第32話 浮気

  客室に入ると、楓が驚いた声を上げた。

「レイ、ダブルベッドなんだけど!この部屋、間違い?」

「間違いじゃないよ。」

私は荷物を部屋の隅に置くと、ベッドに座って言った。

「楓とのこと、ムハンマドにバレちゃってさ。良かったらダブルの部屋用意しようかって言ってくれたから、好意に甘えたの。その方が良いでしょ?」

「え、まあ...。でも、バレたの、なんで?」

「ベッド。片方しか使ってなかったからね。」

「ああ...なんか恥ずかしいわ。」

「まあ、結果オーライじゃん?ダブルの部屋に泊まれることになったし。さ、シャワー浴びてゆっくりしようよ。明日の予定も考えなきゃ。」

「じゃあ、シャワー浴びてくる。」

楓がバスルームに消えたのを見て、私は地中海を臨むべく作られているバルコニーに出て、煙草に火をつけた。アレキサンドリアではホテルの喫煙所に押し込まれていたから、なんだか少しホッとした。最も、目の前には真っ暗な海しかなかったが。

  約1週間、ここに滞在する予定にしているから、とノートパソコンを持って来ていた。流石に休学中とは言え、大学からのメールを無視するわけにもいかないし、カイロに戻る度にゆっくりすることに決めた以上、通訳のバイトをしないという選択肢は無いな、と思いバイトを完全に休むという予定は撤回してきていたから、仕事の依頼が来る可能性もあった。パソコンを起動し、メールソフトを立ち上げた。アレキサンドリアでは一度もパソコンを起動していなかっただけに、メールが溜まっていてゲンナリした。しばらくして、楓がシャワールームから出てきたので、パソコンをスリープモードにして閉じ、代わりにシャワーを使った。


  私がシャワールームから出てくると、

「何で私が出てきた途端にパソコン閉じるのよ。」

と、楓のご機嫌が斜めになっていた。

「え、何で...って言われても。私が旅行中に仕事とかしてたら、楓は嫌かなって思ったからさ。」

「本当にそれだけ?」

「あぁ...そういうことか。疑ってんの?」

ため息が出た。

「疑うなら、メール見せようか?大体さ、もしそんなメールのやり取りするなら、普通は携帯使うでしょうが。携帯も見る?付き合ってから私が楓に嘘ついた事ある?」

「ごめんなさい...。」

ベッドの上にぺたんと俯いて座っている楓を見て悲しくなった。私は彼女の横に座って言った。

「ねえ。私って、そんなに信用ないかな?」

「信用してないわけじゃないの。...でもたまに、レイ、辛そうな顔してる。私の知らない何かがレイにはあるんだって思って。それが、何だか怖くて、不安になるの。」

何と答えれば良いかわからなかった。私が抱えてきたセクシャルマイノリティーとしての過去の傷。楓を失うかもしれないという、漠然とした予知のような、暗闇が迫る不安。それが彼女を不安にさせていたとは考えもしなかった。

(...話すべきなんだろうか?)

「ごめん、まだ話せるほど整理出来てないの。不安にさせてたなんて知らなかった。ごめん...。」

そう伝えるのが精一杯だった。

「レイ、整理出来てなくても良いから、辛 いなら話して。不安にさせないでって言ったじゃない...。」

彼女はそっと私の手に触れた。私は彼女が泣いていることに気づいた。

「楓、泣かないでよ。...いつか、ちゃんと話すから。」

私の怯えている闇の為に泣いているのだろう、と思うと切なく、彼女を愛おしく思った。

  私は彼女の肩を抱いて、彼女の頬を伝う涙を指で拭った。楓は顔を上げると、私に抱きつくようにして唇を重ねてきた。咄嗟の事でバランスを崩し、そのままベッドに倒れた。まだ濡れている髪が冷たかった。私は身体を反転し、彼女を下にした。涙が渇ききっていない彼女の目がキラキラと光って綺麗だと思った。

「電気、消す?」

楓が頷くのを見て、私は手を伸ばしてリモコンで電気を消した。楓の身体が熱くなっていて、彼女がいつも以上に求めているように感じられた。

  腕が私の首にかかり、引き寄せられ、私達は息をするのも忘れ、唇と舌を貪り合った。水の中から顔出すように彼女が息継ぎをした。彼女の香がそうさせるのか、耳に届く声がそうさせるのか、彼女の鎖骨に唇を這わせると、なんとなく甘い味がしたような錯覚を覚えた。

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