は税金対策としてショートパートタイマーとして雇われている為に接する時間は少なく、また、彼女の機嫌が良ければ比較的絡まれることは少ないのでまだ楽なのだ。だが、親バカ松田はそうはいかない。彼女はにこと同じロングパートタイマーだ。最悪の場合、出勤途中に拘束され、退勤しても尚解放してくれない――それはもう、強力無比な蝿取り紙の如き粘着力で。

「口を動かす暇があったら手を動かせよ」「息子がさっぱりしたものが食べたいっていうから献立を考えろ?知らねえよ、酢でも飲ませておけ!」「高校の制服のデザインを気にするより、息子の偏差値を気にしろ。ちゃんと知能レベルに見合った高校を受験させろ」などとぶちまけたくなるのを必死で堪え、にこは一日中ぎこちない笑みを貼り付けて、親バカ松田のどうでも良い息子の話に相槌を打っていた。今日は金曜日。勤務時間が過ぎれば、二日間の休日が待っている。と、自分に言い聞かせて。


(……はあ、やっと一息吐ける)


 精神的苦痛から解放されて安堵の息を吐いていると、使い古した手持ち鞄の中に放り込んである携帯電話がブルブルと震え出した。手にとって確認してみると、”恋人”とやらからメールが届いていた。メールには、『今夜、時間があるのだったら食事でも一緒にどうですか?』と書かれている。新しい職場が決まったにこが休日を律儀に伝えると、彼はこれまた律儀にそれを守り、金曜の夜、土曜、日曜、祝日に予定を伝えてくる。


(このまま家に帰って、銭湯に行って癒されて、さっさと寝たいってのに……)


 にこが住んでいるのは安い家賃が魅力のボロアパートだが、風呂はついている。偶の贅沢として、近所にある銭湯に向かうことがあるのだ。昭和の風情漂う銭湯だが設備は確りとしているし、番台に座っているおばちゃんの人柄の良さも合って居心地が良い。風呂上りに飲む、冷えたコーヒー牛乳は絶品だ。そんな銭湯”青空の湯”は、にこの数少ないお気に入りの場所である。こんな風に精神力を使い果たした日こそ、あの銭湯に行って至福の時間を味わいたいのだが――”恋人”の呼び出しに逆らうことは出来ない。彼は、にこの弱味を握っている。出来る限り彼の要望に応えなければ、にこを待っているのは警察署のお世話になることだ。


(自業自得なんだけど、なんだけど……っ!!!)


 そう、何もかも自分が悪い。そう理解していても、やりきれない気持ちになるのだ。にこは深い溜め息を吐いてから、最寄の駅まで徒歩で向かっていく。そして、”恋人”に代金を支払わせて手に入れたICカードを利用して、駅の改札を通っていった。






**********






 三十階建ての高級マンションのエントランスには受付があり、其処には”コンシェルジュ”と呼ばれている職業の方々がいる。品のある立ち居振る舞いをする彼らに伺いを立ててからでないと、マンションの住人の許へと向かえないシステムになっているらしい。

 掃除、手入れの行き届いている輝かしいエントランスには到底似つかわしくない、安っぽい格好――値下げを狙って購入した安物のブラウスとデニムパンツ、売れ残っていたスリッポンシューズのコーディネート――をした小柄な女が迷い込んで来たのに、コンシェルジュの一人が気付く。顔馴染みになってきた、初老の男性コンシェルジュだ。彼はにこりと微笑んで、迷い子――にこに「こんばんわ」と挨拶をしてくれる。にこも「こんばんわ」と挨拶を返した。


「媚山ですが、×××号室にお住まいの二連木様は御在宅でしょうか?」

「媚山様で御座いますね。二連木様より伺っております。どうぞ、奥のエレベータールームへお進みください」


 ”恋人”が予めコンシェルジュに話を通してくれておいたらしく、すんなりと奥のスペースへと進む。エレベーターに乗り、目的の階まで上がり、”×××号室”と書かれた金色のプレートが張られている扉の前までやって来たにこは深呼吸をしてから、嫌々インターフォンを鳴らした。僅かの間の後に扉が開かれて、部屋の中から恋人”が――槐が現れる。彼はにこの姿を認めるなり、蕩けるような笑みを浮かべた。それを目にしたにこの背中に悪寒が走る。


「いらっしゃい、にこちゃん。お仕事で疲れているだろうに、来てくれて有難う」

「……お邪魔します」


 そう思うんだったら仕事が終わった時間を狙ってメールしてくるんじゃねーよ。と、喉まで出て来た言葉を強引に飲み込む。槐と”恋人”でいるのは最低でも一年の期間を設けると、契約書に記載されている。その契約書は槐の直筆で契約内容、契約成立の年月日、彼の姓名が書かれており、止めとして実印まで押されている代物だ。そのようにしろと言ったのはどこぞの酔っ払い犯罪者だが、その当人もまさか本当にその通りにしてくるとは思っていなかったので、「あんなこと言わなきゃ良かった……」と今更ながらに後悔しているところだった。そこまでさせてしまった手前、あっさりと契約を反故にするのも悪いような気もしてくる始末だ。直ぐに忘れて、槐に八つ当たりをしてしまうのだが。


「食事を作れとの御命令ですが、御希望の献立は御座いますか、二連木様?」


 此処にやってくる前に届いたメールには「出来れば食事を作って貰いたい」という要望が書かれていた。返信をする前に辿り着いてしまったので、今、問いかける。ゆっくりと振り返った槐は、苦笑を浮かべていた。


「申し訳ない、命令をしたつもりはないんだ。にこちゃんが作りたいものを作ってください。……それと、二連木様は止めて貰えないかな。これまで通りに、槐、と呼び捨てにして貰って構わないと言ったと思うのだけれど、ね。恋人、なのだから、そんな風に呼ばれるのは……悲しいな」


 恋人って言う時どうして一々赤面するんだよ。処女か、てめーは!などと言った悪態が喉を突いて出そうになってしまうのを根性で堪えるが、にこは槐を白い目で見てしまっている。心情が隠しきれていない。


「……それでは、槐様。冷蔵庫の中にあるもので適当に作っても構いませんか?」

「勿論だよ。どんな料理を作って貰えるのか、楽しみだな。……ところで、にこちゃん。様付けも止めて欲しいのだけれど……」


 キッチンへと向き合おうとしていた足を止めて、にこは振り向くなり、槐を睨みつける。


「……だったら、人のことを”にこちゃん”って呼ばないでくれる?私がこの名前を毛嫌いしてること、あんた、知ってるでしょ?今後は媚山で宜しく」


 向かっ腹を立てたにこは敬語を使うことを忘れ、地の話し方をしてしまう。その剣幕に、槐は僅かに怯んだ。


「でも僕にとって、にこちゃんはにこちゃん、だから……」


 ずっと使い続けていた呼称を使うなと真っ向から言われた槐は動揺している。”あの頃”は槐を弟のように感じていたこともあり、本当は嫌いで堪らない”にこちゃん”呼びを許していたが、にこは今は訳も無くそれが許せなかった。


「……ちゃん付けではなくて、さん付けなら……良いかな?」

「媚山」

「……にこさん」


 あくまで下の名前で呼びたいらしく、槐は一歩も引かない。従順なようでいて、頑固な一面もあるのだと思い出したにこは早々に折れた。変に意地の張り合いをしたとしても、何にもならないからだ。


「……どうぞ御自由に」

「有難う、にこさん」

「キッチン、使わせて貰うね」

「ああ、うん……」


 抱擁をしようとして伸ばしてきた槐の腕を無視して、にこはキッチンへと姿を消す。流れるようにしてすり抜けていったにこを見送った槐は、寂しげな目をしていた。


「さて、と。何を作るかな……」


 コンシェルジュ付きの高級マンションで一人暮らしをしている槐は家事をしているのか。それは否だ。食事は大抵外食か出前で済ませている。簡単な洗い物程度は自分で済ませているようだが、掃除や洗濯などは本宅から派遣されてくる家政婦に週四日ほどのペースでやって貰っているらしい。その際には食事も作って貰うこともあるので、一人暮らしにしては大きい冷蔵庫には食材がきっちりと整頓されて収納されている。因みに調味料も、調理道具も一通り揃っている。例によって、高価そうなものばかりだ。


(雇い主が自由に使って良いって言ってるしねー)


 通いの家政婦が使い込んでいるフライパンを無遠慮に使って、テキパキとオムライスを作る。他には、具が少ないコンソメスープと、キャベツの量がやたらと多いサラダも拵えた。ガス代、電気代、食費を気にする生活が長かった為、にこは手の込んだ料理を作るのが苦手だ。


(ははっ、貧乏臭いわー)


 出来上がった夕食をダイニングテーブルの上に並べていく。この豪華な部屋には似合わない、みすぼらしい料理に見えて、にこは嫌気が差してきた。にこの様子を気にすることなく、卵がパサパサで味の薄いオムライスを嬉しそうに食べている槐を見て、彼女の気分は余計に落ち込んできた。


「普段はあまり食べないものを食べられるから、にこちゃ……にこさんが作ってくれる料理を食べるのが楽しみなんだ」

「あー、そーですか、そりゃどーも」


 栄養のことを確りと考えている家政婦の料理やら、ドレスコードのある料理店の料理やらを食べ慣れている人間からしたら、にこが作る”腹を満たすだけの料理”が新鮮に感じられるのだろう。槐の賛辞を素直に受け止められない自分の僻み根性が嫌だった。

 あまり会話の弾まない食事が終わる。再びキッチンに向かったにこは食器洗い機に使い終わった食器をセットして、スイッチを入れる。あとは洗い終わって乾いた食器を元の位置に戻すだけだ。


(ん?)


 近くで物音がするので、ちらりと目をやる。いつの間にかやって来ていた槐が黙々と、食後のお茶の用意をしていているのが見えた。


(……槐が淹れるお茶、悔しいけど美味しいんだよね、昔から)


 お情けでさせて貰っていた、家庭教師の仕事。その都合で二連木家にお邪魔する度に、槐はお茶を御馳走してくれたものだ。茶道の師範代の資格を持つ母親に仕込まれたらしく、彼はお茶を点てるのも淹れるのも上手だった。また日本茶に限らず、中国茶、紅茶、ハーブティーなどにもそれなりに詳しい。

 言葉をかけることも無く彼の横を擦り抜けて、にこはリビングのソファにどかりと腰掛ける。背凭れに体重を預けて、深い溜め息を吐いた。


(疲れたなー、早く帰りたい……)


 この調子ではアパートの部屋に辿り着いた途端に眠ってしまいそうだ。お気に入りの銭湯で癒しの時間を過ごすのは明日の朝にでもしようかなどと考えていると、風変わりな香りが鼻腔を擽ってきた。


「お疲れ様、にこさん。お茶でも如何ですか?」

「……はあ、どーも」


 ローテーブルの上に置かれた無色透明の硝子のティーカップには、ウーロン茶のような色のお茶が淹れられている。然し、香りが全然違う。このお茶は、何だか香ばしい香りがする。


「マテ茶、というお茶だよ」


 ぼうっとティーカップを眺めていると、槐がお茶の正体を教えてくれた。


「とても疲れているようだったから、このお茶が良いのではないかと思ってね。疲労回復に効果があると言われているらしいんだ。にこさんの口に合うと良いのだけれど……」

「出されたものは有難く頂戴しますよ、貰えるものは何でも欲しい貧乏人なんでね」


 言わなくても良い嫌みを言ってから、マテ茶を口に含む。独特の甘味と苦味が不思議に感じられるが、程好い濃さで美味しい。


(……疲れの原因の一つは、あんただっての)


 そんな槐に「疲れているようだったから」と言われたことが可笑しく思えて、にこは笑ってしまう。


(良かった、口に合っていたようで)


 にこの力の無い笑みを盗み見た槐は勘違いをしていた。


(あー、限界だわ、こりゃ。帰ろう……)


 満腹感と疲労感が合わさって、強烈な睡魔へと変化する。にこは、ゆらりゆらりと舟を漕ぎ出した。このままでは此処で寝入ってしまいそうなので、にこは退散することに決めた。


「……悪いけど、もう、帰るわ……」

「大丈夫?具合が悪そうだけれど……。横になって、少し休んでいって――」

「うるさいな、かえるっていってんで……しょぉ……」


 ぐるんと世界が一回転して、視界が真っ暗闇へと変わる。にこは意識を失うように、眠りに落ちてしまった。相当疲れが溜まっていたのだろう、暫くすると彼女は鼾をかき出した。

 失神するように眠りの世界に落ちていき、鼾をかいている女を始めて目の当たりにした槐は呆気にとられていたが、直ぐに寝室の扉を開け放ち、すっかり熟睡しているにこを横抱きにしてベッドまで運んでいく。小柄なにこだが完全に脱力しているので、意外に重たく感じられる。腕力に自信の無い槐には重労働だった。

 にこをベッドに寝かせた槐は縁に腰掛けて、ほっと息を吐く。


「ん……えに、す……」


 手入れのされていないバサバサの髪を撫でていると、不意に名前を呼ばれたので、槐はびくりと身を強張らせる。そろりとにこの顔を覗きこんで、彼はほっと息を吐いた。起こしてしまったのだろうかと思ったが、寝言を言っただけのようだ。それでも、名前を呼ばれたことが嬉しくて――槐は衝動のままに、そっと唇を重ねた。にこの唇はかさかさとしているが、柔らかい。その感触を一層味わいたくて堪らなくなって、もう一度、もう一度としていくうちに槐は彼女の唇を貪っていた。

 はっと我に返った槐はにこから体を離し、足早に寝室から出て行く。


「うーん、あるく……えーてぃーえむ……どーてい……めんどい……ぐぅ……」


 両者の唾液で口元がべたべたになっているにこは全く目覚める気配を見せず、程なく、止まっていた鼾が再開された。




 書斎へと逃げ込んでいた槐は後ろ手に扉を閉め、そのまま扉に背を持たれて――ずるずると崩れ落ちるように座り込んでいく。


(寝込みを襲うなんて、最低だ……)


 グレーのチノパンを押し上げるほど膨らんでいる股間を手で押さえつけ、槐は自己嫌悪に陥る。この一月、”あの夜”以来、槐はにこと性交渉をもたなかった。傍にいて貰えるだけで幸せだったからだ。それなのに、無防備になっているにこに欲情して、そのまま欲に流されかけたことが情けなく感じられて仕方がない。


「……っ」


 更に情けないことに、一度立ち上がってしまった欲望は治まっていく様子を見せてくれない。槐はファスナーを下ろし、下着の中から勃起している性器を取り出して――自らを慰め始めた。

 悪酔いをしていたにこの痴態を思い浮かべながら、掌で、指で熱の塊を扱いていく。彼女の舌の動き、指の動き、目の前で揺らめいていた腰、蜜を零す彼女の性器を思い出すだけで、ゾクゾクしてくる。この手の中にある欲望が彼女の中に納まった時の感覚を思い出して、より一層、興奮が高まっていく。


「にこ、ちゃん、にこちゃん……っ!はあ……あ、あぁ……っ!」


 全身の産毛が逆立つような震えを感じた槐は、果てた。汚れのないフローリングの床に、槐が吐き出した白濁が撒かれている。上がった息を整えている槐はくたりと萎えた欲望から手を離し、虚ろな目で、自分が放ったものを眺めていた。

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