興味

 他人の感情に同調して笑うことの、なんと怖ろしいことだろう。しかしだからといって他者を遠ざけることを孤高などと言い換えて、ひとりきりになることも惨めに思うのだ。だから友人もいないのに一人前に恋人なんか作ってみせて、独りでも構わないけれど他者と協調することもできるのだ、と澄まし顔をすることにした。わたしにとって、恋人は、せめてもの社会性の象徴だった。

 異性はともかく、同性に敵を多く作りそうなやり口だったけれど、幸い周囲はおりこうさんの集まりで、わたしを腫れ物みたいに扱った。見合わない学力の進学先を志望して、無理にでも合格したのは、それを見越してのことだった。概ね目論見通りの生活で、重畳の首尾と満足していた。誤算は、わたしに恋愛をする能力の欠けていたことだった。

 はじめはうまくやれていたと思う。愛想よい態度も、甘えた仕草も、まあまあかわいらしく表現できていたのではなかろうか。わがままを言いつつ、重くならないように配慮して、ほどほどにバカを演じてみせた。慣れないながらも相手の好みに合わせて着飾ったり、趣味を共有したり、そういったことは案外にも楽しい時間となった。向こうだって、楽しんでいたに違いない。彼の笑顔を見る度に、わたしにも他者と寄り添う能力がちゃんと備わっているのだなあと安心していた。

 ……うまくいかなくなった原因は、わかっている。体を許さなかったせいだ。もちろん、確かめたわけではないし、尋ねればきっと彼は否定するのだろう。でも、それ以外に、相手の求めを受け流したことなんか、彼を不満に思わせたことなんか、なかったはずだ。……なんて言うと、あんまりにも自信過剰だけれど。

 べつに、最初から断っていたわけじゃない。それも恋愛において大事なプロセスなのだろうと思っていたし、興味がなかったと言えば嘘になる。だから何度かは誘いに応じて、求められているという本能的な悦楽の、その快感に酔いしれた。技術の巧拙はさておいて、行為に臨むということそのものを楽しめていたとも思う。ただ、回数を重ねて、セックスそれ自体への新鮮味が薄れ慣れてゆく毎に、必要性に対する疑問が首をもたげた。

 生物としてこの世に存在する以上、生殖行為は実存と分かち難い意義であり、そのために生きていると言っても過言でないだろう。そしてその前駆段階である恋愛感情や恋人関係もまた、繁殖行動の一環として位置されるべきもののひとつに違いない。いや、恋愛などという狭い括りに限定する必要もない。誤解を恐れずに言うのなら、人間を含めた有性生殖を行う生物の、あらゆる行動一つびとつ全てが、種の遺伝子の存続のためにあるようなものだ。それなのに人間は、繁殖やらの本能と、愛やらなにやらの人間性というやつとを、ことあるごとに区別したがる。人間独自の行動は、「人間」という動物のアルゴリズムにおける特性でしかないにも拘わらず、本能とは異なる崇高な行いと思いたがる。人は考える葦であるという言葉は、考えたところで葦でなくなることを言っているわけじゃないでしょう?

 その思い違いを批判しようというわけじゃなくて。きっとそう考えることも人として大事な衝動だと思うから。だからわたしは、愛と性欲とを、強いて区別してみたくなったのだ。愛し愛されるという感覚が、性感の充足を除いても満たされるものと信じたくなったのだ。そう思ったとき、体を重ねる快感やそこに訪れる安心感が、ひどく邪魔なものに感じられ始めた。交尾を経なければ繋ぎ留めていられない関係ならば、互いの人間性を否定することになるのではないかと思われ始めた。愛と本能とを別と仮定したときに、彼に対する愛の証明のために、性欲はノイズでしかなくなったのだ。

 それで、わたしなりに彼へ尽くしつつも、セックスだけ避けるようになったのだが、それは彼の目には思春期の面倒くさい潔癖に映ったのか、或いは彼のプライドを傷つけることになったらしかった。わたしなりの考えを伝えてもみたのだけれど、彼の耳にはややこしい言い訳としか聞こえないようだった。わたしも、彼の立場だったら納得しないような気もしたから、強く主張もできなくて、意見は平行線を辿った。それでもわたしとしては、「ヤりたい」「ヤりたくない」を言い合える関係というのも人間らしくて良いかも、と思っていて、別段彼を疎ましく思うようにはならなかったのだけれど。それはわたしだけのようだった。

 ひとつ、溜息を吐く。廊下を歩く短い間に額に滲んだ汗を、片腕で拭う。

 昇降口の戸から、ガラス越しにも白むほどの熱が入り込んでいた。夕間暮れに下駄箱は静脈血のように赤黒く染まっていたけれど、昼時の太陽の熱狂はいつまでも足元にとりついて陽炎を立ち上らせていた。履き替えた革靴は、うんざりするほど熱かった。

 ひとりきり、静まり返った校舎を這い出ながら、ブラウスの首もとに指を入れて襟ぐりを揺らす。服の内側で籠った空気が流れ出た代わりに、入ってきたのがジメっとした熱気では、扇ぐ甲斐もない。腕を動かしているだけ反って暑くなるばかりで、ボタンをひとつ外して手を下ろした。

 見上げた空は、中天から西の街並みまで紫から深紅のグラデーションを描いている。深い影を青く塗りこめた入道雲の傍らに、それと寄り添った一番星を見つけたとき、今日が終わるのだとようやく実感して、なぜだか涙が滲んだ。なにひとついつもと変わらない一日が、なにもないまま終わっていくだけ。それだけのことなのに、どうしてこうも肩の力が抜けていくのだろう。なにも為せなかった自分に、後悔しているのだろうか。

 遠く、校庭を挟んだ向こう側、運動部の使う倉庫の前に幾人かの生徒の気配があって、影に沈んで姿は見えないが楽しげな声が夕空に弾んでいた。正門へと流れていく声たちの、広がっては名残惜しく消えてゆき、またぱっと広がる様をしばらく目で追っていて、わたしは踵を返し、裏門へと足を向ける。こちらに人通りはなく、幸い誰ともすれ違わずに済んだ。

 門を抜けると、すぐ外側に門扉の陰でしゃがみこむ男があった。少しだけ意表を突かれてたたらを踏んでしまう。彼はそんなわたしを認めて、顔を傾けて見上げると、片手をひらりと振った。

 「おつ」

 「おつかれ。待ってくれてたの」

 「まあね」

 彼は肩をすくめた。夕日の最後のひと滴に濡れたその顔にあったのは、疲れたような、空元気の作り笑いだった。見ていたくなくて、わたしは俯く。

 彼がこうしてわたしの下校を待っていたのは、一週間ぶりだろうか。数字にするとたかだか七日かそこら、しかし随分と懐かしいことのように感じた。以前は毎日のように一緒に帰っていたはずだったのに。

 わたしを待っていたと言うけれど、彼はなかなか立ち上がろうとしなかった。しゃがみこんだまま、門扉に背を預け、暗くなっていく空をいつまでも見つめていた。通りの向かいに街灯が点る。彼の明るく染めた髪やたくさんぶら下がったピアスがそれを映して輝く。彼に乗せられて空けたばかりのピアスが、耳でじくじくと痛んだ。

 「暑いな」

 ぽつりと彼が言う。

 「……そうだね」

 わたしも空を見上げて応える。

 星の瞬きにさえ押し込められて、わたしたちの間の言葉が塞ぐ。彼にはきっと話したいことがあるはずで、でもそれはわたしの聞きたくない言葉のはずで、だからといって、時間は何も解決してくれなくて。仮令この場で話さなかったとしても、結論は何一つ変わらないままで。

 ぐるぐる考えていたら、また、涙が出てきた。唇を噛む。深呼吸をする。ここで泣くのは、ズルすぎる。汗を拭うふりをして、「ほんとに暑い」なんて呟きながら目を擦った。彼の視線を感じたけれど、声は上ずってなかったと思う。バレてない、大丈夫だ、大丈夫だ。しかし、あまり余裕はなかった。どちらにしても彼の前でみっともない姿を晒すなら、もういっそ、早く言うべきことを言ってほしかった。もう一度深呼吸をしてから、上を向いたまま、わたしは口を開く。

 「それで、どうしたの」

 「いや、その、さ」

 「うん」

 「……別れたい」

 「うん。そうだよね。なんか、ごめんね」

 「いや、お前が悪いっていうわけじゃなくて……!」

 「いいよ。別れよ。ありがとね」

 初めての恋愛で、だから初めての失恋だった。別れるときの作法というやつはよくわからなかったけれど、重たいやつだと思われたくなかった。彼にとって聞き分けのよいやつでいたかった。ゆっくりと息を吐く。まだ、大丈夫、まだ泣いていない。だけど次の瞬間にはわからない。わたしはひとり、歩き出す。

 わたしの背中に、また彼の声がかかる。わたしの足は、それだけで勝手に止まってしまう。

 「ほんとに、お前は、すごいやつだと思う。なんていうか、自分の気持ちとか、考えとか、そういうのをただ持っているだけじゃなくて、自分が考えていることをちゃんと見つめているっていうか……」

 わたしはなにを言われているのだろう。別れる理由を正当化したいのだろうか。置きどころのない情動に言葉を与えて、形を与えて、そうして初めてひとは自分の感情を知る。だからこれは彼にとって必要な過程なのかも知れないが。わたしに対してそれを語るのは、少し酷じゃないか?

 なんて思いながらもこの場を立ち去れないのは、単純に未練からだった。今からでも、彼の気持ちが変わるのでないかと、あり得ない期待がずっと胸の中で暴れまわっている。

 「おれが悪いんだ。お前が自分のことをすごくよく考えてるの、かっこいいって思ってたんだけど、でも、おれ、途中から怖くなっちゃって。自分のことを考えるのと同じくらい、お前がおれのことを考えてくれてるのか、疑うようになって。これだと、ダメだと思った。お前にいつか、おれの勝手な不安をぶつけるような気がしたんだ。そんなの、いやだから。だからおれ、」

 「うん、もうわかったよ。大丈夫。ありがとう。この二か月、すごく楽しかったよ」

 最後、ようやく振り向いて、わたしはもう一度、「ありがとう」と言った。彼はいつの間に立ち上がっていて、街灯の描く白い円の隅っこに足元だけ浸して、俯いていた。なんでそっちが傷ついているのよ、とちょっと笑えてしまう。なんだか泣くタイミングを逸したようにも思えた。

 「またね」

 「おう、また」

 最後は無理にでも笑顔で、お互いに手を振って別れた。知らず歩調の速くなったのは、泣き顔を見られたくないと思ったのもそうだけれど。彼の言葉に、急に罪悪感がこみあげてきたからだった。自分のことを考えるのと同じくらい、おれのこと考えてくれているのか。思ってもみなかった問いだった。わたしは彼のことをずっと考えているつもりだった。しかしそれはほんとうか? わたしは彼のことを考えているつもりで、彼との関係においてわたしがどうありたいのか、ばかりを考えていなかったか。わたし自身の一挙手一投足に注意を払うばかりで、彼の思うことにどれほど興味を持っていただろう。

 興味。そう、彼の言いたかったことはとどのつまり、「お前はおれに興味ないだろう」という一言に尽きるのだろう。そしてわたしは、ある、と即答できるほどの確信を持ち合わせていなかった。不思議な話だ。二か月も一緒にいて、わたしは彼に関心を向けていなかったのか。彼がわたしに興味を持っているのか考えることがあっても、その反対については、まるで考えてこなかった。わたしが今、こうして悲しんでいるのも、彼から向けられる愛情を失ってしまったからであって、わたしの気持ちを裏切られたからではないのだ。それがわかると、潮の引くように悲しみが冷めていった。わたしは、わたしのことを考えるばかりで、ひとのことを考えたことなんかこれっぽっちもなかったのだ。

 わたしは、他者との交流が怖ろしいのではなかった。ただ、他人に興味のない人間というだけだった。

 やがて夕日は街並みに呑まれ、星は街の明かりに霞んで遠ざかる。アスファルトにこびりついた熱だけが、未練がましく立ち上り、わたしの足に、首元に、そして街灯に絡みついてぶら下がっていた。

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