ぼっちの青春馬鹿話

 全国の学校のうち大多数がそうであるように、我が高校の屋上はその出入り口が固く閉ざされていた。人はこの扉一枚に、小さな錠一つに、容易くその行動を縛られてしまう。昔映画で見た青春群像劇の一コマは、決して自身の手で再現することの適わないものなのだ。しかしこの憎きシリンダ錠が開いてしまうのなら、話は別なのである。

 掌に収まる、いかにも安っぽいありふれた形の小さな鍵に目を落とす。わたしだけがこの、屋上への切符を手にしたのは、まさしく自然淘汰の必然と言えた。

 数年前に在校したらしいとある生徒の優れた手腕によって、教員の管理下にあったはずの屋上の鍵に幾つもの複製が作られた。類い希なる才覚の持ち主であったかの先輩は、その複製品をただ無作為に生徒どもへばらまくのではなく、異なる学年、異なるグループ、異なるカーストに属する生徒を慎重に選び、個別に手渡していったのだ。その際に、こう言い含めることも忘れなかった。

「これは、お前だけに渡す。だからお前とお前の仲間だけでこっそり使え」

 思ってもみない恵みに、生徒どもは歓喜し、そしてこの先輩の言葉を鵜呑みにした。この僥倖を親しい生徒の他に洩らす馬鹿などありはしなかった。

 かくして幾つもの「たった一つの鍵」が世に放たれ、秘密裏に親しい仲の後輩へと受け継がれていった。しかし有象無象の秘密のベールは案外にも目が粗く、かの先輩が卒業してしばらくも経つと、社交的なグループに属する幾人かの生徒の交流によって鍵が複数あるらしいことが明かされていった。その希少性が薄れると、身内の生徒間にあったはずの固い結束すらも緩み、合鍵の存在は教師陣にあっさりと露呈した。一つの合鍵が見つかってしまえば、横の繋がりがあった別の合鍵もまた見つかるのは道理で、時間が掛かったとは言え終には全ての合鍵が教師陣の手に落ちた……かに思われた。しかしそうはならなかったのだ。この合鍵を広めた偉大なる先輩はきっとこうなることも想定内だったに違いない。だからこそ、数ある合鍵のうち一つを、淘汰の時代を生き抜くに相応しいひとりの生徒に託したのだ。

 つまり、横の繋がりをほとんど持たぬ、友人もいなければ先輩後輩の関係も薄く、その上この合鍵をもらったところで校則を侵してまで屋上に踏み入る気概も持たない生徒に、だ。一見死蔵するに等しいと思われたこの選択は、しかしこうしてわたしの代で見事に実を結んだ。似た境遇に身を置く生徒の間で、細く細く、しかし連綿と受け継がれた一筋の光は、これまた似た身の上にある私へと託されたのである。

 わたしはこの、悲しき系譜におけるひとつの希望となろう。今日この日まで、わたしの代に至るまで、この合鍵を使った生徒はいないのだという。わたしにこの鍵を引き継いだ、わたし以外の誰かと話しているところを見たことがないある先輩が、そう言っていた。俺も、結局使えなかったんだ。卒業式を目前に控えたあの日、彼は寂しげに、けれど後悔はしていないという風に言って、これを渡してくれた。

 そのときわたしは決意したのだ。顔も名前も知らぬかの先輩の、努力や才の最後の痕跡を、ただ眠らせておくままにするものか、と。

 わたしひとりが屋上に踏み出したところで、生憎と青春の光や花など感じようもなかろうが、それもかの先輩は織り込み済みだろう。わたしは鍵の根元をしかと握り込む。ときは放課後、ところは屋上前の扉。ひとけのないこの場所で、わたしは人知れず大いなる反抗と挑戦を試みるのだ。

 鍵を差し込んだ。高鳴る鼓動を圧して、そっと鍵を回す。……回そうと、思った。

 しかしどうしたことだろう。わたしの手には堅固で不条理な感触が反るばかりで、錠の回る気配が一切ない。一度鍵を抜き取り、挿し直す。……結果は同じだった。

 なぜだ。これを託してくれた先輩は、度胸も甲斐性もコミュニケーション力も、大凡あらゆる対人技能に適正がなかったが、嘘だけは吐かない人間だった。それは絶対だ。彼は嘘を吐いていない。彼の語った合鍵にまつわる歴史も、教室でクラスメイトがする会話の中に似たような噂があったのを離れたところから耳にしていた。つまり合鍵は全て回収されてしまったという噂話が存在したのだ。異なる情報源から似通った話が出ている以上、きっとそれは真実だったのだと思う。それなのになぜ。

 わたしはその場に立ち尽くし、しばし黙考した。この合鍵の歴史を振り返る。果たしてそこに答えがあった。

 教師陣は、合鍵の存在を知った。それも一本だけでなく複数本あるらしいと知ってしまったのだ。鍵の全てを回収するのは難しいかも知れない。そうなったとき、わたしだったらどうするだろう。考えるまでもない。簡単に解決する方法があるではないか。

 錠を交換したのだ。当たり前だ、誰だってそうする。

 つまり、この鍵は、まるきり無用の長物。なんということだ、ここに至るまでのわたしの決意、わたしの勇気はなんだったのだ。これではわたしは、歴史に踊らされた滑稽なピエロではないか。どれほど無情なことか。

 どうしてこうなってしまったのだ、わたしは何を間違えた。いや何も間違えてはいない。仕方がなかったのだ。我が系譜の先輩方は誰ひとりとしてこの鍵を使うことなく卒業していった。彼らに非はない。

 しかし屋上の鍵の噂があるのなら、そこに待ち受ける真実、非情なオチだって知る者があったはずだ。それだというのに、どうして彼らはわたしにそれを教えてくれなかったのだろう。わたしでなくてもよい。先輩方の誰かひとりでも真実を耳にしていたならば、こんな結末には至らなかったはずなのに……!

 ああ、その理由などわかりきっている。わたしたちのこの忌まわしき系譜が物語っている。因果なものだ。わたしはこの系譜によって屋上の合鍵を手にするに至り、同じ理由によってそこに隠された真実から遠ざかっていたのだ。

 顔を上げる。ほこり臭い階段で、目前の扉を睨みつける。

 わたしのこの慟哭を共有する者も、やはりいなかった。

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