自殺未遂から始まる恋物語

亜逸

第1話 ビルの屋上で

 ここから飛び降りたら、楽になれるかもしれない――そんなことを考えながら、新野にいの翔太しょうたはビルの階段を上がっていく。


 高校に入ったら一人暮らしをしてみたいという理由で、実家から遠く離れた水無月高校に通うようになったのが五ヶ月前。

 親元を離れ、中学までの友人が一人もいない高校生活に期待半分不安半分で臨んだ翔太を待ち受けていたのは、地獄のようなイジメだった。


 イジメの主犯格である〝彼〟は言った。

 お前を見てると何かイライラする――と。

 そんなくだらない理由で翔太は日常的に暴力を振るわれ、私物を壊され捨てられ、挙句の果てには金までせびられた。

 親からの仕送りは、無駄遣いをしすぎなければ問題なく日々を暮らせる金額だったが、何度も〝彼〟に金をせびられた結果、生活費が足りなくなり、イジメられているから仕送りの額を増やしてほしいと親に言えるわけもなく、アルバイトをすることでなんとか補填し続けた。


 やがて一学期が終わり、夏休みの間は帰省することで〝彼〟の魔の手から逃れた。

 けれど二学期になってから、夏休みの分を取り返すように〝彼〟からのイジメがエスカレートし、翔太の心身を致命的に摩耗させた。


 学校に相談しても、イジメがあるという事実自体をなかったことにしたいのか、ろくに取り合ってくれなかった。

 クラスメイトも、〝彼〟が恐いのか、助けようとしてくれた人間は一人もいない。

 それどころか、イジメに加担する人間まで出る始末だった。


 そして、九月の終わりに差し掛かった今日。

 住んでいるアパートが〝彼〟に知られてしまったらそれこそ終わりなので、大きく遠回りをしながら徒歩で下校していた時、たまたま通りがかった、繁華街の外れにあった取り壊し予定のビルが、なぜか、ふと目に止まった。


 この瞬間、翔太の心に差し込んだ魔が囁く。

 ここから飛び降りたら、楽になれるかもしれない――と。


 夕暮れに差し掛かっている時間帯だからか、誰もいないのをいいことに「KEEP OUT」と書かれたバリケードテープを潜り、吸い寄せられるようにビルの入口へ向かう。

 運が良いのか悪いのか、入口のドアに鍵はかかっていなかったので、そのまま中に入り、階段を上がっていき……とうとう、屋上へ続くドアの前までたどり着いてしまう。

 

 イジメに疲れ切っていた翔太の頭にあるのは、「もう少しで楽になれる」という言葉のみ。

 ここまで大切に育ててくれた親に申し訳ないと思う気持ちも、地元にいる友達が悲しむかもしれないと思う気持ちも、摩耗した心からは湧き出ることはなかった。


 あるいは、高校生活が始まる前以上の期待を胸に、ドアを開け、屋上に出る。

 そこで翔太を待っていたのは、



 今まさに、ビルの落下防止柵を乗り越えようとしていた少女の背中だった。



 男子平均以下の体格の翔太よりもさらに小さいため、中学生なのか高校生なのかも判断がつかない、どこか見覚えのある学校の制服に身を包んだ少女が、今まさにビルから飛び降りようとしていた。


 全く予想していなかった事態が、摩耗した翔太の心に活を入れる。

 気づいた時にはもう、少女の自殺を止めるために駆け出していた。


 翔太に気づいた少女が、こちらを振り返りながらビクリと震える。

 その一瞬の隙が、少女との距離を詰める猶予を翔太にもたらした。


「ちょちょちょちょちょッ!!」


 言っている本人ですら意味不明の奇声を発しながら、落下防止柵から身を乗り出しかけていた少女に後ろから抱きつき、体格の差に物言わせてこちらに引き寄せる。

 その際に足がもつれて倒れてしまうも、少女には怪我をさせないようなんとか背中から地面に落下する。

 ビルの屋上の地面が固かったせいもあるが、小さいとはいえ二人分の体重が乗っかっていたため、ちょっと涙が出そうなほどに痛かった。


「やだっ!! 離してっ!! 離してよっ!!」


 泣き叫びながら暴れる少女を、翔太は背中の痛みをこらえながら羽交い締めにする。

 異性とこんなにも密着したのは初めてだったが、その事実に気づく余裕は今の翔太にはなかった。


「あなた誰っ!? なにしに来たのっ!? なんで止めるのっ!?」


 半狂乱になりながらも泣き叫ばれた言葉が耳朶じだを打ち、翔太はようやく、自分がビルの屋上まで上がってきた理由を思い出す。


「……ぼくも、飛び降りようと思ってここまで来ました」


 あまりの気まずさに、敬語で白状する翔太。

 まさか、自分の自殺を止めた人間が、自分と同じように自殺を考えていたとは夢にも思わなかったのか、少女はピタリと動きを止める。


「………………………………………………………………え?」


 正気を感じさせる吐息が、すぐ傍から聞こえてくる。

 それはそれで喜ばしいことだけど。

 この後のことを考えたら、ますます気まずくなって。


「いや……なんというか……すみません」


 意味もなく謝ってしまった翔太だった。

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