先生

 賑わいはじめた居酒屋の一角で、若い女の楽しげな笑い声が上がった。気の早い冬の太陽は疾うに沈み、祭日を明日に控えた店内の客入りは上々、既にあちらこちらで悲喜交々の言葉とも単なる声ともつかないような音の波が打ち寄せて、女の声はその喧噪にほとんどかき消されてしまったが、それで充分に用を成した。女の向かいに座る男が苦り切った顔をして応えたのだ。

 ボックス席の背もたれに深く身を預け、男はオレンジジュースのグラスを傾けながら、半ば呆れたような表情で女の話に頷いている。女はその味気ない反応に気づいていたが、構わずに喋り続けた。女の記憶にある彼はいつだってそんな様子だったし、それでいてちゃんと耳を傾けてくれていると知っていたからだ。久しく顔を合わせていなかったというのに、彼は女の知るままの彼だった。

 両手で支えたビールのジョッキを口に運んで傾ける、その僅かの間だけ捲し立てるように続いた女の話が途切れた。喋り続けで余程喉が渇いたのか、小さく傾けたジョッキでいつまでも唇を湿らせている。火照った頬は疲れのためか、酔いのためか、或いは他に理由があったのか。女が息を整えるより先に、男が口を開いた。グラスを卓に置く、コトリという軽い音に何故か女は微かに肩を震わせた。

「今は、大学生か」

「そ、うです。三年!」

 一瞬だけ女は言葉に詰まったが、すぐにもとの調子を取り戻し、勢い込んで頷いた。むしろ頬に赤みを増して笑みは華やぐようだ。年齢に見合わぬ幼い仕草に男は苦笑しながら続ける。視線を女から外し、少し遠くを観るような顔でしみじみと言う。

「じゃあ、お前が卒業して、もうすぐ丸三年になるわけか」

「そうですよう。なんか、あっという間ですよね」

「確かに、あっという間な気もするが……」

 そこで男は言葉を区切り、女に改めて目を向けた。

「お前を見たら、そうとも思えん」

「なにそれ。どーゆーことですかぁ」

「三年もあれば、人は変わるもんだな、と」

「それって褒めてます? 大人っぽくなった?」

「さてな」

 男ははぐらかしてまたオレンジジュースを口に含んだ。女は不満げな声を上げたが、男を責めるような半眼を向ける頬には笑みの色がある。男もそれには気づいていて、しばらく勿体つけてから肩をすくめてにやりと笑む。明言を避けた態度に、女はむしろ実を見て、堪えきれぬというようにくすくす笑った。

 店員が運んできた焼き魚を二人でつついていると、女が「あ」と声を漏らした。男は魚の身を飲み下しながら怪訝な目を女へ向ける。

 女は箸を置くと、脇に置いていたバッグを引き寄せて中に片手を差し入れた。底まで伸ばした手が取り出したのは、片手を広げればのるほどの四角く平たい箱だ。深紅の外装に金の縁取りや装飾があしらわれたもので、角にはリボンまで掛けられている。表の中央にはやはり金の飾り文字でショコラティエのロゴが控えめに印字されていた。それを女は、はい、と無造作に片手で差し出す。

 男はすぐには受け取らず、ますます不思議そうな顔をした。

「なにこれ」

「なにって、チョコレートですよ。見ればわかるでしょ?」

「そりゃ、わかるけど。でもなんで?」

「今日がバレンタインデーだからです」

「いや、それもわかるんだけれども」

 急かすように女が小箱を突き出すため、男は渋々とそれを受け取った。箱と女の顔とを見比べる。女は澄ました顔で食事へ戻ってゆき、言問いたげな男には気づかぬふりを貫いた。そこにいじけた幼子のような頑なな態度を感じ取って、しかし男は敢えて口を開く。

「これ、俺に用意したものじゃないだろ」

「……そんなこと、ないですよ」

 女はジョッキで口元を隠し、くぐもった声で答えた。男はもはや呆れ顔だ。

「ばればれの嘘を吐くんじゃない。俺とお前は、さっき、そこで偶然会った。違うか?」

「わたし、実は予知能力がありまして。先んじて購入しておいたのです」

「あほ。俺の顔を見てバカみたいに驚いていたじゃないか。あと、これ、どう見ても女ものだろ」

「先生、女じゃなかったっけ?」

「そんなわけあるか」

 あくまでとぼけ続けるつもりらしい女の額を、男はもらった小箱で小突いた。両手で額をおさえ、大袈裟に痛がってみせる女に構わず、男はとどめとばかりに言葉を突きつける。

「これ、お前がもらったものだろう」

「……」

 女は口を噤んで俯いた。額にあてがった手をふらふらと下ろして、箸を掴む。そして次々と魚の身を口に運びはじめた。決して激しい所作ではなかったが、強い圧力を伴うようで男が声を掛けあぐねている間に女は二人で分け合っていたはずの魚を食い尽くす。次いで傍らでまだ半分ほど残っていたビールを思い切り呷って一息に干してしまった。ジョッキを割らんばかりの勢いで卓に叩きつけ、顔を上げる。酒が回って充血した目が仇敵でも前にしたみたいに男を睨みつけた。

 一方の男は事の次第をおおまかに悟って、グラスで隠した口元に苦い笑みを浮かべた。余計なことを口にした、と後悔していた。

 歪めた唇から、女が吐き捨てるみたいに言う。

「わたし、チョコレート嫌いなんです」

 その話は、何度もしていたはずなのに……。そう、憎らしげに呟く。

 女はこの日、お昼から恋人と外出していた。アーケードを冷やかし、偶然見つけた飲食店で食事を摂り、そして一日の行程のしめくくりに、先のチョコレートを渡されたのだった。

「食べられないものもらうの、申し訳ないじゃないですか。だから前々から、苦手だよ、って話を何度もしていたんですよ。それなのに」

 女の恋人には多々そういうところがあった。彼女の趣味を理解せず、彼女の価値観に歩み寄ろうとせず、上辺だけの優しさや共感を取り繕って彼女に自分の隣にいることを求めるのである。女がこれまでそれを黙認してきたのは、彼女なりに相手を知ろうと努め、まだ付き合いも短いことだからと期待していたためだった。

 女は結局何も言い出せないまま恋人からチョコレートを受け取った。女の内心には諦念があった。或いはこのまま今日がお開きになっていたなら、明日以降も惰性のような関係が続き、また期待のようなものを抱くことができたのかも知れないが、そうはならなかった。女の恋人は、彼女を自宅に誘ったのだ。その意図は明白で、だからこそ女ははっきりと断った。今日はそういう気分にならない、と。しかし恋人は曖昧な笑みで強引にも女の手を引いていこうとしたのだ。

「わたしの話なんか、あいつはイッコも聞いちゃいないんです。聞く気もない。そんな人と一緒にいられるものかと思って、別れてきちゃいました」

 だからそれ、もらってください。女はそう言って、男の手にある箱へ汚いものを目にしたときのような渋面を向けた。男は肩をすくめ、簡単に頷いてさっさとチョコレートの箱を自分の鞄にひっこめた。納得したのではなく、拘泥して女の怒りを再燃させるのは面倒だと思ったのだ。

 ジョッキが空いていることに気づいた店員に代わりの飲み物と料理とを注文してから、男は溜息交じりに言う。

「それだから、ひとりで商店街をふらふらしていたわけか」

「そうです。やけ酒でもしていこうかと思って。でも、ひとりだとちょっと心細かったので、先生がナンパしてくれて助かりました」

「ナンパとか言うな」

 即座に否定した男に、女はむしろ楽しそうに笑った。

 そのうちに飲み物が届き、二人は本日二度目の乾杯を交わす。酔いが回るにつれ女は何はなくともケラケラ笑うようになり、酒を口にしていない男は女の笑い上戸に戸惑いつつも、やはり時折笑みを浮かべて、互いにつまらない冗談を応酬するのだった。

 やがて夜も更けてゆき、会計を済ませた二人が店の表へと出てきた。深夜の冷気は肌に突き刺さるほど凍てついて、吐息は手に取れそうなほど白く染まった。女は上着の襟に鼻まで埋めて声にならない悲鳴を上げる。

 小刻みに足踏みして体を揺らす女の後ろから、遅れて男が現れる。「おー、さぶっ」、と男も首を縮めて身を震わせた。男を見上げ、女は頭を下げる。

「ゴチになります」

「いや、いいよ、誘ったのは俺だから」

「でも、わたしばっかり話しちゃったし、先生はお酒飲んでなかったし」

「生徒の前で飲むわけにもいかないからなあ」

「む。わたし、もう卒業してますよ。生徒扱いしないでください」

「お前は俺を先生と呼ぶじゃないか」

「わたしはいいんですよう。だって、先生の方がまれているし、きているもん」

「屁理屈を……」

 男が溜息を吐くのさえ面白そうに女は笑って、勢いに任せ男に肩をぶつけてじゃれついている。男も諦めて、女を小突いて返した。そのうちに、最寄り駅までの僅かな道程を、どちらからともなく歩きはじめる。

 先までとは打って変わって、会話はなく穏やかな道行きだった。つかず離れずの距離を保ったまま、彼らは並んで歩いていく。商店街にはまだ多くの人の出入りがあって、そのほとんどが赤ら顔や千鳥足を引きずって騒ぎ立てていたが、それらとはまるで隔絶されているかのように、二人の間には静寂が落ち込んでいた。

 駅に辿り着く。男の自宅はこの先を歩いていったところにあって、電車は利用しない。改札まで女に付き添って、男は足を止めた。女は男の正面に回り、改めて頭を下げ、礼を言った。幾らか酔いが落ち着くに従って自分が度を超した態度を取っていたように思われ申し訳ない気持ちになっていた。恐縮して小さくなる女に、男は笑いかける。

「気にすんなって。俺も楽しかったよ」

「……嘘だあ」

「ほんとうだって」

 似合わぬ笑みで頷く男を、女は上目遣いに見上げる。何か言いたそうに数瞬男を見つめたが、何をも言い出せずにもう一度頭を下げた。女は「それじゃあ、」と踵を返し、男は彼女の背中に軽く手を振る。女がホームに降りるまでは見送るつもりで、女の後ろ髪にぼんやり目を向けていた。知らず、男の口から吐息が漏れ、こころなし肩が落ちた。すぐにそれは、自嘲の笑みに変わった。

 女は淡々と、振り返りもせずに改札へ向けて足を運んでゆく。そして改札を抜けるべくICカードを改札機にかざす、その寸前で動きを止めた。それに気づいた男が首を傾げているうちに、女はくるりと身を翻し、今来た道を急ぎ足に辿って男のもとまで戻ってきた。

 目をまぁるくしている男に、女は視線を迷わせながら切れぎれに言った。

「あの、今日は先生に話を聞いてもらえて、すごく、有り難かったです」

「お、う」

 女の緊張が伝播して、男の声が上擦る。

「つきましては、後日、何かお礼をして差し上げたい所存でおりまして……」

 その顔が赤いのは酔いのためばかりではない。

「えと、連絡先を交換してはいただけないでしょーか」

 ぐるぐる目を回してしどろもどろになっている女の様子に、男は思わず笑いが漏れた。それを聞いた女がはっと我に返り、ますます顔を赤くする。

「なんですか、なんで笑うんですかあ」

「いや、すまない。実は俺も、少し期待してた」

「ん? んー?」

 酔いに加えて緊張もあり、男の言葉を吟味する余裕が女にはなかった。女が深く考えるより先に男が慌てて携帯電話を取りだしたために、有耶無耶になってしまった。そして連絡先を交換したあとには、高揚感も相まってすっかり忘れていた。

 画面に表示される男の名に、女は満足げな顔で男を見上げた。

「絶対、連絡しますね」

「おう。待ってるよ」

 肩をすくめる男の顔も、微かに赤みを帯びていた。

 それから女は、先よりも足取り軽やかに改札をくぐり抜けていった。ホームに降りる直前まで、人目を憚らず何度も振り返っては大きく手を振った。男も苦笑しながら一々に手を挙げて応えた。

 女の姿が見えなくなって、男はそっと手を下ろす。家路に足を向ける。

 駅を去ってゆくその背中に、その足取りに、少年のように浮かれた調子が宿っていたのは、隠しようもないことだった。

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