日常・恋情未満

雨の音

 たとえば彼が、生徒用玄関の三和土に敷かれたすのこの上に座り込み、片開きのガラス戸から空を見上げていたとき。わたしは彼に、どんな言葉を掛けられるだろうか。ガラス戸越しに映るのは、校庭の際に並ぶ高い柱と、その間に張られた緑色のネット、そしてそれらに今にも捕らわれそうな灰色の雲だった。雨粒が地を打つ微かな音と、柔らかい土の匂いが戸の隙間から漏れて流れてくる。廊下に満ちた静寂に、微かな波紋を広げては収束する。彼は伸ばした喉をそれらに晒して、静かに空を見上げていた。わたしは下駄箱の陰につい立って、彼の短く刈った髪とか、几帳面に立ち上がる白シャツの襟とか、まくり上げた袖から突き出る日焼けした腕とか、そういうのを何となしに見下ろしていた。

 ひとつ、静かに深呼吸。それから大袈裟に溜息を吐いて、下駄箱の陰から身を乗り出した。彼がはたと振り返る仕草は、体躯に見合わず小動物のようだ。わたしも驚いたふうを装って足を止める。彼に向け、首を傾げる。

「よっ、そっちも補修? どしたの、こんなところで」

「おー、おつかれ。いやなに、雨が降っているなあ、と」

「傘忘れたの?」

「まあそれもそうなんだけど……」

 言葉尻を濁して、彼はまた外へ目を向けた。何か言葉が続くものと思ってしばらく待ってみたが、彼は口を閉ざしてそれきり語らない。彼の言葉は淡い雨音に飲まれて薄暗がりに溶け出してしまったらしい。そのうちに彼自身さえも静寂の中で泡と消えてしまいそうな気がして、間違っても姿を見失わぬよう、隣に腰を下ろした。すのこの足が三和土を打ってカタリと鳴る。雨の匂いの中、柔軟剤らしき仄甘い香りが微かに渦を巻く。

 彼に背を向け、腿を抱える。触れぬ程度に寄せた肩には、確かに熱を帯びていた。彼がまた振り向いたのがわかったけれど、わたしは小波のように行き来する雨音に耳を澄ます。彼も何も言わなかった。

 光源の定かでないような薄明かりが辺りに満ちて、廊下に時の流れが淀んでいる。地面や校舎の外壁を打ちささやかに刻まれる沈黙の足音だけが、重たい歩みを続けている。教員は今も忙しく働いているのだろうが、どうして校舎にひとの気配はなく、或いはこの場所だけが雨に隔たれ、時に取り残されてしまったように思えて不安になった。一層、肩越しに伝わる彼の息遣いに意識を澄ます。

 不安の出所はまた、彼のその物憂いな面差しにも因った。傍目に見る彼はいつだって、人の輪の一歩後ろで穏やかに笑んでいたものなのに。その笑みを見つけると、わたしはいつだろうと何故となく心が安らいだものなのに。今は下駄箱一つひとつの中から染み出し滴り落ちる影が足許に這い寄るのを止める手立てが見当たらない。

 知らず、口を開いていた。

「ねえ、」

 そう呼び掛けたのも考えるより先のことだったから、自分の声で我に返っても継ぐべき言葉が見つからない。その辺りに転がってやいないかと慌てて視線を巡らせたが、もちろんそんなものは一片たりとも落ちていなかった。

「ん、どうした?」

 応える彼の声は、こんなときでさえ耳に心地よい。彼はいつの間に体ごとこちらを向いて、胡坐をかいた足首に両手を乗せて座っていた。先までの憂いは鳴りを潜め、背後の雨に飾られた、ほんのりと温みを帯びた笑みを浮かべている。いつもの彼が湛えているそれと同じ顔。だけれど今は、その内奥に別の感情があることを知っている。

 ほんとうなら問い質して洗いざらい吐かせてやりたいような気もしたけれど、彼はきっと、押せば押すほどのらりくらりと身を躱すのだ。だからわたしは精々鼻頭に皺を寄せ、思い切り睨みつけるしかなかった。それからふいっとそっぽを向いてみせる。少々芝居掛かりすぎていたかも知れないが、彼は直後、堪えきれぬというように吹き出した。けらけらと笑う楽しげな彼の声ががらんどうの廊下を踊り、辺りに淀む静寂の端を蹴り飛ばす。下駄箱の背に蟠っていた影が身を縮める。わたしがそれを目で追う間、彼はしばらく肩を揺らしていたが、やがてほっと息を吐き、私の名を呼んだ。いつだって彼はわたしなどにはもったいないくらい丁寧な、まるで雛鳥でも扱うみたいに繊細な声音でひとの名を呼ぶ。それがどうにもくすぐったくて、引き結んでいたはずの唇が抗えず緩むのだった。

「ありがとう」

 彼はまだ頬に笑みの気配を漂わせながらそう口にして、よいこらと重そうに腰を上げ尻のほこりを払う。思い切り背伸びをする。それから足許に目を向けて、そこでまだ座ったままのわたしを見下ろし、悪戯っぽく片方の口角を上げた。

 からりと、小石でも放るみたいに簡単に言う。

「ホントはさ。このまま死のうかと思っていたんだ」

「はい?」

 語調と内容がちぐはぐで、現実離れしていて、咄嗟に意味をつかみかねた。

「……ちょっと、冗談だよね?」

「そうかもね」

 彼は肩をすくめる。笑みが他人を遠ざける力を持つことを、わたしはこのとき初めて知った。言葉に詰まるわたしをよそに、彼は転がしていた通学鞄を拾い上げ、手首を返して肩に掛ける。何事もなかったかのように踵を返す。

 帰るつもりだ。そう気づいてわたしも慌てて立ち上がった。拒絶されようと知ったことではない。下駄箱に手を伸ばしている彼に詰め寄る。

「冗談だよね?」

 驚くようなことなどあるまいに、彼は丸くした目でわたしを見下ろす。しかしそれも束の間のこと、次の瞬間には力なく目を細めた。笑みと言うにはあまりに弱々しいそれ。その泣き顔みたいな笑みが、きっとほんとうの彼であるような気がした。

 彼は俯いて、もごもごと恥ずかしげに呟く。

「僕の決意なんて、ちっぽけなものだね」

「なにがあったかなんて知れないけど。そんな決意、いらないよ……!」

「あはは。……ありがとう」

 彼は空いている手で目元を拭った。溜息を吐いたかと思うとその身から力が抜けて、下駄箱にもたれかかる。それだけではそのまま頽れてしまいそうで、わたしも肩を支えてやった。非力なわたしの手などあってないようなものかも知れないが、そうしてやらないと気が済まなかった。

 しばらく彼は俯いたまま小さな呼吸を繰り返していた。体格差のせいでそう俯かれるとむしろわたしが彼の顔を覗き込むような位置取りになってしまうのだが。どうにも気まずく、窓の外に目を遣って雨の音を聞いていた。それでも震える肩からは決して手を離さなかった。

 雨は止む気配を見せない。それどころか一層強くなって、いつしか窓を打つ音が校舎内に押し迫るようだ。しかしそれは停滞した時間や沈黙を押し流してわたしたちの間に満ち、淀みを隅から洗ってゆく。

 意を決し、彼を見上げた。彼も徐ろに身を起こし、深呼吸をしているところだった。

 数瞬、何を口にすべきか迷った。だけれどこういったときに何を言うのが正しいのか知らなかった。だからわたしは、冗談めかしてこう言ったのだ。

「傘、入れたげよっか?」

 彼は掠れた声で、ありがとう、と小さく笑った。

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