15 調律

「じゃあハル君……目を、閉じて」


 豊音は腰まで流れる長髪を掻き上げつつ、受け取ったPACEを白いうなじに装着する。髪を結うにも似た仕草。両腕を上げて生まれた脇腹や胸のラインが妙に扇状的だった。

 ぽーっとれていると、お姉様系美少女が陽明の両肩に手を添えて、きゅっと口許に力を入れる。


「(な、ななな何なの急にっ!? え、まさかキ……人前で何してるのよこの二人はっ!?)」


 あわあわと目を白黒させた御波を尻目に、薄く頬を赤らめた豊音は鼻先がくっ付きそうな距離まで顔を近づけていく。そのまま唇……ではなく、熱でも測るみたいに額を合わせた。


 その瞬間、光が弾けた。

 豊音の全身からリーフグリーンの光芒が溢れ出して、プールサイドや備品を初夏の森みたいな新緑に染め上げていく。


 洗礼。

 ふと、そんな言葉が脳裏を過ぎる。


 聖水で罪を洗い流し、けいけんな神の信徒になる為の儀式。西洋の宗教画を喚起させる霊妙な光景に、思わず目を奪われてしまった。


ちっちゃい姉ちゃんなー、あれはPACEの調律なんだなー」

「豊音先生はハルアキさんの調律師ビショップですからね」

「ハルアキだけずりぃよな、豊音先生のおっぱいを独り占めしやがってよ。しかもあんなエロい格好で!」


 いつの間にか近くに寄ってきていた三馬鹿小学生に話し掛けられる。


ちっちゃい姉ちゃんもなー、エバジェリーに興味があるなら試してみたらいいんだなー」

「え、いいの?」


 差し出されたチョーカー型の機械を受け取る。金属質なイメージがあったが、思ったよりも軽くて柔らかかった。カチューシャの感触に近いかもしれない。


「問題ありません、エバジェリーは各地で頻繁に体験会を行っていますから。それにそのPACEは大量生産され、人による調律を必要としない汎用型スタンダードタイプ。我々が普段から使っている協会レンタルの備品です。ハルアキさんが使ってる固有型ユニークタイプよりも高性能なんですよ」

固有型ユニークタイプは化石みたいに古くさいから使いたくねぇんだよな。ま、豊音先生があんな風に調律してくれるなら考えるけど……ホント、ハルアキだけずりぃぜ!」

「ふーん……じゃあ、ちょっとだけ」


 軽い興奮を覚えながら、うなじにPACEを装着する。

 

 実は小さい頃、両親からエバジェリーの体験会に参加してみないかと言われた事があった。


 画期的な技術だと紹介されたのだが、当時の自分はいまいち乗り気になれなかった。生まれた時から生身での飛行技術が存在していた為、両親が感じているほど特別な力だと思えなかったからだ。感覚としては、綺麗な歌声や美しい外見と大差ない。

 だから御波にとっては、両親が今更スマホやインターネットを画期的な技術だと言い出したのと同じ状況であり、幼いながら非常に困惑してしまったのを覚えている。


 あの時は参加しなかったが、今となっては興味が湧いている。期待感で頬を紅潮させつつ、側面にあるスイッチを入れてみた。


「……ねぇ、何も起きないんだけど」

「全然なー、駄目なんだなー」

「無意識の中で識力シンシアを生み出せないんでしょうね。まあ識力シンシアは生まれ持った素質で、生み出せる人は少ないですから。それこそエバジェリーの競技人口が増えにくい最大の要因だったりします」

「うわ、雑っ魚! 小学生の俺達でも余裕なのにできねぇでやんの!!」

「ふ、ふふん、安い挑発ね……大人な私がそんな言葉に踊らされるとでも?」

「明らかに動揺してるんだなー、背丈だけじゃなくて器までちっちゃいんだなー」

「ついでにおっぱいもちっちゃいよな! 本当に大人なら豊音先生を見習うべきだぜ!」

「ふっ、二人とも、いくら本当のぶふっ……事だとしてもっ……口に出すのはふふっ……まずいですよ」


 ブッッッチン、と。

 極太のゴムが弾けるような音が脳内で炸裂した。


「こんのクソガキ共があーっ!! 特に二人目のエロガキ、お前だけは絶対に許さんっっっ!!」


 逃げろーっ!! と蜘蛛の子を散らすみたいに走り去っていく三馬鹿小学生。口に出せないほど残酷な社会勉強をお見舞いしてやろうと本気で迷ったが、寸前で理性が勝った。闘牛も尻尾を巻いて逃げ出すくらい荒い鼻息を放ちながら、鬼の形相でクソガキ共を睨み付け続ける。


「……小学生相手に何マジギレしてんの?」


 PACEの調律を終えた陽明が呆れ顔を浮かべていた。隣では指導員コーチの少女が「またあの子達は……」と頭を抱えている。


「にしても御波、今日一日ですごくアイツらに懐かれたな。やっぱりあれか? 精神年齢が近いのか?」

「豊音先輩。陽明の基礎トレーニングのメニューを倍にしてあげてください。しかも飛びっきりキツい地獄みたいなヤツで!」

「了解、任せておいて」

「嘘だろ、冗談が全く通じてない!?」


 肩を落とした陽明が、大きく溜息を吐いた。


「でも豊音先輩、すごいですよね。指導員コーチをしながら協会の仕事も手伝って、おまけに生徒会の副会長までしてるんですから。私だったらパンクしちゃいそうです」

「別に、大した事はしてないよ」


 豊音は面映ゆそうに首を振る。


「私なんてまだまだ半人前、みんなに助けられてばっかりだし」

「またまた、ご謙遜を」


 実際に、九高における豊音の評判は凄まじく高い。

 

 才色兼備の完璧超人。

 生徒会の業務を影から知的に支え、教師からも厚い信頼を得ている。男女や学年を問わずに人望を集めており、良い噂しか聞こえてこない。ここまで揃えば、非の打ち所を探す方が難しいだろう。高い能力や成果を鼻にかけない態度も、彼女の評判を上げる一因になっていた。


「逆に、豊音先輩の苦手な物ってなんですか?」

「苦手な物?」

「豊音は音痴だぞ」

「ちょ、ちょっと!?」


 素っ頓狂な声を出した完璧超人の隣で、陽明がニヤニヤと悪い顔になる。


「リズム感は最悪で、音程も取れない。しかも本人がそれに気付かないからタチが悪い。自覚してからは人前で歌わないようにしてるけどな。全校集会とかで校歌を斉唱する時も口パクで誤魔化しいたたたたっ!! ひふぁい、ひふぁいよふぉふぉふぇさん!?」

「ハールーくーんーっ!」


 むすっと眉を吊り上げた豊音が、調子に乗った馬鹿の頬をつねり上げた。しかしその姿はどこか楽しげで、まるでやんちゃな飼い犬を躾けているようにも見える。


「へぇ、ちょっと意外です」

「?」

「いえ、学校での豊音先輩って隙がないって言うか、もっとお堅いイメージがあったので。そんな風に子どもっぽい一面もあるんだなってビックリしちゃいました」

「そ、そう?」


 陽明の頬から手を離すと、照れを隠すように目を伏せた。副会長としての真面目な姿しか知らない為、素直な反応を示す様子は非常に新鮮。何だか一気に親近感が湧いてくる。


「ああ、そう言えば」


 御波は練習中に思い出した事を口にした。


「『てんじゅつ』は来ないんですか? 確か、九天大学を拠点にしてるんですよね?」

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